異界賢者は新米冒険者

米二合

プロローグ

 「ハァ、ハァ、ハァ……ッ」


 暗闇の森を、一人の女性が息を切らして駆け抜けていた。足元は悪路で、何度か木の根に足を取られそうになる。それでも、マントの下に抱えた大切なものを守るように、彼女は必死に木々の間を縫い、前へ前へと進む。


 「うっ……」


 急に苦しげに立ち止まった彼女は、震える手で口元を押さえる。必死に何かをこらえている様子だ。


 「ハァ……ハァ……」


 それでも、彼女は前へ進もうと、一歩、また一歩と踏み出す。何度か転びそうになりながらも、その都度ふらつきながら立ち上がり、ついに森を抜けきった。


 森を抜けた先にあったのは、半壊した狩人小屋だった。


 「ローズ様!」


 小屋の陰から、二人の男性が飛び出してきた。ボロボロになった彼女の姿に、すぐさま駆け寄って支える。


 「ロベルト様…」


 「ローズ様!一体どうしてこんなご無体に…ッ、こ、これは、毒ですか?!なぜご自身を治療なさらないのですか?!」


 「ローズ様、まず解毒を!」


 「ハァ、ハァ……これで、いいのです。もう、間に合いません……」


 「ローズ様!」


 ローズはずるずると地面に座り込み、残りの力を振り絞ってマントの下からすやすやと眠る赤ん坊を抱き紐から降ろした。かけがえのない宝物のように抱きしめてから、ロベルトに手渡す。


 「す、睡眠魔法……あと、半日ほど。ハァ……この子、よろしく、お願いします……うっ」


 ローズの口から、黒く濁った血がごぽりと溢れ出す。地面に落ちる寸前に、ローズは咄嗟に自分のマントで拭った。


 「離れて……血にも、毒がありますから……」


 赤ん坊を抱いたロベルトは言われた通りに一歩下がったが、すぐに手の届く場所で身をかがめ直す。


 「ローズ様! お願いです! この子のためにも、今すぐ治療を……!」


 「駄目です……魔法を使ったら、気づかれます……」


 ローズは息切れしながらも、涙目で熟睡中の我が子を見つめる。その表情には、ほんの少しの安堵と、かすかな笑顔が浮かんでいた。


 「ハァ……この子を、連れて……ハァ、行ってください……」


 「しかし!」


 「ハァ……もう、手遅れ……」


 毒は既に全身に回りきり、体は深く蝕まれていた。もはや、自身を治療する力など残されていない。


 ローズは片手で胸を押さえ、苦しげに後ろへ倒れ込んだ。


 「ローズ様っ!」


 「ローズ様! しっかりしてください!」


 「ハァ、ハァ……これで、ハァ、ハァ、いいんです……」


 ローズは息も絶え絶えに喘ぎ、細めた目で空を見上げた。いつの間にか、空は薄明かりに染まり始めている。


 ローズの目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちる。そして、震える手をゆっくりと天に向かって伸ばした。


 「……ハァ、ハァ……グレイン様……ハァ、お、赦しを……」


 伸ばした手が、がくりと力なく落ちる。長く、最後の息を吐き出しながら言葉を残し、ゆっくりと目を閉じた。


 「――ッ、――ッ……」


 「ローズ様!?」


 ロベルトは動揺のあまり、赤ん坊を抱える手が小刻みに震えている。


 「ローズ様!!」


 側にいた侍者も、悲鳴にも似た声を上げた。


 突然、不穏な鐘の音が響き渡った。不気味に鳴り響く教会の鐘に驚いた鳥たちは、聞いたことのない鋭い鳴き声を上げながら、一斉に南の方へ飛び去っていく。


 「……弔鐘だ」


 その声と共に、傍にいた侍者が息を呑む。


 「ロベルト様! ローズ様が消えた!」


 「!!」


 飛び去っていく鳥の群れから目線を戻したロベルトは、ついさっきまでいたローズの姿がもうどこにもないことに気づき、目を見開いた。


 ロベルトは表情を険しくする。


 「……急いでこの国を出るぞ。商会には緊急退避を伝えろ」


 「はいっ!」


 二人は馬にまたがり、二方向に分かれて駆け出した。


 ロベルトは赤ん坊を自分のマントの下にしっかりと固定し、誰にも見えないように隠す。鐘の音で大騒ぎになった城下町を横目に、そのまま城門を駆け抜けた。


 途中で別の仲間と合流し、馬から馬車に乗り換える。休むことなく国境へと向かい、赤ん坊の睡眠魔法が切れる寸前、ようやく隣の自国へとたどり着いた。


 馬車の扉が開くと、一人の小柄な女性がすぐに駆け寄ってきた。


 「ロベルト様! お帰りなさいませ!」


 「ミカ……ただいま」


 「ローズ様は? どうでしたか?」


 ミカは前のめりにロベルトのマントを掴み、心配そうにローズの行方を尋ねた。


 一瞬、彼の瞳が揺れ、言葉に詰まる。ロベルトは大きく息を吐いた後、眉間に皺を寄せ、辛そうに頭を横に振った。僅かかすれた声で答える。


 「……すまん、間に合わなかった」


 「間に合わなかった?え……間に、合わなかった……?」


 言葉を反芻するミカの表情から、すっと感情が消え去った。その凍り付くような表情を見て、ロベルトは彼女の手を引き、人目のない執務室へ入る。マントの紐を解き、大事に抱えていた赤ん坊をミカに渡した。


