36話 リスタート

目を覚ました場所は、記憶も名前もない森。

残っていたのは、体に染みついた魔法の感覚だけ――。


そこで出会ったのは、清らかな魔力を放つ少女ベルと、森を守る獣シルバ。

しかし、俺の中には“魔族の瘴気”が纏わりついていた。


「俺は……誰なんだ?」

自分の正体に怯えながらも、ただ“生きるため”に足を進める。


けれど運命は、歩みを待ってはくれない。

街を目指すその先に、迫り来るのは――魔族の影。



――闇の中で、目を開けた。


ここは……どこだ?

誰もいない、湿った森。木々のざわめきと、遠くで獣の吠える声だけが響いている。


胸が締めつけられる。

なぜなら――俺は、自分の名前を思い出せなかった。


(……誰だ、俺は……?)


魔法だけは、体に染み付いていた。

無意識に手を掲げると、淡い光の粒が生まれる。

だが、それ以上の記憶は何一つ浮かんでこない。



そのとき――。


「錚々たる風を起こせ……大地の力を呼び起こす……

――風地魔法アースロックウィンド!」


轟音。

大気が震え、大地が盛り上がる。

目を向けた先にいたのは、一人の少女だった。


彼女の魔力は凄まじく、ただそこに立っているだけで息が詰まるほどの圧。

けれど、その瞳は真っ直ぐで清らかだった。



「おーい!」

少女がこちらに気づき、駆け寄ってくる。


「お取り込み中のところごめんなさい! あなた、この森に詳しいですか?

……実は記憶を失ってしまって、ここがどこかわからないんです。

街に行きたいんですが……道もわからなくて。

よければ、教えていただけませんか?」


震える声。自分でも驚くほど、必死な響きになっていた。



少女はじっとこちらを見た。

(……すごい魔力。まるで底が見えない。それに――正義を信じる気持ちも、確かに感じる。

でも、なんでこんなに……悲しい色の魂をしているの? どれだけ失ってきたんだろう……)


やがて、柔らかく微笑んだ。


「それなら、この森を西にまっすぐ進んでごらんなさい。城下町に出られるはずよ」


「……ありがとう。本当に助かります」


「ところで、あなたのお名前は?」


言葉が詰まった。

「……思い出せないんだ。だから……名乗れない」


少女は少しだけ目を見開いたが、すぐに微笑んで答えた。


「仕方のないことよ。なら、私の名前を教えてあげる。

私は――ベル・グレイシア。ベルって呼んで」


風が舞い、少女の髪を揺らした。


「魔法使いをやってるの。いろんな魔法を練習中なのよ。

……あなたの記憶が、早く戻るといいわね」


その声を残し、彼女の姿は風に包まれて消えていった。



残されたのは、名もなき俺と――

「ベル・グレイシア」という名前の余韻だけだった。


「……助かった。とにかく街へ急ごう」

腹の奥からぐう、と鈍い音が鳴る。

「腹も減ったし……今はただ、生きなければ」


男はふらつく足を進め、森の奥を抜けていった。

記憶を失ったまま、己の名前すらわからぬまま――。



その背を、木陰からひとり見つめる少女がいた。


ベル・グレイシア。


銀糸のような髪が風に揺れ、翡翠色の瞳がかすかな光を映していた。

細身で白い肌は、森の陰影に溶け込むように淡く、

身にまとった水色の服は、清らかな泉を思わせる透明感を纏っている。


そして何より――声。

透き通るその響きは、聞く者に純粋さと温かさを伝える、不思議な力を持っていた。


(……あの人、この森でひとり。大丈夫かしら)

ベルは唇を噛み、けれど一歩を踏み出せずにいた。


「……男性は苦手。だから、つい姿を消しちゃった」

だが、胸のざわめきは抑えられない。


(……練習を兼ねて、隠れながら追いかけてみよう)


彼の膨大な魔力と、悲しげな魂の色が、どうしても気になった。

なぜなら――。


「私も……記憶を失ってしまったのだから」


彼がこれからどう生きるのか。

それを見届けることで、自分もまた答えを探せる気がした。


風が囁く。

銀髪の少女は音もなく木々の間を抜け、名もなき男のあとを追った。


「……しかし、なんで俺はあそこで眠ってたんだ?

