後編
第3幕「惚れる私」
「これが、小惑星探査計画の概要だ。それで小型探査機を近くの工業大学で実験するとかなんとか聞いたぞ。あそこも航空宇宙をやってるからな。なにか、一緒にできないだろうか?おい、聞いているか?」
私は部室の黒板にチョークを走らせながら、熱のこもった口調で語っていた。図解した小惑星探査機の構造は、我ながらなかなかの出来映えだと自画自賛していた。
振り返ると、彼はいつものように机に肘をつき、気のなさそうな顔でこちらを眺めている。
「ん? ああ、ぼちぼち聞いてるよ。小惑星って簡単に行けそうだけど、案外大変なんだね。なかなかドラマがある感じ? うまくいくのかな。」
彼はやる気なさそうに見えて、いつも部活には顔を出してくれる。私は、もしかして……と期待してしまう。
「お前は、いつも聞いてないふりをして、意外とちゃんと話を聞いてるな。本当は、天文に少しは興味があるんじゃないか?」
私は教壇からゆっくりと歩み寄った。手にしたチョークを指先でくるくる転がしながら、彼の表情をうかがう。
彼は軽く肩をすくめてから、視線を私に戻した。
「そうかな? まあ、話の内容によっては、ちょっと面白いと思ってるよ。全部は理解できてないけど。」
私の話を聞いてくれるのは、いつも彼だけだった。それが悲しくて──けれど、同時に嬉しかった。
「お前が天文部の活動に毎回参加しているのは、それが理由なのか?」
私は机の端に手をつき、彼を覗き込むようにして尋ねる。
今では部室に来るのは私たち二人だけになっていた。改革を始めてから先輩たちも姿を見せなくなり、同級生も徐々に離れていった。自分のやり方が本当に正しかったのか、私はずっと考えていた。
「ん~、まぁ暇だからね。」
彼はそう言うけれど──本当に、それだけだろうか?
「お前、いつも『暇だ』って言ってるが、それは本当なのか? 中学の頃から付き合ってる彼女がいるって聞いたが。」
言った瞬間、私は後悔した。空気が一瞬にして凍りついた気がした。
彼のまばたきがゆっくりになる。
──やってしまった……。
「いや、詮索してしまった。悪かった。」
私はバツが悪くなり、机から身を引いて視線を床に落とした。声を絞るようにして謝る。
彼は静かに首を横に振り、少し柔らかな口調で言った。
「椿さんが謝ることないよ。」
彼はそのまま、言葉を探すようにゆっくりと話し始めた。
「そうだね。春頃は彼女とよく出かけてた。高校が違って、話すことも新鮮でさ。でも、そのうち話が噛み合わなくなってね。向こうも忙しくなったみたいだし、最近はあんまり会ってない。……まあ、それで暇ってわけ。」
笑っているけれど、その目はどこか遠くを見ている。瞳の奥にかすかな寂しさが垣間見えて、胸がチクリと痛んだ。
私の部活への情熱が、もしかしたら彼を無理に引き止め、傷つけていたのかもしれない。そう思うと、自分が情けなくて仕方がなかった。
気づくと私は涙ぐんでいた。顔がくしゃっと歪むのを、どうしても止められない。
「お前はすごいな。そんな辛い思いを抱えながら、いつも冷静に振る舞えるなんて。私はそんなこと到底できそうにない。そんなことも知らずに、いつも付き合わせて悪かった。天文部が嫌だったら辞めてもいいんだぞ。」
声が震えていた。でも、本気でそう思った。彼がもう我慢しなくて済むなら、それでいいと。
「別に嫌ってわけじゃないよ。彼女とも天文部の話はしてたし、椿さんの……変なキャラとか、面白くて、ネタにしてたし。」
彼は肩を軽くすくめ、ふっと笑った。その笑顔が少しだけ私の胸を軽くした。
でも──
「お前は、私をそういう風に見てたのか?」
私はむっとして、口をとがらせた。
すると彼は、いたずらっぽく笑って──
「はは。椿さん、ちょっと変わってるでしょ? 自分でもそう思ってるんじゃない? でも僕は、そういうところ好きだよ。僕は普通の人間だから、そんなふうに振る舞える強さないし。」
不意に胸がきゅっと締めつけられた。
……変わり者の私を、好きだって。
社交辞令かもしれない。それでも私は嬉しかった。
「そ、そんなものか? ま、まぁそうかもしれないな。」
視線を向けられるのが恥ずかしくて、私は顔をそらした。
それから、彼と話す時間が少しずつ増えていった。
彼の笑い声。まっすぐな目線。私を変わり者だとからかう仕草。
私は気づいていた。
この一年ずっと──私は彼に惹かれていた。
でも。
……それなのに、なんで、あんな酷いことを言ってしまったんだろう?
