第8話 ティラミス

 春香が恋人にふられたのは、先月のことだった。

 あれから一月も経つのに、彼女はまだ落ち込んだままだった。

 もともとは明るく、何事にも前向きな彼女だったが、今回ばかりはかなりショックだったらしい。

 というのも、恋人だった省吾とは学生時代から五年もつきあっていて、彼女の方では結婚も意識していたからだ。だが省吾の方は、つきあい始めたころからもう一人別の相手がいて――つまりは、二股をかけていて、しかもどっちとも結婚する気などまったくなかったのだという。

 今回ふられたのは、春香と二股相手どちらもで、なんと省吾は勤務先の社長の娘と結婚することになったのだという。

 その話を聞いた時には、春香の友人たちは皆、怒り狂ったものだった。

 だって当然だろう。二股をかけていただけでも許せないのに、まったく違う相手と結婚が決まって、二股相手を二人ともふったというのだから。

 だが、そんな周囲に対して、春香は怒る気力さえないといったふうで、どんより暗い顔で無気力に日々を送るようになって行った。


 そんなある日、春香のもとに友人の一実からメッセージが届いた。

『今日、うちに遊びに来ない?』

 この一月は、誰かに誘われても出かける気力もなくて、ずっと断り続けていた春香だったが、この日はふと気が変わった。

 一実は大学のころからの友人だった。男性だが中性的な雰囲気を持っていて、お菓子作りが趣味の、春香の友人の中ではちょっと変わった人物だった。

 元恋人の省吾とも知り合いだったが、彼からは「女みたいな男」と嫌われていたものだ。

 もっとも、春香は一実のその中性的な部分がわりと好きだったけれども。他の男友達や省吾のように「男」を強調しない部分が、彼女にとってはつきあいやすかったのだ。

『わかった。行く』

 誰にも会いたくないと思っていたはずなのに、そう答えたのも、彼のそんな雰囲気のせいだったのかもしれない。


 その日の夕方、春香が一実のマンションを訪ねると、彼は穏やかな笑顔で出迎えてくれた。

 そして、居間のテーブルに「どうぞ、召し上がれ」と出されたのは、ティラミスだ。

「え? これ、どうしたの?」

「僕が作った。上手にできたから、春香に食べてほしくなってさ。それで連絡したの」

 小さく笑って一実は言う。

「そうなんだ。じゃあ、遠慮なく」

 そういえば、このしばらく甘いものなんて食べていない……とふと思った春香は、言ってスプーンを手にした。

 一実のティラミスは、とても美味しかった。

 ほろ苦さと甘さがちょうど良く、チーズの濃厚さとエスプレッソを吸い込んでやわらかくなったビスコッティがとてもいいハーモニーを奏でている。

「美味しい……」

 思わず出た呟きと笑顔に、一実が笑い返した。

「よかった」

 言って一実は、自分はコーヒーを淹れて彼女の向かいに座り、ティラミスを食べる彼女をうれしそうに見ている。

「自分の分はないの?」

 春香が、そんな彼を怪訝に思って尋ねる。

「あるよ。でも、僕はあとで食べるからいいの」

「ふうん」

 変なの、と思いはしたものの、ティラミスの美味しさに春香はすぐにそれも気にならなくなった。


 ティラミスを食べながら、春香は一実と話した。

 話題は至ってなんでもないことばかりで、天候の話から共通の友人・知人の近況、そしてドラマやアニメの話など、多岐にわたった。

 だがおかげで春香は、一実の家を辞する時には、ずいぶんと元気になっていた。

(そういえば、こんなに誰かと話したの、久しぶりかもしれないな……)

 家路に向かいながら、彼女はふとそんなことを思う。


 その日から、春香は少しずつ元気になって行った。

 一実と話したことが、彼女の気持ちをあげるきっかけになったのかもしれない。

 彼女自身にもわからないけれど、友人たちからの誘いを断ることも少しずつ減って行き、知らない場所に顔を出すことも、友人たちに手を引かれるようにして、増えて行った。


 そんなある時、春香は女友達の真由美に一実のティラミスを食べてから、なぜか元気になったという話をした。すると真由美は言った。

「それは、ティラミスが役目を果たしたってことね。知ってる? ティラミスって励ましのお菓子なのよ」

「励ましのお菓子?」

 思わず問い返す春香に、真由美は意味ありげに笑って返す。

「そう。ティラミスってイタリア語で『私を元気づけて』って意味なんだって。そこから転じて、『恋人を励ます時に贈るお菓子』とも言われているらしいわよ」

「え?」

 彼女の言葉に、春香は思わず目を見張った。


 その日以来、なぜか春香は一実が気になってしようがない。

 あの日ティラミスを自分に食べさせてくれたのは、当人が言っていたとおり、「上手に出来たから」だけなのだろうか。それとも、真由美が言ったような意味が、あったのだろうか。

 一実自身に尋ねてみたいが、春香にはそこまでの勇気が出ない。

(元気にはなれたけど、また別の問題が……)

 あれこれ考え始めると、頭を抱えてしまう。

 とはいえ、こればかりは当人に尋ねる以外は、どうしようもないことなのだ。

 そんなわけで、しばらく頭を抱えたあとのある休日。彼女はコンビニで買ったティラミスを一つ、景気づけに口にすると、一実の家へと向かったのだった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る