第9話 道ならぬ逢引き


「……疲れた。全部、どうでもよくなってくる」


僕は夜会の会場から、そっと逃げ出してきた。

人の多い場所はそれだけで消耗する。まして、好意的とは言いがたい視線を向けられれば、なおさらだ。

義母が姿を現してから、その空気はますます顕著になった。


加えて、今日は……いろいろありすぎた。正直、お腹いっぱいだ。

ノッディとデーヴには申し訳ないけれど、あの場所に長く居続けるのは無理だった。

ダンスが始まるまでのあいだだけでも、少し退避させてもらおう。人間、適度な休憩が必要なんだ。


テラスを抜けて、中庭の噴水へと足を運ぶ。

オレンジの外灯に照らされた水滴が空中で踊り、妖精のように宙を舞う。

周りを見れば青白い光に浮かび上がる庭園の陰影が、どこか幻想的な美しさを醸していた。


ふと見上げると、大きな青い月に、小さな白い月が寄り添っている。

この世界では、「夫婦月(めおとづき)」と呼ばれる二重の月だ。季節によってその色合いも大きさも変わる。


今は青が強い、もうすぐ梅雨の兆しだ。

憂いを帯びたその色合いがロマンチックだと、恋人たちの間では密かに人気らしい。


……そういえば、ゲームでもこんな夜、ヒロインとの逢引シーンがあったっけ。


おもむろに、自分のステータスプレートを出現させる。

その中心に、いつも通りの表示が浮かび上がる。


「踏み台」


何度見ても、日本語でそうはっきりと書かれている。


考えすぎないようにしてきたけれど、この世界がゲームのシナリオに沿って動いているのだとしたら──

「踏み台」というこの表現には、思い当たる節がある。


例えば、婚約者のいるヒロインを主人公が奪うとき。

それが不義と見なされないよう、正当化のために用意される“都合のいい存在”。

自己投影した主人公を「悪くない」と思い込ませるための、"程度の低い比較対象"。

物語を盛り上げ、ヒロインの選択に納得感を与えるための“咬ませ犬”。


かつて、ネットの片隅でそんなキャラクターは「踏み台」と呼ばれていた。


ふざけるな。なぜ僕が、そんな役を演じなきゃならない?

勝手にやればいいだろう。婚約破棄も、嫡男交代も、世界崩壊も、魔王討伐も──

全部、好きにやってくれ。お前たちの物語に、僕を巻き込むな……!


……疲れた。もう、誰か代わりにやってくれないかな。




「キース様」




不意に背後から声がかかり、思考が途切れる。

振り返ると、そこに立っていたのは意外な人物だった。


「こんなところで、何をなさっているのですか?」


青い月明かりに照らされたその姿は、どこか神秘的で近寄りがたい雰囲気を帯びていた。

普段なら滑稽に見えるその言動さえ、今は妙に現実離れして映る。


「な、なんで……」


すぐに言葉が出てこなかったのは、驚きよりも怒りが勝ったからだ。


「どうしました? ああ、婚約者殿の本性に触れて、悔しくて泣いておられましたか。フフフ……まあ、これでお分かりになったでしょう。人の心など、所詮は醜いものです」

「泣いてなどいない! ……なんでお前なんだ、ジョーカス!! ここは可愛いヒロインが出てきて、慰めてくれる場面だろう!?」


ここは“ゲームの世界”じゃなかったのか? それとも“お約束”は存在しないのか?

