第2話
扉を叩く。
何度か叩いて、ようやく扉が開いた。
今の今まで寝てたことが分かる、着崩した姿。
(皆、それぞれ変わってるってのに。コイツだけは全く変わらんな)
「なんだ?」
「なんだじゃねーよ。もう昼過ぎだろ。お前いつまで寝てるつもり……」
つい口から出た不満を、寝ぐせ姿の
こいつに構ってる暇はないんだった。
「……いや。あのさ。……
陸遜の姿を、淩統はこの一月、見ていなかった。
だから桃の葬儀の時の、伏目がちな横顔がまだ頭に残っている。
彼が何度か、
陸家からも目ぼしい人材を何人か
それからは軍議などに出ていたとか、人づてには聞いたが、彼は
以前は彼の部屋や、書庫で作業をしている姿を見かけたのに、ここ最近陸遜の部屋は昼も夜も真っ暗なままで、彼がそこに戻っていないのは明らかだった。
「陸遜?」
……陸遜が姿を見せないもう一つの理由は、分かっていた。
彼は仕事に忙殺されていると同時に、
これは一部の人間しか知らないことだが【赤壁の戦い】と同時進行で、周瑜が陸遜に蜀の軍師、
陸遜はその密命を受けて大戦の裏で奔走したが、結局
その途上で
建業に帰還した時、陸遜は憔悴しきっていて、淩統は声を掛けたかったが普段温雅で明るい表情を浮かべる陸遜の思いつめた表情に、さすがに軽薄な慰めの言葉を掛ける気になれなかった。
陸遜は、きっとまだ立ち直れないのだろう。
だが、孫呉には彼が必要だ。
彼の才能が。
彼と周瑜は特別な師弟関係にあったのだ。
孫策も含め、彼がかつて陸遜の育ての親、
陸遜は師として
淩統は、陸遜に会いに行こうと思っていた。
自分に何が出来るのかは分からないが、必要としていることだけは伝えたかった。
だから居場所を知っているであろう甘寧に会いに来たのである。
「うん……。お前なら知ってんだろ?
陸遜様、今はそっとしておきたいのも分かるけどさ。
……少しずつでも、歩み出さないと駄目なんじゃないかって」
気持ちは分かる。
欠落は大きく、彼は一年ほど、仕官する気力が戻って来なかった時期がある。
陸遜は繊細な感性をしているから、きっと自分よりも深く傷ついているのだろう……などと淩統が勝手に気遣っていると、甘寧は相変わらず空気を読まず、どわ~っと隠しもしない大きな欠伸をしてから、顎で自分の後ろを示した。
「
「あっ⁉」
思わず大きめに聞き返していた。
「あいつ別にどこにも行ってねえし」
「どこにも行ってないって……
「あー、二回くらい本家の用事で帰ってたか。数日ですぐ戻って来たぜ。陸遜、あんま陸家に寄り付きたがらないからさ。夜のうちに戻ってたから、お前気付かなかったかもしんないけど」
「え。んじゃこの一月ずっと城にいたの?」
「いたよ」
甘寧が呆気なく頷く。
彼は扉を開けっぱなしにして、部屋の中に戻って行く。
「お~い陸遜、客が来たぞ。うるせーのが」
「ちょ、おい……」
彼は先程の淩統同様、積み重なる大量の書類を処理しているようだった。
寛いだ部屋着姿で、あの戦場での凛とした真紅の軍服姿ではなく、ごく普通の青年のような出で立ちのままだ。
彼はこちらを見ると淩統を見つけ、少しだけ小さく笑みを浮かべた。
その微笑に、淩統は目を見張った。
「……淩統どの」
「話なら短めにしろよな。陸遜、俺の分の仕事もやってるから忙しいんだよ」
淩統は瞬く間に険しい顔になり、腕を組んだ。
「……この一月、お前がミョーに暢気に前と変わらず悠々と暮らしてんなぁと思ってたけど。妙だと思ったんだよ。ここの書類が俺のとこに回って来ねえなんて」
甘寧の笑い声が聞こえる。
「こいつほんとに優秀だよな。面白いくらいサクサク仕事処理してくれっから、ホント助かる」
「甘寧! てめぇ!」
「陸遜、俺は水浴びて来るしな。
甘寧が声を掛け、去っていく。
「うるせえ! 誰が犬公だ!」
淩統が怒鳴った。
くすくす……と笑い声がして、淩統は執務机に座る陸遜にもう一度目を向けた。
彼の笑顔が見れて、安心した。
きっとまだ、彼は笑えないだろうと思っていたから。
「……すみません」
笑みを止めて、陸遜は瞳を伏せた。
「私を心配して、来てくれたんですね」
「……いえ。貴方がここにいて仕事をしておられるのなら、どこでしようとそれはいいんです」
淩統は答えた。
「……。すみません。仕事に忙殺されている時はいいんですが……ふとした瞬間に、酷く落ち込むことがあって。私が、甘寧殿に頼んだんです。執務室を貸していただけないかと」
「あいつは執務室なんかロクに使わないから、いいんですよ」
「はい……」
陸遜は笑った。
……だが、やはりいつもの陸遜の笑顔と何かが違う気がした。
儚げなのだ。
彼の笑みは温かかったのに今はどこか、空虚にも思える。
「すみません」
陸遜はもう一度謝った。
「貴方の言う通り、……いつまでも落ち込んでいてはいけませんね。もう歩き出さなくては」
「陸遜様……」
「明日、部屋に戻ります。気を遣わせて、申し訳ありませんでした」
「
淩統は声を掛ける。
琥珀の瞳と見つめ合った。
「陸遜様にとって、
特別な人の死は、特別な痛みです。
無理に忘れようとしなくてもいいんです。
貴方が立ち直れないなら声は掛けたかったですが、とっくに仕事に戻っておられるのなら、構いませんから」
「……ありがとうございます」
陸遜は小さく、声を掛けた。
それから手にしていた筆を側に置いた。
「淩統殿はこれから……なにか……?」
「いえ。私は単に息抜きに。夕刻には調錬がありますが少し煮詰まったので」
「それなら、少しその辺を歩きませんか?」
淩統は目を瞬かせてから、笑んでみせた。
「喜んで」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます