第22話 ラムネ

 頭上で、セミの声がうるさく鳴いていた。

 誰かに呼ばれた気がして、ナナミはふっと顔を上げる。

 だが、気のせいだったのだろうか。周囲には誰もいない。

 夏休み。祖母の家に両親と共に来ていた彼女は、近所の子供たちと仲良くなって、一緒に川に遊びに来た……はずだった。

(みんな、どこに行ったんだろう……)

 改めて見回しても、他の子たちの姿は見えない。

 河原を見ると、小石で水を堰き止めて小さな囲いを作った中に、瓶のラムネが何本か、冷やされていた。

(喉が渇いたな。あれ、もらってもいいのかな……)

 わからないままに、彼女はそちらに歩み寄った。

 と、ふいに影がさして、隣に見知らぬ男が立った。

 父親と同じか、もう少し若いと見える男は「飲みたいのかい?」と尋ねた。

 ナナミがうなずくと、彼はラムネを一本取り上げ、栓を開けてくれた。

 押し込まれたビー玉と共に、白い泡が溢れる。

(これって、こんなふうにして開けるんだ)

 差し出されたラムネの瓶を受け取りながら、ナナミは胸に呟く。

 ラムネの瓶自体は見たことがあるが、飲んだことがなかったので、驚いたのだ。

「飲まないのかい?」

 男の問う声がする。

 ナナミは、受け取った瓶の口から、白い泡が溢れるのをただぼんやりと見つめていた――。


+ + +


 目覚めてナナミは、それが夢だったのだと気づく。

 もっとも、あったことは本当のことだ。

 小学三年生の夏休み、祖母の家に両親と一緒に遊びに行って、地元の子供たちと仲良くなって、川に出かけた。けれど途中で子供たちとはぐれてしまい、ラムネをくれた男に「家まで連れて行ってあげる」と言われて同行した。

 結果、彼女は今ここにいる。


 体はすっかり大きくなった。

 胸も膨らみ、腰はくびれ、少女と呼んでいい体型だ。

 短かった髪は伸び、肩甲骨のあたりまである。

 その髪は、両サイドをきれいに編み込まれて、ハーフアップにまとめられ、おちついた色のリボンが止められていた。

 どこかの学校の制服のような白いブラウスと、スカート。足には黒い太ももまであるソックス。

 服の下には、白いレースのパンティとブラジャー。

 一から十まで、あの男の好みだった。


 ナナミは、横たわっていた畳の上から、起き上がる。

(横になったら髪が崩れるとか、服がしわになるとか、うるさかったな……)

 ふと思い、ナナミはちゃぶ台の向こうに横たわる男を見やった。

(でも、もう関係ないか……)

 男は手足を大きく投げ出し、目を見開いて宙を見据えていた。その頭の周辺の畳は、どす黒い赤に染まっている。


 ナナミは基本的に、この六畳の部屋からは出られなかった。

 トイレは部屋の隅に置かれたおまるで済ませるよう言われたし、風呂も男が用意した湯で体を洗うだけだった。食事は一日三回、男が運んで来る。

 ただ、ここに閉じ込められて何年かしたころから、食事のあとにランニングマシンが運び込まれて、一時間から二時間程度、それで運動するよう言われるようになった。

 最初はなぜなのかわからなかったが、途中でナナミが理解したのは、男の好みの体型を維持させるためだということだった。

 もっとも、男は彼女に性的な関係を求めて来ることは、いっさいなかった。

 男は彼女に自分の好みの髪型や服装をさせて、それを眺めたり写真に撮ったりすることで、満足していたのだった。

 だが、ナナミにしてみれば、たまったものではない。

 ランニングマシンのおかげで、以前より筋力のついた彼女は、次第にここからの脱出を考えるようになった。

 とはいえ、部屋は外から鍵がかけられている。

 窓はあったが、目張りした上に厚いカーテンでおおわれていて、その上から板が打ち付けてあった。なので、開けることはもちろん、隙間から外を覗くことさえできなかった。

 そんな中ナナミは、押入れの天井の一画から天井裏に入れることと、そこから二階の別の部屋の押し入れに出られることを発見した。しかも、そちらの部屋は物置として使われているのか、人気はなくて、鍵もかかっていなかった。ただ、ここも窓は大きなタンスでふさがれていて、開けることも外を見ることもできなかった。

 それでも、この部屋から階下に降りれば、逃げる方法が見つかるかもしれないと、ナナミの心に、脱出への希望が芽生えた。


 この家は一戸建てで、どうやら男は一人でくらしているようだった。

 ほとんど家から出ることはないものの、時おり、買い物か何かに出かけて行く。

 ナナミはその隙を見て階下に降り、脱出口を探した。

 だが、一階にも逃げ出せそうな出入口はない。

 玄関は、基本的に鍵がかかっている。男が出かける時はもちろん、家にいる時でも鍵をかけてあるようだった。

 一階にあるのは居間と台所、風呂場とトイレで、男は普段は居間で寝起きしているようだ。

 居間の窓の前には大きな本棚付きの机があって、それにふさがれている。台所と風呂場とトイレの窓は錆びついて開かなかった。

 台所の傍には、狭い勝手口があったが、ここもドアは開かなかった。

 そうしたことを知って、ナナミは落胆した。

 だが、調べるうちに、二階のもう一つの部屋の窓は、ふさいでいるタンスを動かすことさえできれば、開くのではないかと気づいた。

 窓そのものは、目張りもなく、板を打ち付けられてもいない。鍵はかかっているが、上下にスイングする式の簡素なものだ。錆びついてもいないので、タンスがなければ鍵もはずせそうだった。

 木でできたタンスは重かったが、中はからっぽで、時間をかければ動かせそうだった。

(ちょっとずつこのタンスを動かして、ここから逃げよう)

 ナナミは、そう決めた。


 男の行動は規則的で、食事を持って来る時間も、ナナミの体を拭きに来る時間も、写真を撮ったり彼女の姿を眺めたりする時間も、だいたい決まっていた。

 なのでナナミは、男が来ないとわかっている時間にもう一つの部屋に行き、少しずつ少しずつタンスを動かして行った。

 最初は大変だったが、コツがわかると次第に短い時間でたくさん動かせるようになって来た。

(あと少し……)

 二枚で一対になった窓の、半分近くが見えるようになった。ただ、鍵がまだタンスにふさがれた位置にあるので、もう少し動かす必要がある。

(明日にはきっと、あそこまで動かせるわ)

 ナナミはそう考えて、元の部屋に戻った。

 それが、昨日のことだ。


 そして今日。

 階下で男が出かけるらしい音を聞きつけ、ナナミはもう一つの部屋へ向かった。

 タンスをせっせと動かしていたら、階段を昇って来る足音が聞こえた。

(嘘でしょ! 出かけたんじゃなかったの!)

 ぎょっとして、ナナミはとにかく部屋へ戻ろうと、押入れへと駆け寄った。

 その時、あろうことか、彼女が今いる部屋のドアが開いたのだ。そして、鬼のような形相の男が入って来た。

「この、アバズレが!」

 怒鳴るなり、男は彼女を平手で打った。そして、崩れ落ちた彼女の腕をつかんで、元の部屋へと連れて行くと、鍵を開け、乱暴に彼女を床に突き飛ばしたのだ。

「外から二階の窓を見て、驚いたぞ。あそこから、逃げるつもりだったんだな! 俺を置いて、ここから! ええ?! どうなんだ?! 言ってみろよ!」

 男は、畳の上に倒れた彼女の肩をつかみ、怒鳴りながら乱暴にゆすぶった。

「ええ、そうよ! だってわたし、お父さんやお母さんの所へ帰りたいもの! わたし、こんな所にいたくないもの!」

 ナナミも、思わず叫んだ。叫びながら、今まで抑えていたもの、堪えていたものが、一気に溢れ出して来たような気がした。


 そのあとのことを、ナナミはよく覚えていない。

 気づくと男は頭から血を流して、床に倒れていた。

 ナナミ自身も畳の上に横たわっていて――そのまま、どれほどの時間が過ぎたのかは、わからなかった。

「わたし、どうしたらいいんだろう……」

 ぼんやりと、男の死体を見つめながら、ナナミは呟く。

 その目が、男のポケットからこぼれた錠剤に止まった。

(睡眠薬……?)

 男が以前、これと同じ錠剤の入った瓶を見せて、睡眠薬だと言っていたことを、ナナミは思い出した。

 それを手に取り、口に含む。

 すると錠剤は、シュワリと舌の上で溶けて行った。

 ナナミは、くくっと笑い出す。

 それは、ラムネだった。

 あの時の錠剤が、本当に睡眠薬だったのか、それともラムネだったのかは、わからない。男がなぜそんなものを見せたのかも、今なぜ男のポケットに入っていたのかも、不明だった。

 ただ、ナナミは自分をずっと捕えていたものの、正体が見えたような気がした。

(こいつ、バカみたい……)

 笑い止んで、ナナミは胸に呟くと、立ち上がった。

 開けっ放しのドアから出て、階下へと向かう。

 階段の傍には、古い黒電話があった。昔、祖母に教えてもらったから、使い方はわかる。

 ナナミは受話器を取ると、今でも覚えている祖母の家の番号を回した――。

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