誰かと一緒にいた気がする……。

俺は一体、あそこで何をしていたんだ……?」


胸に刺さる疑問を抱えたまま歩を進めると――。



「魔族の瘴気をもたらすものは、排除する」


低く唸る声と共に、木々の間から風を裂いて現れたのは、森の獣ウィンドーウルフだった。

金色の瞳が鋭く光り、まっすぐにこちらを睨みつける。


(言葉を……使った?

言葉を使う狼……!?

くそ、ここで死ぬわけには……。

てか待てよ……なんで俺が狙われてる?

魔族の瘴気? 俺が……?

まさか……俺は記憶があった時、魔族だったのか……?)



「おい、待て! 俺はお前たちに危害を加えるつもりはない。

ただ、この先の街に行きたいんだ。アルムンドって街だろ? 知ってるか?」


必死に声を張り上げる。

(戦う意思はない……それを伝わってくれ……!)


ウィンドーウルフは鋭い視線を崩さずに低く唸った。


「……確かに、この先には街がある。

だが――お前こそ、この森に瘴気をもたらした張本人ではないのか?」


「どういうことだ!?

俺は記憶がないんだ! 信じられないかもしれないけど、本当なんだ。

力の使い方もわからねぇし……名前だって、思い出せないんだよ!」


狼はしばし黙り込み――やがて、目を細めた。


「なるほど……確かにお前の中に邪気はない。

……ならば、私がその瘴気を祓ってやろう」


淡い風が渦を巻き、俺の全身を包み込む。

ぞわりとした感覚が抜け落ち――重苦しい気配が霧散していく。


「……これで取れた。疑って悪かったな、人間。

私はこの森を守る者、名をシルバという」


「……ありがとう、シルバ」



その瞬間、突風が吹き抜け――現れたのは、銀髪の少女だった。


「ちょっと!? どういうこと!?

あなた、魔族だったの!?

シルバに目をつけられるなんて……よっぽどよ!」


「落ち着け、ベル」

シルバが低く諭すように言う。

「こいつは瘴気を纏っていただけで、中にはなかった。

だが……なぜ瘴気がついていたのかは不明だ。

だから、この森を出るまでは私が見張る」


「……ああ、好きにしてくれ」


少女――ベル・グレイシアは少し黙り込み、やがて真剣な目を向けてきた。


「だったら、私も見張らせてもらう。

この森でシルバにはずいぶん世話になったから。

それに……あなたのことが、気になるから」


その瞳には不安よりも、どこか好奇の光が宿っていた。

その視線に、不思議と心が落ち着いていく。


「……アルムンドへ急ごう」



だが、安堵は長く続かなかった。


「――待て! この瘴気……街の方からだ!」

シルバが鋭く振り返る。


次の瞬間、背後に影が揺れ――。


「魔族……!」


巨大な爪が振り下ろされる。

現れたのは、漆黒の角を持つ魔族――シアデビル。


「シルバ、危ない!」


ベルの叫びと同時に、彼女の風魔法が奔流となり、シルバをかろうじて弾き飛ばす。


雷鳴のような咆哮が森に轟いた――。



最後まで読んでいただきありがとうございます。


名前を失った男。

記憶を失った少女。

そして、瘴気を巡る謎。


出会いは偶然か、それとも必然か。

一歩を踏み出すたびに、失われた過去と新しい絆が交差していく。


だが、安堵はほんの一瞬。

森を切り裂く咆哮と共に現れたのは、漆黒の魔族。

生きる意味を探す物語は、いきなり試練に投げ込まれていく。


読んでくださったあなたに問いかけます。

「もし自分の名前も記憶も奪われたら……あなたは何を拠り所に、生きようとしますか?」


次回、森を揺るがす戦いが幕を開けます。

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