第一章 コンスエロ【1】

 月夜だった。

 月、という言葉は、正確には固有名詞だ。地球――星系国家連邦の正式呼称では〈ソルⅢ〉――の衛星をさす。しかしどこの植民惑星でも、自星の衛星のことは、「月」と呼ぶのが普通だった。複数の衛星を擁する星では、大きさや色で呼び分けたり、あるいは単純に「何番目の月」と称したりする。

 この星でも、衛星のことを律儀に〈デオラⅡ―A〉などと呼ぶ者はまずいない。月は、月だった。

 さらに言えば、今夜は満月だった。

 惑星コンスエロ。正式呼称は〈デオラⅡ〉。ありふれたG型恒星デオラの第二惑星。

 首都のコンスエロシティは夜になっても大都市らしい明るさをたたえていて、街の中では、はちきれそうな満月といえども大した輝きには感じられない。しかし郊外へ来ると、月明かりの存在感は圧倒的になる。

 騒音や公害を慮って、シティの郊外それもいちばん遠いところに建設された宇宙貨物港へと向かう公道などは、その存在感がもっとも威力を発揮する場所だ。今夜、シティの中心部から貨物港へと走れば、真っ暗な行く手にぼんやりと浮かび上がる貨物港の灯りと、その上空で白い輝きを放つ月とが、夜空のキャンバスに描き出された絵のような佇まいを見せてくれるだろう。

 しかし――

 マグネトロンボードのバーハンドルにしがみついて港へと走り続ける逃亡者にとっては、美しい月明かりもただ恨めしいものでしかない。追っ手がヘリコプターでも飛ばせば、サーチライトなしの肉眼でだって容易に発見されてしまうのは確実だ。

 アリスは、まさに今、その状態にあった。

 着ている服は濃紺だから夜の暗さにまぎれてくれるだろうが、濁りのないブロンドの髪は憎らしいほどに月光を反射しているはずだ。どうぞ見つけて下さいと看板を掲げて逃げているようなものだった。

 シティを出てから、もう三時間以上も経っている。ボードにチャージしてあった磁力圧は尽きかけていた。パワーゲージがEを示せば、磁性体の斥力で路面から浮き上がって疾駆する魔法のボードは単なるハンドル付きの板切れと化してしまう。

 風が頬を殴る。冷たくて、痛い。唇が乾いて、うまく開かない。

 あと三分。あと三分もってくれれば、たぶん貨物港に逃げ込める。逃げ込んだあとのことは――逃げ込んでから考えよう。

 後ろを振り返る。追っ手の姿は肉眼では見えない。しかし、捜索が始まっていることは間違いなかった。

 アリスが特殊教育センターを飛び出してから三十分後、追跡が始まった。最初は、アリスの狙いどおり、シティの反対がわにある旅客港へ向かったらしい。しかし、ほどなくアリスの狙いは看破されたようだった。軍用の周波数で飛び交う通信がこちらへ近づいてくる〈音〉をアリスは聞いた。距離はわからないけれど、この道の後ろのどこかまでは来ているはずだ。

 宇宙軍の、警務隊が。

 軍の中の警察とでも言うべき一隊が、脱走したアリスを追ってくるのだ。

 ボードのスピードが鈍る。磁力圧の不足で推力が落ち、姿勢制御が曖昧になり、左右に揺れる。もうすぐ、貨物港の外周フェンス。そこまでもって。お願い――

 不意に、ボードの浮力がなくなった。パワー切れだ。

 慣性を保ったボードは、斜めに傾いだまま路面と激しく接触し、反動で大きくジャンプした。

「きゃあっ!」

 思わず叫んでいた。叫びながら、ハンドルを握り締めたまま、アリスはもんどりうって路面に叩きつけられた。右肩に激痛が走った。

 体がバウンドして、二度めに叩きつけられたとき、上からボードが降ってきた。ハンドルとボード本体のジョイントが壊れたのだ。

 アリスは咄嗟にハンドルを放り出し、背中を丸めて両手で頭を庇った。幸い、ボードはアリスからほんのわずか離れた場所に落下し、不愉快な衝突音を立てながら三度ほど回転して、止まった。

 しばらく、アリスは動けなかった。痛みはすぐに治まったけれど、気持ちが動転していた。

 そっと頭に手を添えてみる。まさか、大切な〈インタラプター〉が壊れたりはしていないだろうか?

