― プロローグ:冥府の扉が開く夜 ―

そのカフェには、看板がなかった。

 ガラス張りの外観でもなければ、目を引く装飾もない。錆びたプレートの上に、ただ一言――《CLOSED》と書かれているだけだった。昼間に通りかかっても、扉は頑なに閉ざされたまま。日が落ちてからも営業している様子はなく、そこにカフェが存在すること自体、誰も確かめようとしない。


 だが、知る人ぞ知るこの場所、《冥府(めいふ)》は、深夜0時になると、沈黙を破るように静かに開く。

 そして選ばれた常連だけが、そこに足を踏み入れるのだ。


     * * * 


 その夜も、《冥府》の扉が静かに開かれた。

 レンガの壁に囲まれた店内は、薄暗いランプの光に包まれ、天井のシャンデリアからは蝋燭のような柔らかな光が落ちていた。焙煎されたコーヒー豆の香りと、どこか湿った古書の匂いが混ざり合い、非現実的な空気を醸し出している。


 「今日は肌寒いな。死神が歩いてる日だ」


 カウンターの中から、店主――志賀冴一がぼそりと呟いた。

 痩せた体躯に黒いシャツとベスト。銀縁の丸眼鏡をかけたその顔は、笑みを浮かべることが稀で、客の誰もがその表情の裏を読むことを諦めていた。


 「マスター、それ呪いの挨拶ですか?」


 カウンターの隅で新聞を広げていた中年男がくぐもった声で返す。

 元新聞記者の深町徹也――常連のひとりで、よく言えば情報通、悪く言えばゴシップ屋。


 「冥府の入り口で笑ってる奴は、地獄の奥で泣くもんさ」


 冴一の口調には、冷ややかさと皮肉がいつも入り混じっている。

 冥府の店主として、それは彼にとって最も自然な“距離感”だった。


     * * * 


 この店には、日常からこぼれ落ちた人間だけが集まる。

 仕事を失った者、愛する者を亡くした者、社会から孤立した者――そして、“秘密”を抱えた者。


 この夜、ひときわ目立つコートを羽織った女性が入ってきた。

 白石茉莉奈――人気作家にして毒舌の女王。テレビにも度々出演するが、誰も彼女の「本当の顔」は知らない。いや、知ろうとしなかったと言うべきか。


 「こんばんは。死人の噂話、今日も用意してくれてる?」


 彼女はそう言って、冴一にウィンクを飛ばした。だが彼は何も返さず、ただ静かに一杯のコーヒーを差し出した。


 「……今日は、少し味が苦いわね」


 「死者の舌は正直だからな」


 言葉のキャッチボールは、まるで毒入りの矢を投げ合っているようだった。

 他の常連たちはそのやり取りに慣れているのか、誰も気に留めず、それぞれの時間を過ごしている。


 だが、その夜は違った。


 午前1時を回った頃、店内の天井に埋め込まれた古びたスピーカーから、ノイズ混じりの音が流れた。

 誰もスイッチを入れていない。ラジオでもない。録音テープでもないはずだった。


 《……お前は、私を殺した。》


 一瞬の沈黙。

 言葉ははっきりと、明確に聞こえた。


 客たちは互いに顔を見合わせたが、誰も口を開かなかった。

 まるで“自分”が責められていると感じたのか、あるいは、自分の罪を突きつけられたように感じたのか――。


 やがて、冴一が静かに口を開いた。


 「……死者の言葉ってのは、時として生者の心を撃つものだ。さて、今夜はどの魂が震えるかな」


     * * * 


 翌朝、警察からの連絡が入った。

 白石茉莉奈が、自宅マンションで死亡していたという。

 死因は不詳。外傷もなく、自殺とも他殺とも判断がつかない。


 だが、遺体の傍には――彼女の肉声ではない、“声”が録音されたボイスレコーダーが残されていた。


 《……お前は、私を殺した。》


 それは、間違いなく《冥府》で流れたものと、同じだった。



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