36話 リスタート
目を覚ました場所は、記憶も名前もない森。
残っていたのは、体に染みついた魔法の感覚だけ――。
そこで出会ったのは、清らかな魔力を放つ少女ベルと、森を守る獣シルバ。
しかし、俺の中には“魔族の瘴気”が纏わりついていた。
「俺は……誰なんだ?」
自分の正体に怯えながらも、ただ“生きるため”に足を進める。
けれど運命は、歩みを待ってはくれない。
街を目指すその先に、迫り来るのは――魔族の影。
*
――闇の中で、目を開けた。
ここは……どこだ?
誰もいない、湿った森。木々のざわめきと、遠くで獣の吠える声だけが響いている。
胸が締めつけられる。
なぜなら――俺は、自分の名前を思い出せなかった。
(……誰だ、俺は……?)
魔法だけは、体に染み付いていた。
無意識に手を掲げると、淡い光の粒が生まれる。
だが、それ以上の記憶は何一つ浮かんでこない。
⸻
そのとき――。
「錚々たる風を起こせ……大地の力を呼び起こす……
――
轟音。
大気が震え、大地が盛り上がる。
目を向けた先にいたのは、一人の少女だった。
彼女の魔力は凄まじく、ただそこに立っているだけで息が詰まるほどの圧。
けれど、その瞳は真っ直ぐで清らかだった。
⸻
「おーい!」
少女がこちらに気づき、駆け寄ってくる。
「お取り込み中のところごめんなさい! あなた、この森に詳しいですか?
……実は記憶を失ってしまって、ここがどこかわからないんです。
街に行きたいんですが……道もわからなくて。
よければ、教えていただけませんか?」
震える声。自分でも驚くほど、必死な響きになっていた。
⸻
少女はじっとこちらを見た。
(……すごい魔力。まるで底が見えない。それに――正義を信じる気持ちも、確かに感じる。
でも、なんでこんなに……悲しい色の魂をしているの? どれだけ失ってきたんだろう……)
やがて、柔らかく微笑んだ。
「それなら、この森を西にまっすぐ進んでごらんなさい。城下町に出られるはずよ」
「……ありがとう。本当に助かります」
「ところで、あなたのお名前は?」
言葉が詰まった。
「……思い出せないんだ。だから……名乗れない」
少女は少しだけ目を見開いたが、すぐに微笑んで答えた。
「仕方のないことよ。なら、私の名前を教えてあげる。
私は――ベル・グレイシア。ベルって呼んで」
風が舞い、少女の髪を揺らした。
「魔法使いをやってるの。いろんな魔法を練習中なのよ。
……あなたの記憶が、早く戻るといいわね」
その声を残し、彼女の姿は風に包まれて消えていった。
⸻
残されたのは、名もなき俺と――
「ベル・グレイシア」という名前の余韻だけだった。
「……助かった。とにかく街へ急ごう」
腹の奥からぐう、と鈍い音が鳴る。
「腹も減ったし……今はただ、生きなければ」
男はふらつく足を進め、森の奥を抜けていった。
記憶を失ったまま、己の名前すらわからぬまま――。
⸻
その背を、木陰からひとり見つめる少女がいた。
ベル・グレイシア。
銀糸のような髪が風に揺れ、翡翠色の瞳がかすかな光を映していた。
細身で白い肌は、森の陰影に溶け込むように淡く、
身にまとった水色の服は、清らかな泉を思わせる透明感を纏っている。
そして何より――声。
透き通るその響きは、聞く者に純粋さと温かさを伝える、不思議な力を持っていた。
(……あの人、この森でひとり。大丈夫かしら)
ベルは唇を噛み、けれど一歩を踏み出せずにいた。
「……男性は苦手。だから、つい姿を消しちゃった」
だが、胸のざわめきは抑えられない。
(……練習を兼ねて、隠れながら追いかけてみよう)
彼の膨大な魔力と、悲しげな魂の色が、どうしても気になった。
なぜなら――。
「私も……記憶を失ってしまったのだから」
彼がこれからどう生きるのか。
それを見届けることで、自分もまた答えを探せる気がした。
風が囁く。
銀髪の少女は音もなく木々の間を抜け、名もなき男のあとを追った。
「……しかし、なんで俺はあそこで眠ってたんだ?