 大丈夫なようだった。

 体のほかの部分にも触れる。大きなケガはしていない。膝をすりむいた程度だ。

 上体を起こした。フェンスまでは二十メートルほど。あのフェンスなら乗り越えられる。アリスは年齢のわりには小柄で、そのぶん身軽だった。初等学校のやんちゃな男の子みたいにフェンスをよじ登って向こう側へ降りることは簡単だ。

 スカートの汚れを手で払いながら立ち上がる。フェンスの向こうの貨物港を見やる。右手奥には管制センターがあって、ひときわ背の高い管制塔と、それよりやや低い警備塔がそびえ立っている。警備塔の上端では、強力なサーチライトが、獲物を探す猛禽さながらに左右へ交互に首を振っていた。

 それでも、その隙を狙って素早くフェンスを乗り越えるのは、さして難しくはない。港内に入れば、出港まぎわの船を探して、こっそりもぐり込む。できれば、巡回の定期便がいい。必ず一度は〈デオラⅨ〉に立ち寄るだろうから。

 アリスが足を引きずるように一歩を踏み出した時だった。

 ぐおん、という爆音が、遠くから響いてきた。小型の無限加速電子エンジンの音だ。

 振り向くと、遠くに黄色い光の粒が見えた。見る間に大きくなる。こちらへ近づいているのだ。

 何が近づいているのかは、考えるまでもなかった。

 背中から汗が噴き出した。いつものアリスなら、エンジン音を耳にする前に察知できていたはずだった。

 首からさげたペンダントに触れてみた。

 インタラプターの出力が最強にセットされていた。さっき転んだ拍子にダイヤルが動いてしまったに違いない。気づかなかった。

 弾かれたように駆け出す。たった二十メートルが天国と地獄のあいだの距離のように感じられる。

 フェンスに跳びつく。

 サーチライトが巡ってくる。急いで手を放し、身を潜める。

 エンジン音がひときわ大きくなる。

 サーチライトが逸れる。

 フェンスが段差になっている箇所に手をかけ、足を引きずり上げた。手をかけていた場所に足をかけ、手はさらに上へと伸ばす。ほどなくフェンス上端にたどり着く。一気に乗り越えた。

 サーチライトが巡ってくる。アリスはひと息に飛び降りた。転びそうになったが、なんとか踏みとどまり、すぐに宇宙船の繋留エリアへと駆け出した。

 軍の警務隊は、貨物港の正面ゲートへと向かったらしい。ボードの残骸や、アリスがフェンスをよじ登っている姿などは、目撃されなかったようだ。しかし、目的地が貨物港だと見抜かれている以上、結果は同じだ。彼らは港を捜索するだろうし、発見されるのは時間の問題だった。

 宇宙貨物船は、船体の大きさごとに繋留エリアが割り振られている。アリスが乗り越えたフェンスの辺りは、もっとも小型の、おもに近距離便の船舶のための区画だった。それでもアリスには、どの船も空を覆い尽くすほど巨大な金属の壁にしか思えなかった。下から見上げる宇宙船は、ふだん写真や映像で――ほとんどの場合は斜め上や横から――見る姿とはぜんぜん違う。美しさも流麗さもなく、ゴツゴツとした機能性の塊でしかない。

 この時間に出港する貨物便は少ないらしく、コンテナの積み込みや船の出港前点検などで立ち回る人影は、ごく少数だった。見咎められる危険性が低い反面、もぐり込めそうな宇宙船があまり多くないということにもなる。

 腰を屈め、作業員たちの目にふれないようにして、繋留エリアの中ほどへと走り出た。船体、ホバーパッド、貨物運搬用のクレーン。物陰から物陰へとたどりながら、目的を果たせそうな船を物色する。