僕だって、ヒロインと仲良くなりたくないわけじゃない。だが、なぜよりによって……こいつなんだ。


ジョーカスが夜会に出席していることは知っていた。

派閥強化の一環として、街の有力者や周辺の同盟貴族が招かれている。侯爵家の威光を見せつけるにはうってつけだ。


平民蔑視の風潮は今も根強く残っているが、一応この国は法治国家を謳っている。資本さえあれば、平民でも無視できない影響力を持つ。

国際商業ギルド連盟の筆頭商会、その御曹司であるジョーカスが呼ばれないはずがなかった。


「……ヒロインが何を指すのかは存じませんが、貴方様の忠実なる臣下、御用商人ジョーカス──只今参上いたしました。お望みとあらば、慰めて差し上げますよ?」


いつもの演劇じみた所作が、今はやけに腹立たしい。


「ああ……そのご様子では、慰めは不要と見えますね」


彼の目が細くなる。スキルが発動している証──赤く輝くその瞳は、僕の内面を覗き込むようだった。


スキル「鑑定」。

かつてはアイテム名の識別しかできない“ハズレスキル”と嘲笑されていた。

だが彼はそれを覆した。フレーバーテキスト、人の潜在能力──ゲームで言えば「キャラステータス」すら見抜くのだという。


……彼は、僕の何を見ているんだろう。


「なあ、なんでお前は、まだ僕の“御用商人”を続けているんだ?」


気づけば、ずっと胸の奥にあった問いが口をついていた。

ジョーカスは赤い瞳のまま、静かに微笑を深める。


「それは簡単な話です」


彼はすっと跪き、目線を合わせてくる。まるで忠誠を誓う騎士のように。


「貴方様にお仕えすることが、私にとって何より有益だからですよ」

「……有益? 僕にはもう“先”がない。お前なら、父か弟に付いたほうが遥かに得だろう!」


声を荒げたのは、怒りではない。不安だ。

そして、何を失う恐怖。


「フフ……何を仰います。私の目には、貴方様以上に“未来”のある方など存在しませんよ?」

「……何を根拠に、そんな寝言を」


皆、僕を見捨てていった。

父は僕を気にかけているが、後妻に男子が生まれた時点で、僕の運命は決まっていた。

ゲームのシナリオ通り、僕が追放されるための外堀は、もうとっくに埋まっている。


だというのに──なぜ彼は、そんな目をして僕を見るのか。


「貴方様は、ハズレスキルで燻っていた私に道を示してくださった。運命に抗うための道を──。ですが、それだけが理由ではありませんよ」

「僕は……そんな立派なことをした覚えはない」


幼い頃、僕はいったい彼に何を話したのか。

記憶の彼方、色褪せた過去の断片が、彼の中では色濃く息づいている。

──信じられるだろうか、あんな夢物語を。


「投資先を見れば分かります。魔道具開発機関、保存食品開発機関、冒険者育成機関──。どれも民の未来のため」


彼は歌うような調子で、迷いなく語る。

一歩引いて見れば胡散臭くすらあるのに、その言葉は不思議とすんなり胸に染み込んできた。


「貴方様が直接手を下す必要はございません。導けば良いのです。“出来る者たち”を」


……ああ。

僕なりに思い悩み、動いてきたこと。

それを彼は、意味のあることだと信じてくれていた。


「何も躊躇なさることはありません。貴方様の望むままにお進みなされば、それが──多くの民を、理不尽な運命から救うのです」


僕のスキルは、悲観すべきものじゃない。

そして、僕が全てを背負う必要なんて、どこにもない。


「私は、貴方様が踏み出すその一歩を、確実に支えましょう」


そうだ。

僕は支えてやるだけでいい。

あの主人公を、より高く、より確実に世界を救える者として押し上げるために。


僕は世界で最も高い踏み台になってやろう。

だから、主人公。

いらない荷物を全部持って、僕の物語から出ていけ。


 


「キース様、どちらですかー?」

「おーい、返事してくれだす!」


ノッディとデーヴの声が近づいてくる。

そろそろ戻らなければならない。

──負けが確定している戦場へ。


けれど、なぜだろう。

先ほどまで胸を覆っていた悲壮感は、もうどこにもない。


そんな折、赤い瞳が今度は熱を孕んで背中を見つめていることに、僕は気づくことはなかった。

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