あの日、空に還った貴方へ
蒼空花
貴方に、還らない
例えば、俺に好きな人がいたとして。
それがもう、叶わないものだったとしたら、その想いを俺はどうするべきなのだろう。
捨てるのか、封じるのか。それとも一生、抱えて生きるのか。
……そんなの、選べるはずがない。
だって、だって。今でも未練がましく想うぐらいには、俺は貴方を愛している。
───だから。
「もう俺に、関わらないでくれませんか」
これ以上、貴方と居たら。
この世の者ではない、貴方と居たら。
もう俺が、戻れなくなってしまうから。
『──俺が貴方を愛したことは、間違いだったのでしょうか』
陽の光に溶けるように揺れる、オレンジ色の髪。
もう、この世界にはいないはずの人──
それでも、目の前に立つ貴方は、まるで生きていた頃のままだった。
「ねぇルイくん?何で無視するの?」
「…………」
「ねぇってば」
「……っ、俺に関わらないで下さいよ!もう、もう良いでしょう……!?」
陽だまりのように優しい声。あの日と何も変わらない表情。けれど、その姿を見るたびに、俺の胸は軋んだ。
そう、あれからずっと、ノアさんは現れるようになった。
──あの、交通事故の日から。
もうこの世にはいないはずの貴方が、まるで当然のように、俺の前に立ち続ける。それが、怖かった。
どんなに愛おしくても、どんなに会いたくても、どんなに触れたくても。
貴方はもう、俺の手の届かないところに行ったはずだから。
それなのに、今もこうして関わり続けてくるのは、何故なんですか。
「……ルイくん、違うの」
「何でですか、ノアさん」
「まだ一緒に居たい。ルイくんと、もっと一緒に居たいの」
「……それはもう、遅すぎるでしょう」
願うには、抱くには。それに、叶えるにしても遅すぎる。
俺の言葉に対して、悲しそうにノアさんは目を伏せた。その顔に、思わず俺はうっ、と胸を詰める。……凄く申し訳なくなる、そんな顔をされると。
──でも、思った。どうして『俺の想像の中のノアさん』と同じ顔を、今のノアさんがしているのだろう。それは、俺しか知らない表情なはずなのに。
……いや、待て。絆されては駄目なんだ。俺は、貴方に囚われる訳にはいかないんだ。
そう言い聞かせて、俺は当たりを漂うノアさんの手を取った。その手首は、嫌になる程知っていた細さで──
「あっ、ルイく……!?」
「……っ、貴方は、あの人の隣に居るべきなんですよ」
ノアさんの左手の、薬指に光る指輪が、ちらりと目に入った。見間違いようもない。あの日、あの人に渡されたものだ。
「なん、で……そんな事言うの?ルイくんが居れば、それで良いのに……!」
ノアさんの声が刺さるたびに、心が軋む。
どうして今さら、そんなふうに笑うんですか。
そんなことされたら、俺がまだ、貴方を望んでしまうじゃないか──
俺が発した言葉に対して、そう、泣きそうな声で俺に縋ろうとしたノアさんから走って逃げる。
……苦しい。ずっとずっと、こんな事を言わなきゃいけないなんて。
雨に降る中、俺は傘も差さずに家まで走って帰ったのだった。
『ねぇルイくん。一つお願いがあるんだけど』
『何ですか?変なお願いじゃなければ聞きますけど』
『変なって何!?いや違うの、最近ね、後輩が迫ってきて面倒で……』
『あぁー……』
『だからルイくんに、付き合ってる振りをして欲しいの!駄目?』
パン、と軽快な音を立てて合わせられた手と、ノアさんの顔を交互に見て、俺はしばし思案した。別に、俺も先輩に迫られてて困っていたところだから、願ってもない事だ。しかし、ノアさんには確か……
『許婚、居ますよね?良いんですか?』
『……良いよ。だって“ノア”は、都合の良い”物”じゃないの』
その言葉に、俺は一瞬言葉を失った。ノアさんの目が、どこか遠くを見ているようで──笑っているのに、少しだけ泣きそうだった。
『……それ、演技ですか?』
『さあ、どうだろうね?』
奔放な言葉とは裏腹に、心の奥底に潜む常闇の影。それでも、断る理由など無い。そうして、そんな風に交わされた言葉によって、俺とノアさんは付き合う事となった。