明日、私はどんな顔で彼に会えばいいのか、わからなかった。
***
第4幕「決意の私」
水曜日の午後。
いつものように鞄を抱えて部室の前まで来た。──けれど、ドアに手をかけた寸前、指が止まった。
顔を合わせるのが怖い。晴人は昨日の言葉を、きっと覚えている。
……無理だ。
私は踵を返し、そのまま校舎を後にした。
なんて最低なんだ。自分で観望会を企画しておいて休むなんて……。後輩にも申し訳が立たない。
帰宅してからも、自己嫌悪の波は止まらなかった。
スマホが鳴ったのは、夕食前のことだった。
後輩の瑠璃からのメッセージだった。
『椿先輩、体調大丈夫ですか?
観望会の準備は晴人先輩と進めています。開催の目処はつきそうです。
心配しないで身体を休めてくださいね。』
思わず起き上がって、画面をじっと見つめる。
──彼は私が体調不良で休んだことにしてくれて、しかも観望会の準備まで進めてくれていた。
胸に手を当てる。
……晴人は、私を守ってくれる。
まるで少女小説のヒロインになった気分だった。彼はピンチのときに助けに来てくれるナイト様みたいだ。
部屋の空気がふわっと明るくなった気がして、なんだか急に恥ずかしくなった。思わずそばにいた黄色いクマのぬいぐるみまで殴ってしまった。
でも──
その温かさすら、わたしの罪悪感には勝てなかった。
優しい彼と比べて、自分は……なんて酷い人間なんだろう。
謝ることすらできない。会いに行く勇気も出ない。
──彼に会って、いったい何を話せばいいんだろう?
クマのぬいぐるみに聞いてみたけど、「殴ったのにずいぶん虫がいいんだよぉ」としか言ってくれない。
その翌日も、そのまた翌日も、私は部室に行けなかった。
土日も、部屋でただ悩み続けていた。プレゼントを買いに近所のショッピングモールに行こうと考えたけど、気づけば夕方。また気づけば日曜の夜だった。
悩みに悩んだ末、私は布団の中で吹っ切れるようにこう思った。
──私が好きなんだから、それでいいじゃないか。彼に、ちゃんと謝ろう。
私はぐっと拳を握りしめ、心にそう決意したのだった。
***
第5幕「泣く私」
月曜日の夕方。
冬の風が頬を刺すように冷たかった。
私は、土日ずっと引きこもっていてできなかった「クリスマスプレゼント探し」をようやく始めようと、港のショッピングモールに足を運んだ。
──勉強熱心な晴人のことだ。今ごろ補講を受けているだろう。
お店を一通り回って、モールの端にあるウッドデッキに出たとき、ふと思った。
……うん、やっぱり、何を買えばいいか分かんなくね?
潮風が吹き抜ける。海の向こうには、冬の黄昏が広がっていた。
私はそのまま肩を落とし、帰ることにした。
足取りは重く、石畳が敷かれたレトロ通りをゆっくりと歩いていく。
遠くの海で汽笛が鳴った。低く、切ない音だった。
──そのとき。
「椿さん。」
背後から聞こえたのは、聞き覚えのある声だった。
「前に言ったよね。僕が情熱を持っていることが分かったら、教えるって。」
……時が止まった。
足が固まり、呼吸も止まる。
ゆっくりと振り返ると、そこには制服のまま立つ彼の姿があった。目の奥に、静かな決意が宿っていた。
私の頭の中のコンピューターはフル回転。なんで彼がここにいるの?補講は!? あぁ、それよりも、どう反応すればいいの?
「そ、そう…だったな。お前は約束を守る側の人間だったようだ。」
出てきたのは、いつもの偉そうな言葉だった。
……なにやってるの、私……。
私のコンピューターは完全に壊れていた。
「ははは、厳しいね。もちろん守りますよ。守れる約束ならね。」
その一言で、私は一年前の記憶に引き戻された。
あのクリスマスイブ。彼は叶わぬ“約束”を、バカみたいに待ち続けていた。
──また、待たせてはいけない。
「そうか……そうだな。あの時のお前は、必死に約束を守ろうとしていた。
……わかった。それで、お前の“情熱”はなんなんだ?」
彼は一歩、私の方へ近づいてきた。その眼差しはまっすぐで、揺るぎなかった。
「“あの日”、君に『情熱がない』と言われてから、なぜそんなことを言ったのか、ずっと考えたんだ。」
その声は静かで落ち着いていて、でも確かに熱を帯びていた。
「君はいつも偉そうなことを言うけど、実は誰にでも優しいってことを、僕は知ってる。」
ゆっくりと言葉を選ぶように、彼は続けた。
「去年のクリスマスイブ、僕は叶わぬ約束を守って公園でひとり待ってた。……そんな僕を、君が迎えに来てくれた。星を見に来た、なんて下手な言い訳をして。」
口元には微かな笑み。でも、その瞳は真剣だった。
「それ以来、君と話すのが楽しみになった。からかいながら話すのが、楽しくて仕方なかった。」
── あの夜、彼はずっと泣いていた。私はそっと寄り添い、「星が綺麗だね」とぎこちなく言った。
あの夜の記憶を、今年こそ上書きしたかった。それが、私の観望会の本当の理由だった。
「それで、何が言いたいんだ?」
問いかける私の声が、かすかに震えた。
「君は、きっと僕の気持ちに気づいていたんだと思う。だから、あの日、君が僕に『情熱がない』って言ったのは──」
「僕が君に対して持っている情熱に、気づいて欲しい。もっと、目を向けて欲しいって……そういう意味だったんだろう?」
レトロ通りに、ぽつりとガス燈が灯り始めた。
古びた装飾枠のランプが、石畳を柔らかく照らし、黄昏の空気に温かな光を溶かしていく。
「そ、そうだ。お前の表情から、お前の好意には気がついてた。」
……そう、彼は最初から私の方を見ていた。
「……椿さんのことだから、もっと確信があるのかと思ってたよ。」
いや、そもそもだ。こんな偉そうな女とずっと一緒にいて、くだらない話にまで付き合ってくれるなんて、好意があるに決まってる。
過ごしてきた日々が次々とフラッシュバックする。彼の言葉、仕草、表情。私をからかうような口調──
「わたしも……お前と話すと、いつも胸が熱くなる。偉そうに振る舞ってる私の話を、聞いてくれるのは……お前だけだ。」
……でも、感情が高ぶるほど、自分の中の劣等感が胸を引き裂いていく。
「それなのに、お前に『情熱がない』なんて……なんて酷い言葉を……。
わたしは……私は人の感情も理解できない、本当に最低な女なんだ! お前に好かれる価値なんて、ない。」
──怖かった。本当のわたしを知られて嫌われるのが。本当のわたしは、ただの劣等感の塊なのに。
そんな私を、彼はすぐさま否定する。
「そんなことないって。そのおかげで僕は、自分の気持ちに気づいたんだから。」
「違う! 私は勝手に、お前が私に好意があるって思い込んで、プレッシャーをかけた。お前はそれに負けて、あんなこと言っただけだ。気づいたとか、そんなの嘘だ。確信なんてなかったんだ。私はバカだ……いつもそうだ……素直になればよかったのに、自分を守るために偉そうにして……」
声が震える。視界が滲む。
……わたしはずっと暗闇の中にいた。ガス燈の微かな光だけが頼りだった。嫌われるくらいなら、いっそ嫌いにさせればいい──今までだって、ずっとそうやってきたんだ。