 「……え、この子! ローズ様のっ?!」


 ミカは何かを察したように顔色を青ざめさせ、言葉を失う。


 「ローズ様は、毒を盛られた。あの者たちに気づかれないよう、解毒魔法も使わずにレオ様を連れて逃げ出したんだ。合流できた時には既に……手遅れだった」


 ロベルトは回想しながら、悔しそうに顔を歪める。


 「ど……毒っ?!」


 顔を伏せていたミカは、ロベルトを見上げて目を剥いた。その目に明確な怒りが浮かんだ。


 「あれほど、警告したのにっ?!」


 「……う、う、うぇーーー」


 レオの泣き声が、ミカの言葉を遮るように響いた。


 ようやく目を覚ましたレオの泣き声は、心なしか弱々しく聞こえる。


 「あ、ごめんなさい、レオ様。……もう大丈夫、ここは安全だよ。よしよし……レオ様っ……ううぅ……」


 ミカはレオをあやしながら、こらえきれずに大粒の涙をぼろぼろと溢した。


 「悔しい……絶対、絶対あいつらを許さないから……うぅう……」


 声を殺して泣いているミカを、ロベルトは苦い顔でそっと抱き寄せた。





 その日の夜。乳を飲んですやすやと眠るレオの傍らで、腫れた目でぼんやりと落ち込んでいるミカのもとへ、ひとつの影が訪れた。


 「ミカ」


 「め、がみ、さま? ……えっ、女神様!」


 その姿を確認すると、ミカはすぐに女神のもとへ駆け寄った。


 「グレイン様! ローズ様を助けてください! ローズ様があの者たちに殺されました! ローズ様を……ううぅぅ……助けてください!」


 ミカはこらえきれずに縋る目からまた大粒の涙を溢した。そんなミカを悲しそうな表情で見つめる女神はゆっくりと首を振った。


 「ミカ、神でも一度死んだ人間を蘇らせることはできない。ローズが安らかに眠れるよう、魂と体を浄化し回収した。レオを助けてくれてありがとう。ローズにはもう会えないが、この子が生きているからまだ希望はある。罪を犯した者にはすでに然るべき罰を与えた。あとは君に任せる。……レオは、私が安全に暮らせる場所に連れていこう」


 ミカは手の甲で乱雑に涙を拭いながら、こくこくと頷いた。熟睡中のレオを起こさないよう、大事に抱え上げて女神に渡す。


 「グレイン様、レオ様を……よろしくお願いします」


 「ミカ、これから騒がしくなる。一人で悩まずロベルトに頼りなさい。あれはちっぽけな人間だが、それくらいはできるはずだ」


 女神は無表情でドアの横に立つロベルトを一瞥し、レオを抱えてすっと目の前から姿を消した。


 「あ……もう、行っちゃった」


 「……女神様に嫌われてるな……まあ、それはそうだ……」


 ミカの傍らに寄ってきたロベルトは、自嘲的な笑みを浮かべ、ローズに無礼な振る舞いをした過去の自分を思い出す。


 「そうですね。最初のロベルト様は本当に態度が悪くてね、顔面パンチを我慢するのが大変だったわ」


 「顔面パンチなら一発食らったような……」


 「それは……まあ、我慢の限界だったからしょうがないわね」


 開き直ったミカを見て、ロベルトの表情が緩む。


 「ああ。そのパンチのおかげで目が覚めたよ」


 ロベルトは大事そうにミカのつむじにキスをした。


 「あーあ、我慢せずに奴らをボコボコすればよかったのに」


 顔をしかめるミカを、ロベルトは愛おしそうに見つめた。


 「殴ってもいいが、多分必要はないだろう。女神様の怒りはこれで収まるとは思えない。我々はいつか、大きな代償を払う日が来るだろうね」


 ロベルトは少し俯き加減でぽつりと言った。


 「代償、ですか」


 「……あの腐りきった国は一瞬で滅んだと、商会から一報が届いた。女神様が現れて自ら天罰を下したそうだ。国の中心部が氷漬けにされ、王族や貴族、神官長など、その場で氷の中に閉じ込められたらしい」


 「ふん、自業自得だわ」


 ローズは間違いなく女神様が選んだ、ただ一人の特別な人。


 「だから、これからミカに縋る人が増えるかもしれない」


 「縋るのは勝手だが、私はローズ様派。ローズ様を見捨てた人には容赦しない。全員トドメを刺すからね」


 そう言い切ったミカは、泣き腫らした目を大きく開いてロベルトを見上げた。


 「まあ、心配はいりません。お忘れですか? 今の私は辺境伯夫人ですよ? バックには女神様がお墨付きを与えた、ちっぽけな辺境伯が付いていますから」


 ロベルトは小さく微笑み、ミカの手の甲にキスした。


 「光栄です。ぜひ、このちっぽけな辺境伯に任せてください」


 ロベルトはローズのことを蔑ろにした人々の顔を思い浮かべる。


 かつての自分もその中の一人だった。ローズという人間と、その本質を見誤った。過去の自分がどれほど傲慢で愚かだったか、今回のことでさらに痛感する。神罰は下ったが、きっとまだ終わっていない。


 ロベルトは、自分をゾッとさせたローズの最期に口から漏れた一言を思い出した。




 『ふっ、ざまあみろ……』



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