──そう、だから。
完全に、利害が一致した。ただそれだけ。
ただそれだけの関係だと、そう自分に言い聞かせて。
今となっては、泡沫のようなその会話を思い出す。
あの時のノアさんの笑い方、仕草、言葉。その全てが、まるで夢の中の再現のようで。どこか薄いフィルム越しに思い出をなぞるような──そんな、現実味の無さがあった。
時間の経過は、大切な思い出さえも色褪せさせてしまうらしい。忘れたくはないのに、声も、表情も──今ではもう鮮明に、思い出すことが出来なかった。
そんな感情を振り払うように、すっ、と写真立てを指でゆっくりなぞる。中に入っているのは、二人で海で撮った写真。快活なオレンジ色と、息を呑むような深緑色が、幸せそうに笑っていた。
「……でも、自分の心には逆らえなかった。だってずっと、好きだったから」
泣きたくなるぐらい愛おしいその思い出をそっと抱きしめて、心の中で呟く。
……好きだから。愛しているから。
「……だから貴方には、幸せになって欲しかった。例えそれが、俺じゃない誰かだったとしても、それで貴方が救われるなら──それで良かったんだ」
幼い頃から許婚に縛られて、好きな事をさせて貰えなかった子供時代。それでもノアさんは笑って、俺に自由になったらやりたい事を嬉々として話すのだ。
だから、そんな貴方を少しでも救いたかった。
そう思った幼い俺は、こっそりと許可なくノアさんを外に連れ出して、色々な場所に行って、色々な事をした。そんな事をしたから、ノアさんの親や許婚に、怒られた事だって何度もあった。倉庫の中で一晩凍えたこともあった。殴られた事だって、一度や二度じゃなかった。
──それでも、楽しそうに笑うノアさんを見たら、そんな事、どうだって良かった。
一秒でも長く、ノアさんの傍で笑顔を見ていたかったんだ。
──────
初めて夜の公園で見上げた空を、覚えていますか。
煌めくような空の下。透き通るような空気の中。俺たちだけが、暖かな存在を抱いていた事を。
「これが、自由なのかな?」
そう言って、花のような笑顔を俺に見せた貴方。
吸い込まれそうな夜空に、光が一滴、零れたようだった。花でも星でもない──ただ『自由』が、あの瞬間だけ形になった気がして。
自由なんて言葉、俺たちには縁がないと思っていた。それなのに、あの笑顔を見たときに──俺は、もう戻れない。そう感じてしまった。
そう。だから、あの時。
『──あぁ。俺、この人が好きだ』
俺が恋に落ちた瞬間は、確かにあの日だったのです。
──────
そして翌日。激しく降る雨のせいで、学校が休校になって。俺はする事もなく、ただベットの上で無駄な時間を過ごしていた。
静かに本を捲る音。それに混ざるように、だんだんと雨音が強くなる。その音のせいで、過去の記憶が鮮明に蘇ってきて。
無意識に息を詰める。違う、今は昔のあの場所ではない。
そう言い聞かせても、心の奥底に残る恐怖は、嫌でも頭の中に現れた。
『何で貴方って子は私に逆らうの!?あれほどノアを連れ出さないでって言ったじゃない!』
『ノアを誑かす不届者め。言葉で伝わらないなら、行動で思い知らせるしかないよな?』
『貴様なぞ凍え死んでしまえば良い!ノアには不要だ!』
様々な声が織り混ざる。聞きたくなくて、自ら耳を塞いだ。
その時──ある一つの声が、俺の心に響いた。
『──なんで、そこまでしてくれるの?』
鈴の音のような、柔らかな声。何度も貰って、それでももっと欲しいと、渇望した音。
それでも、今となっては願えない音。
護りたかった。太陽みたいな笑顔を、貴方という存在を。ノアさんを物のように扱うあいつらから護りたくて、そして、許せなかったんだ。
だからこれは、ささやかな反抗で。そう、俺の事はどうなっても良い。
──ただ貴方が幸せなら、それで良いんだ。
しばらくして、コンコン、と窓を叩く音がした。それは、いつもノアさんが俺の部屋を訪れた時の合図。それに気付いた俺は、ため息を吐きながら窓を開けた。
「……また来たんですか?今度はなん──」
