鬼堂老街の夜
神崎あきら
第1話
くすんだ臙脂色のボンネットバスを降りたのは私一人だった。数人の乗客を乗せ、排煙を上げながらバスは夕闇に馴染む山道を登ってゆく。降車ボタンを押したのは本当に私だったのだろうか。ここへ来るまでの記憶はひどく曖昧だ。日焼けした庇の停留所にある地名の看板は錆びついて読めない。
坂道からは海が見渡せた。不穏な曇天が重くのしかかる海は鈍色で色彩と呼べるものはない。遥か向こうに竜の尾の形をした半島のシルエットが横たわる。その先端に消えかけの線香花火のような光が仄かに灯るのを見た。あれは灯台だろうか。消え入りそうな光を見つめていると心がざわめいた。坂道を往来する人も車もない。次のバスはいつやってくるのだろう。停留所には時刻表も無かった。
私は目の前に横たわる坂道を登ることにした。登りを選んだのは道を間違えたことに気づいたとき、登り坂を引き返すのは骨が折れるからだ。
山にへばりつくような急なカーブを何度も折り返す。同じ風景が稚拙な絵画のようにどこまでも続いている。夜が近づく海はいよいよ闇の色を強め、私は遠い潮騒の音に追い立てられるように歩いた。七つ目のカーブを曲がった先に微かな明かりが見えた。闇に慣れていた私はおそるおそる近づいてゆく。明かりの導く先には狭い路地が続いていた。路地の入り口には古めかしい一枚板の看板があり、「鬼堂老街」と書いてある。この先に町があるのだ。極端に人恋しくなっていた私は鬼堂老街へ続く路地へなんの躊躇いもなく足を踏み入れた。
低いトタン屋根のアーケードにコンクリートの野暮ったい道、両脇には商店が並んでいる。しかし、どの店もシャッターが降りたまま人の気配はない。入り口に掲げてある地図を眺めると、入り組んだ道はまるで迷路のようだ。一度入ったら戻ることはできるのだろうか。私は急に不安に駆られる。しかし、戻るとは一体どこに。私は裸電球のぶら下がる薄暗いアーケードを進むことにした。その路地はいくつもの分岐があり、上へ下へ曲がりくねった階段が果てしなく伸びている。ブロック塀の上に寝そべっていた黒猫が退屈そうにあくびをした。
まっすぐ進んでいたつもりが道自体が曲がりくねっており、私は方角を見失ってしまった。振り向けば気づかぬうちに坂を上下したのだろう、もはや出口は見えない。
このまま先へ進むしかない。私は肚を決めて路地をひた進む。ふと、この階段を登ってみようかという気になる。しかし、今ここで脇道に逸れたら本当に迷子になってしまうだろう。私は少しくらい冒険したら良いではないか、いやとにかくまっすぐ進むのだ、という心のせめぎ合いをどこか他人事のように捉えながら惰性で足を動かした。
道には必ず行き止まりがある。アーケードが途切れた先にぼんやりと灯りの灯る古い木造の建物が見えた。ここに来るまでずいぶん心細くなっていた私には煌めく希望の光に見えた。小さな電球が鬼堂茶房と書かれた看板を照らしている。ここは喫茶店だ、私はホッとして扉を開ける。立て付けの悪い扉がガタガタと音を立てて開いた。
店内は夜の闇を流し込んだように薄暗く、客のいる気配はない。
「ごめんください」
私は声を張り上げたつもりだった。しかし、それまで人と話していないものだから干からびた喉からは雑音が飛び出した。私は咳払いしてもう一度ごめんください、と呼びかけた。
長い囲炉裏に丸い鉄瓶が並んでいる。その数は九個。鉄瓶の口からは白い蒸気が上がっている。今し方誰かが火を焚べて水を満たした鉄瓶を置いたようだ。古い木の棚にはたくさんの引き出しがある。その一つ一つに見慣れない組み合わせの漢字のラベルが貼られていた。古い時代の薬局の薬棚のようだ。ここは喫茶店ではなかったか。疑問はすぐに解消した。太古の時代にお茶は薬と同等に扱われていたことを思い出す。
「いらっしゃい、何かお探しですか」
番台から老婆が顔を上げた。背中を丸めて座っていたため、顔がすっぽり隠れていたのだ。小柄な老婆はしわくちゃの顔だけをこちらに向けて私を凝視する。
「何か飲み物をいただけませんか」
「とっておきのお茶を淹れましょう」
私は奥のテラス席へ案内された。崖から張り出したウッドデッキのテラスは蔓草が絡まり森と同化しようとしていた。屋根から吊るしたランタンの光が印影を模る。テラスからは真っ暗な海が見渡せた。波が岩にぶつかって砕ける音が聞こえてくる。その度に潮の匂いが強くなる。
私は無骨な木の椅子に座る。足下を見ると床板の隙間から断崖が見えた。この隙間から足を滑らせたら断崖に激突して粉々になってしまうかもしれない。ふとそんな想像をして胃がふわふわと水に浮くような錯覚に遊ぶ。
老婆が湯呑と鉄瓶を持ってきた。湯呑には黒焦げの木の薄皮のようなものがいくつか入っている。これは高山でしか取れない貴重な茶葉だという。老婆は鉄瓶から熱湯を注ぐ。すると黒い茶葉は行儀良く湯呑の底へ沈んだ。
「甘い花の香りがするよ」
老婆が湯呑に鼻を近づけて香りを体験するよう促す。私は湯気を吸い込んでみたが、鼻腔が匂いを感じ取ることはなかった。
「わからない」
老婆は私を不粋だと言って興醒めの表情を浮かべた。だが本当に何も匂わなかったのだ。茶を口に含むと、白湯のように味がしない。
「おかわりは自分でどうぞ」
鉄瓶の湯が無くなるまで好きなだけ飲めば良いということだ。老婆はそれだけ言って番台に戻った。私は星のない夜空と境目の区別がつかない夜の海を眺めていた。もう一口含んだ茶はやはり味も匂いもしなかった。机の端に闇から抜け出してきたような黒い蝶が羽根を広げてとまった。蝶の羽根の幾何学文様をよく見ようと手を伸ばした。蝶はわずかな風の動きを察知したのか、ふわりと飛び立った。
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