第2話 キースという悪役

ハーベルバーグ侯爵の居城は、運河を跨ぐ巨大な要塞である。

元は戦乱の時代に、リリーレイス河を通じた王都への進軍を阻むために築かれた軍事拠点だった。

しかし、北部国家との関係が改善したことで、その役割は変わりつつある。


現在、この要塞は運河を行き交う商人たちから税を徴収する拠点となり、多くの利権が集まる侯爵領の中心地となっていた。

だが、利権の集積は欲望と怨恨を呼び込む。

侯爵領は統治者の手を離れ、肥大化し続けていた。

抑えきれぬ醜い感情が渦巻き、官僚たちは制御の利かぬ領地に翻弄されるばかりである。


そんな喧騒をよそに、居城の一室では幼き次期統治者が優雅に茶を嗜んでいた。

権限も持たぬ少年は、ただ無知ゆえに微笑んでいるのか、それともすべてが砂上の楼閣であることを悟っているのか・・・それを知るすべは凡人にはない。

だからこそ、城で働く者たちは陰で彼を軽んじ、皮肉を込めて「お坊ちゃん」と呼ぶのだった。



「キースお坊ちゃん、先日上納されたパラリスト聖王国産のハーブティーでございます」

「おい、爺や。坊ちゃん呼びはやめろ」


そう言いながらも、運ばれてきたティーカップに注がれる黄金色の液体には、心が惹かれる。芳醇な香りが立ちのぼり、鼻腔をくすぐった。

朝から続いたルーティンの訓練を終えた僕への、ささやかなご褒美だ。

僕は──どうやらゲームの世界に転生したらしい。

しかも、よりによって「やられ役の悪役」として。


「らしい」と曖昧な言葉を使うのは、いまだに実感が湧かないからだ。

僕には前世と思われる記憶がある。夢として見た。

しかし、そこには僕自身の感情が欠落していた。

まるで映画のフィルムを延々と見せられているような、ただの記録のような記憶だった。


その夢を初めて見たのは、僕が3歳の頃だ。だが、つい最近まで、それをただの妄想だと決めつけていた。

無理もないだろう? 夢の中で遊んだゲームの世界が現実で、僕自身がその登場キャラクターだなんて、そんな話、常識で考えれば信じられるはずがない。

そもそも、人間の見る夢とは、記憶の整理の一環だ。過去の経験や知識が入り混じり、時に歪んだ形で現れるもの。

「前世の記憶だ」だの、「現実がゲームの世界だ」だのと本気で思い込むのは、正気の沙汰じゃない。


そう思っていた──先日の鑑定の儀で“文字化けスキル”を得るまでは。


「ですが、お坊ちゃんはいつまでもお坊ちゃんです」


目の前でティーカップに黄金色の液体を注ぎながら、執事のセバスは穏やかな表情で微笑んだ。


「もちろん、巷で言われるような諷刺ではございませんよ。早朝から誰の目にも触れぬ場所で努力を重ねていらっしゃる。小さい頃からお仕えしている身として、それは誇らしい限りです」


その言葉に、僕は思わず顔をそむける。

「ふん!」と短く返したが、耳のあたりが妙に熱いのは気のせいだと思いたい。


ゲームの知識を思い出してからというもの、未来への漠然とした不安を払拭しようと、人知れず訓練を積むようになった。

だが、誰にも気づかれずにいるつもりだったのに、爺やはちゃんと見ていたらしい。

日中の僕の過ごし方──お茶を飲み、本を読み、記憶にある知識を試す姿が、周囲には怠惰と映っていることには気づいていた。


それでも、爺やだけは違った。

素直に喜ぶべきなのに、胸の奥がむず痒くてうまく言葉にできない。

我ながら、まだまだ子供だ。


妄想だと切り捨てたあの夢が、僕の性格に影響を及ぼさなかったと言えば嘘になる。

3歳児の僕が訓練をしようと思うくらいには。


とはいえ、「転生モノの主人公」のような無茶はできなかった。

魔力を枯渇させて総量を増やす?四六時中筋トレして魔法を超える肉体を作る?

無理だ。そんなのは人間のやることじゃない。


3歳児の根性なんてたかが知れている。

だから僕は、毎朝少しずつ行動を習慣化しながら、訓練を続ける道を選んだ。


それほどまでに、僕は“未来”に怯えていた。


ゲームの概要は単純だ。

勇者が魔王を倒す、よくあるアクションRPG。

恋愛要素もあり、可愛いヒロインがたくさん登場する。


僕の役どころは、その序盤──学園編で登場するDV婚約者の悪役貴族。

主人公やヒロインからは鼻つまみ者として扱われ、ちょっとした揉め事から決闘騒ぎに発展。

結果、負けて婚約破棄され、そのまま物語から退場する。


だが、それだけでは終わらない。


僕はその後、魔族にそそのかされ、魔物に成り下がる。

学園編の中ボスとして再登場し、最期は主人公に討たれる。


まぁ、中ボス化は回避できる。問題はそこじゃない。


このゲーム、物語の中盤で“世界崩壊”の演出が入るのだ。


魔王は討たれ、物語は一応のハッピーエンドを迎える。

各ルートではヒロインたちとの甘い結末が描かれ、希望に満ちた未来が語られる。


しかし、その裏で文明は崩れ去り、復興の兆しすらないまま、物語は幕を閉じる。


3歳児の僕は、妄想の世界滅亡の大予言に恐怖するお子様だった。

だけど、世界がゲームのシナリオ通りに動いていると気付いてしまった今では、

現実を見ずに震えているお子様ではいられない。


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