「──ルイくん」
「っな、何ですか…?」
重く、何処までも沈みそうなその声に、俺は思わず息を詰めた。俯いているから、表情は読み取れない。それでも、いつもとは違うノアさんの雰囲気に、無意識に背筋が伸びた。
「……空に、還ろうと思って。だからルイくんに、お別れしに来たの」
「え……?」
『還る』──その言葉を聞いた瞬間、何故だか胸が締めつけられた。
ノアさんの方を、改めてもう一度見る。いつもと変わらない、ノアさんだ。見た目も、声も、立ち振る舞いも、話し方も、全て。
………違う。こんなに、何もかも変わらないなんて、おかしい。
まるで、俺の記憶の中にいたノアさん、そのままで──
「……あぁ、そうか。全部、繋がった」
ノアさんはきっと、もう──最初からあの空の向こうに還っていたんだ。
俺が見ていたのは、貴方じゃない。ただの、俺の記憶だったんだ。
「っでも、待って、ノアさん!なんで……?」
「……だって」
焦る俺の言葉に対して、小さく紡がれたノアさんの声は、雨音にかき消されそうなほど、かすれていて。いつもの快活な声からは遠く離れた、そんな声で。
「だって、そんな顔されるなら……やっぱり、要らないよね」
その言葉に、胸が痛む。けれど、それはノアさんの声でありながら、どこか俺の中から聞こえてくるような──そんな気がした。
「──っ違う、そういう意味じゃ……!」
「優しいね、ルイくん。そういう所、大好きだった」
窓から離れようとする手を、いつものように掴もうとして──出来なかった。
まるで、俺が関われないように、ノアさんの記憶が、優しく拒んでくるようだった。
俺が、二度と抜け出せなくなる前に。想い出の檻に、囚われないように。
「……ごめんね。ルイくんの時間を、縛ってばかりで」
「…………」
「……優しいから、黙って耐えてくれてたんだよね」
いつものような柔らかい声ではなく、張り詰めた、凍るような声。幻なのに、感情なんてあるはずがないのに──それでも、ノアさんが泣きそうな顔をしているように見えてしまう。
あの日と同じように、笑顔で取り繕って、自分の心を隠している……そんな風に思えてしまうのは、俺の記憶が、勝手にそうさせているのかもしれない。
「───ノア!」
くるり、と背を向けたノアさんに、その声が届く。
「大好きです、愛しています。昔も、今も──これからも」
「………っ、はは。ルイくん、ずるいなぁ……」
一筋の涙が溢れる。激しく打ち続ける雨の中、それは一際目を引いた。
ノアさんの涙は、雨に溶けて消えていく。まるで最初から──誰の記憶にも残らない者の涙のように。
「だからまた──逢いましょう」
それは、伝えれなかった言葉。一生抱えて生きると、そう決めた感情。
俺の言葉に、ノアさんが微笑んだような気がした。
まるでその瞬間だけ、記憶の中のノアさんが生き返ったようで。俺のその言葉を待っていたかのように、ノアさんは溢れる涙を拭う。
そうして、俺に見せたノアさんの笑顔は──
──この世の何よりも美しいと、そう思った。
例えば、俺に好きな人がいたとして。
それがもう、叶わないものだったとしたら、その想いを俺はどうすれば良かったのだろう。
捨てるのか、封じるのか。それとも一生、抱えて生きるのか。
……そんなの、選べるはずがない。
だって、だって。今でも未練がましく想ってしまうほどには、俺は、貴方を──
「……次こそは、ちゃんと隣にいさせてください」
幻でもいい。記憶でもいい。
例えそれが、本当の貴方では無かったとしても。
それでも、俺は──
「きっと、貴方に還る」
その言葉を呟いた瞬間、風が頬を撫でる。 それは、懐かしい匂いがして。思わず──泣きそうになった。
俺はただ、それだけで。
──それだけで、十分だった。
『──叶わなくてもいい。ただ一瞬でも、俺が貴方の空にいたなら、それでいい』
あの日、空に還った貴方へ 蒼空花 @seikuka-0923
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