 小型船のエリアから中型船のエリアへ。

 しかし、アリスの希望に合致するタイプの船は、ことごとく静まり返っていた。今夜は荷受けもないのだろう、運送業者や貨物船の乗組員とおぼしき人の姿も見えない。

 管制センターのほうで、ざわめきが起こった。作業車両用のゲートから、黄色い光の群れが進入してくる。

 警務隊の車だ。

 思ったより、早かった。

 まっすぐこちらに向かってくる。

 とにかく、どれかの船に隠れなければ。

 慌てて周囲を見回す。

 搭乗員ハッチやコンテナの搬入口が開いている船は、近くには一隻もなかった。

 その代わり、中型船エリアと大型船エリアの境界あたりに錆だらけの大きな箱がずらりと並んでいるのが目に入った。

 迷わず、そちらへ走った。

 箱はどれも上面に蝶番式の蓋があった。手近な箱の蓋の取っ手に手をかけ、力いっぱい引き上げた。

 重い。

「くっ……」

 声が漏れ、その声にアリス自身が肝を冷やした。

 振り返る。

 警務隊は接近してはいるが、まだ声が聞こえる距離ではないし、アリスを見定めた様子もない。

 もう一度、力任せに取っ手を引く。耳障りな音がして、蓋が開いた。

 ためらわずに跳び込む。

 蓋は自らの重みで勢いよく閉まった。

 真っ暗になった。

 靴の下に、ざくざくとした凹凸の感触がある。金属の匂いと、油の匂い。どうやら船の故障部品や廃材を収集しておくボックスらしい。分別して再利用に回すのだろう。

 ゆっくりとしゃがんだ。

 暗くて閉鎖された空間に身を置くと、落ち着きと、それと正反対の焦燥感とが、まだらのようにアリスの内心に去来した。

 収集ボックスに跳び込む直前に見た光景を思い浮かべる。中型船の繋留エリアの端に、コンテナ積み込み作業の真っ最中の船が一隻あった。貨物船ばなれした、シャープで力強い船影。あれに逃げ込めれば。

 蓋をそっと持ち上げ、外を窺う。

 目の前を黒いものがサッとよぎった。軍服だ。腰にパルスガンを吊っている。急いで蓋を閉めた。

「こちらクローレ」

 女の声が聞こえた。深みのあるアルト。

「再度、確認する。ターゲットはアリシア・ローゼンバーグ、年齢は連邦標準換算で十四歳、性別は女。着衣は開発技術局特殊教育センター中等課程の冬期制服。髪はブロンド。頭部にヘッドホン状の装具を着用している」

 口ぶりから考えて、この声の主が追跡行の責任者のようだ。

 ざざざ、と足音がした。部下が散開したらしい。

 足音が遠ざかり、静けさが戻ると、クローレという女の指示が再開された。

「当貨物港の出入り口は封鎖した。艦船の出港も足止めしてある。どこかに隠れているはずだ。しらみつぶしに探せ。最悪の場合、発砲を許可する。ただし、殺さずに捕らえろ」

 返事は聞こえない。通信機に向かって話しているのだろう。

「なお、通信を介しての指示はこれで終わる。全員、通信機の電源を切り、以後は一切使用するな。こちらの動きを察知される危険がある。無論、肉声での会話は言うに及ばない。ターゲットの姿を肉眼で捕捉するまでは沈黙を守れ。以上!」

 きびきびした口調だ。彼女の抱いている緊迫感が伝わってくる。アリスは無意識に身震いした。

 あたしが、何をしたというの?

 帰りたい……ヒルベルト先生のところに帰りたい……。

 膝を抱えた。

 ガン、ガンッ!

 大きな音とともに、収集ボックスが揺り動かされた。アリスは縮み上がった。体を固くして呼吸を止め、力いっぱい目を閉じた。

 見つかったか、と思った。しかし、蓋が開かれる気配はない。さっきの女が腹立ちまぎれに蹴飛ばしでもしたのだろう。

 音を立てないよう、注意深く息を吐いた。

 やっぱり、コンスエロになんか来るんじゃなかった。イヤだったんだもの。いくら先生の言いつけでも――

 アリスは、一年前からデオラ宇宙軍開発技術局所管の特殊教育センターに籍を置いている。そこには、アリスとよく似た来歴を持つおおぜいの子どもたちが在籍していた。

 ――要するに、ただの学校ですよ。

 アリスを送り出す際、ヒルベルトはそう言ってくれた。

 軍が所管しているのは、アリスたちはいわば人類が新たな時代を築くための大切な財産だから、国をあげて守らなくちゃいけないという配慮、ただそれだけのことなのですと。

 実際、センターでの暮らしは、ごく普通の学校生活だった。開発技術局と同じ敷地にあるというだけで、日頃から軍人が出入りするわけでもなく、どこにでもある寄宿制の学校と何も変わるところはなかった。ただ一つ、〈能力開発〉と呼ばれる、あまり楽しくない実習授業を除いては、だが。

 アリスにとって憂鬱だったのは、同じセンターに通う生徒たちだった。

 彼らはみな多かれ少なかれ、アリスと同じような境遇や出自の子どもたちだった。周囲にうまく溶け込めなかったり、原因もなく荒れたりしていた。誰もがアリス同様、他人とコミュニケーションする能力を著しく欠いていた。