「椿さん、僕は君のこと――」
「だ、だめだ。最後は私が言う。素直になれない私なんて、もう要らない!」
涙がこぼれそうになるのを必死で堪えながら、私は彼をまっすぐに見据える。
「私は、知ってる。私は、その辺の男には惹かれないんだ。お前には、私が本気で惚れるくらいの価値がある──
でもな! 私にはお前と付き合うだけの価値も資格もない。素直になれないせいでお前まで傷付けて……
結局、私は可愛げなんてひとつもない。偉そうなだけの女なんだ! お前だって、こんな面倒くさいバカな女と付き合いたいと思わないだろ?!」
叫ぶように吐き出したあと、空気がすっと静まり返った。
ガス燈の光が、雪のように私たちを静かに包む。
その沈黙の中、彼がぽつりとつぶやいた。
「……ん?」
戸惑ったように眉を上げた彼は、ほんの少し笑って、ゆっくりと続けた。
「つまり、一緒にいたいってこと??」
「ち、違う…。」
「でも、そんな言い方されたら、『そんなことないよ』って返すしかないよ。情熱については言わされたかもしれないけど、一緒にいて楽しいって僕の気持ちは本物だよ? そう言ったでしょ?」
その言葉が、じわじわと心に染み込んでいく。
ガス燈が連なるように灯りはじめ、通りの景色がゆっくりと色づいていった。
「椿さん、こんな時、普通なら素直に『付き合って欲しい』とか、『他に好きになってくれる人がいるかもしれない』とか、そんなこと言うんだよ。」
「そ、そんなこと。」
図星だった。全部、見透かされてる。
嫌われたくない。振られたくもない。誰にも渡したくない。……悔しい。
「あぁ、もう! わかったよ。気持ちはよくわかった。付き合いますよ、椿さん!」
彼は頭をかきながら、ちょっとだけ照れくさそうに、でもしっかりと宣言した。
「なっ!? わたしは真剣に悩んだんだぞ。こんなんだから『情熱がない』とか言われるんだ。バカ。」
……な、なんてテキトーな告白なの! めっちゃムカつくんですけど。
「ごめんごめん。椿さんのそんな素直じゃないところが、本当に可愛いんだ。」
遠くで、街の時計塔が鐘を鳴らしはじめた。
その音に呼応するように、レトロ通りのイルミネーションが一斉に輝きを放つ。
私は、目を見開いて、息を呑んだ。
──こんな、偉そうな性格の私を、「可愛い」って言ってくれる人がいるんだ。
「僕も知ってる。プライドがバカ高いところとか、そのくせ優しくて純粋なところとか。ずっと見てきたんだから。」
彼の目が少し潤んで見えた。そして、ほんの一瞬、何かを思い出したような表情を見せたあと、大きく息を吸い込み──
「だから僕は、全部……全部受け入れますよ。そんな君のことが、好きでたまらないんだから。」
街路樹の枝先に飾られたイルミネーションが、彼の輪郭を柔らかく照らす。
その姿はまるで、乙女ゲームの告白シーンみたいで──
私は顔を伏せて、心の中でつぶやいた。
……ず、ずるい。
そんなこと言われたら、わたし、どうしたらいいの?
通りを静けさが包み込む。
風がやさしく吹いて、スカートの裾をふわりと揺らした。
気づけば、私は彼に近寄っていた。
「椿さ…」
彼が何かを言おうとした、その瞬間──
私は彼の言葉を遮るように手を伸ばし、悔しながらにキスをした。
桟橋から駅へと続くイルミネーションが、静かに瞬きながら、私たち二人を祝福しているようだった。
わたしは、不意に自分の頬をつたう涙に気づいた。それは、一年間待ち続けたわたしの、情熱だった。
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