誰かと一緒にいた気がする……。
俺は一体、あそこで何をしていたんだ……?」
胸に刺さる疑問を抱えたまま歩を進めると――。
⸻
「魔族の瘴気をもたらすものは、排除する」
低く唸る声と共に、木々の間から風を裂いて現れたのは、森の獣ウィンドーウルフだった。
金色の瞳が鋭く光り、まっすぐにこちらを睨みつける。
(言葉を……使った?
言葉を使う狼……!?
くそ、ここで死ぬわけには……。
てか待てよ……なんで俺が狙われてる?
魔族の瘴気? 俺が……?
まさか……俺は記憶があった時、魔族だったのか……?)
⸻
「おい、待て! 俺はお前たちに危害を加えるつもりはない。
ただ、この先の街に行きたいんだ。アルムンドって街だろ? 知ってるか?」
必死に声を張り上げる。
(戦う意思はない……それを伝わってくれ……!)
ウィンドーウルフは鋭い視線を崩さずに低く唸った。
「……確かに、この先には街がある。
だが――お前こそ、この森に瘴気をもたらした張本人ではないのか?」
「どういうことだ!?
俺は記憶がないんだ! 信じられないかもしれないけど、本当なんだ。
力の使い方もわからねぇし……名前だって、思い出せないんだよ!」
狼はしばし黙り込み――やがて、目を細めた。
「なるほど……確かにお前の中に邪気はない。
……ならば、私がその瘴気を祓ってやろう」
淡い風が渦を巻き、俺の全身を包み込む。
ぞわりとした感覚が抜け落ち――重苦しい気配が霧散していく。
「……これで取れた。疑って悪かったな、人間。
私はこの森を守る者、名をシルバという」
「……ありがとう、シルバ」
⸻
その瞬間、突風が吹き抜け――現れたのは、銀髪の少女だった。
「ちょっと!? どういうこと!?
あなた、魔族だったの!?
シルバに目をつけられるなんて……よっぽどよ!」
「落ち着け、ベル」
シルバが低く諭すように言う。
「こいつは瘴気を纏っていただけで、中にはなかった。
だが……なぜ瘴気がついていたのかは不明だ。
だから、この森を出るまでは私が見張る」
「……ああ、好きにしてくれ」
少女――ベル・グレイシアは少し黙り込み、やがて真剣な目を向けてきた。
「だったら、私も見張らせてもらう。
この森でシルバにはずいぶん世話になったから。
それに……あなたのことが、気になるから」
その瞳には不安よりも、どこか好奇の光が宿っていた。
その視線に、不思議と心が落ち着いていく。
「……アルムンドへ急ごう」
⸻
だが、安堵は長く続かなかった。
「――待て! この瘴気……街の方からだ!」
シルバが鋭く振り返る。
次の瞬間、背後に影が揺れ――。
「魔族……!」
巨大な爪が振り下ろされる。
現れたのは、漆黒の角を持つ魔族――シアデビル。
「シルバ、危ない!」
ベルの叫びと同時に、彼女の風魔法が奔流となり、シルバをかろうじて弾き飛ばす。
雷鳴のような咆哮が森に轟いた――。
*
最後まで読んでいただきありがとうございます。
名前を失った男。
記憶を失った少女。
そして、瘴気を巡る謎。
出会いは偶然か、それとも必然か。
一歩を踏み出すたびに、失われた過去と新しい絆が交差していく。
だが、安堵はほんの一瞬。
森を切り裂く咆哮と共に現れたのは、漆黒の魔族。
生きる意味を探す物語は、いきなり試練に投げ込まれていく。
読んでくださったあなたに問いかけます。
「もし自分の名前も記憶も奪われたら……あなたは何を拠り所に、生きようとしますか?」
次回、森を揺るがす戦いが幕を開けます。
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