 ほとんどの生徒とは真っ当な会話すら成立しなかった。アリスは、彼らが好きになれなかった。そしておそらく、自分も周囲からは同じように思われているであろうことをも、アリスは気づいていた。

 今日の夕方遅くのこと。

 センターの学舎から寄宿舎の自室に戻ったアリスは、部屋で飼っているミラをうっかり窓から逃がしてしまった。ミラは、見る角度によって羽毛の色が三種類に変化する〈トリコロール〉という種類の小鳥で、話し相手もろくにいないアリスにとって唯一の友だちと言ってよかった。

 アリスは急いで外へ出た。ミラは、そのまま飛び去るかに見えたが、寄宿舎の庭の真ん中あたりでゆっくりと舞い降りた。

 舞い降りた先には、同級生のテッドがいた。デオラⅢ出身の少年で、右半身の神経がマヒしており、いつも歩行器の助けを借りて生活していた。ふだんは大人しいけれど、時おり何の前兆もなく乱暴になることがあった。

 ミラは、テッドの肩にとまった。テッドはミラをそっと手でつかみ、顔の前に持ってきた。

 アリスがおずおずと歩み寄り、返して、と言おうとした矢先だった。

 テッドは、表情ひとつ変えず、手の中のミラをいきなり握りつぶしたのだ。ミラは、キュウとひと声発し、ほんの少し血を吐き出して、ぐったりとなってしまった。

 何が起きたのか、すぐには分からなかった。

 ようやく理解できたのと同時に、アリスは叫びながらテッドにつかみかかり、思いきり突き飛ばした。歩行器が倒れ、テッドは尻もちをついた。アリスはテッドの顔を張った。泣きわめきながら何度も何度も張った。

 張られながら、テッドはずっと笑っていた。

 力尽きたのはアリスのほうだった。薄笑いを浮かべたままのテッドを地面に押しつけると、涙を拭いながら寄宿舎に駆け戻った。

 二階あたりで、誰かが叫ぶのが聞こえた。今の騒ぎを窓から見ていたらしい。舎監を呼んでいるようだった。

 こんなところにいたくない。もう、イヤだ。

 寄宿生共用のマグネトロンボード置き場へ走った。手近な一台に飛び乗ると、すぐにスターターを回した。

 貨物港へ向かったのは、アリスなりの作戦だった。最悪のケースは、舎監が惑星警察に通報して捜索願いを出すことだ。旅客港には連絡が行き、チェックが厳しくなる危険性が高い。その点、貨物港は盲点のはずだ。

 だいいち、まさか本気でコンスエロから逃げ帰ろうとしているなどとは、おそらく舎監も予測していないに違いない。

 しかし、何と言うことだろう。アリスを追ってきたのは、舎監でも警察でもなく、軍の警務隊だったのだ。

 捕まったら、どうなるのだろう?

 まさか、殺される? どうして?

 考えても分からない。自分が少し特別な存在であることは認めるけれど、軍などに追われる覚えはなかった。

 絶対に逃げ切らなければ。

 胸のペンダントのダイヤルを回す。インタラプターの遮蔽出力をゼロにした。不安だが、少しの間なら自力で耐えられる。

 耳を澄ませた。通信機は電源を切ったらしいが、パルスガンはどうだろう。

 予想どおりだった。パルスガンの〈音〉が遠ざかってゆく。指示を出していた女が収集ボックスから離れていったに違いない。

 充分に遠ざかったのを確認してから、ダイヤルを戻し、ゆっくりとボックスの蓋を押し上げた。

 目の届く範囲に人の姿はない。

 チャンスは、今しかない。

 するりとボックスを抜け出す。静かに蓋を閉める。

 さっき目をつけた中型船のコンテナ積み込み作業は、まだ終わっていない。今なら間に合う。

 腰を屈めたまま小走りに駆けた。

 積み込みを行なっているのは自動式のクレーンだ。どこかにコントロールしている作業員がいるはずだが、作業を常に注視しているわけではないだろう。コンテナの陰に隠れ、クレーンが吊り上げる瞬間にしがみつけば、船内にもぐり込める。

 そのまま出港を待てば。

 警備塔のサーチライトがひとめぐりして、アリスを捕らえた。その瞬間、ひとつの思考が脳裏をかすめた。

 待って。確か、さっき、こう言ってなかった?

 当貨物港の出入り口は封鎖した。艦船の出港も足止めしてある――

「ターゲットを確認! 総員、参集乞う!」

 若い男の怒鳴り声が背後で轟いた。

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