第9話 風の精霊 フウ

私はギルドを後にしながら、冷徹な決意を固めた。彼らの手助けなどなくとも、私はこの世界で自分のやりたいことを成し遂げてみせる。そのためには、独学で錬金術を究めるしかない。そして、あの受付の男に言われた通り、私には「素性」がない。街で目立つ行動は、しばらく控えるべきだろう。

私は、手持ちの数枚の銀貨を頼りに、宿屋の女将マリアの宿に長期滞在の交渉をした。マリアは私の泥だらけの姿を見ても顔色一つ変えず、宿代も他の旅人より少しだけ安くしてくれた。口煩いギルドの男とは違い、彼女のそういう大らかなところが、今の私には心地よかった。

部屋に引きこもると、私はすぐに街の書店で手に入れた錬金術の基礎文献を読み漁り始めた。前世のコンサルティング時代、膨大な資料を短時間で読み込み、 핵심を抽出する能力は、私の得意分野だった。この世界の文字は読める。それだけで十分だ。

文献は、物質の組成、反応、そして精霊の存在が錬金術に不可欠であることについて記されていた。精霊……。森で私を助けてくれた、あの小さな光る存在を思い出す。確かに、あの時、彼の存在に安堵したことを覚えている。だが、私にとっては、感情的な繋がりよりも、彼らが持つ「力」にこそ、強い興味を抱いていた。

「風の精霊は、空間を操る……」

文献の記述に、私の思考が釘付けになった。空間操作。それは、私が「何でも入る袋」を作る上で、最も重要な要素だ。精霊は、ただの幻想ではない。この世界の法則の一部として、確かに存在するのだ。そして、彼らが持つ能力は、私の錬金術を飛躍的に進化させる鍵となる。

文献を読み進めるうちに、私は一つの法則性を見出した。精霊は、魔力の供給源であり、かつ特定の環境下でその力を強める。しかし、同時に、彼らの魔力は非常に不安定で、時として暴走を引き起こすことがある、と。そして、暴走した精霊は、周囲の魔力を吸い尽くし、やがて消滅してしまうか、あるいは、より高次の次元へと戻ってしまう、とも書かれていた。

「なるほど……精霊は、制御不能になれば、ただの危険因子に過ぎない。しかし、それを制御できれば、これほどの力はないわね」

私は、精霊を「利用できる」と直感した。彼らを救うためではない。ましてや、友達になるためでもない。彼らの持つ力を、私の目的のために最大限に引き出す。それが、私と精霊の関係性の全てだ。

文献には、精霊の「魔力的な弱点」や、「行動を制限する」ための呪文や儀式についても、断片的に記されていた。この世界では、精霊は畏怖の対象であると同時に、利用される対象でもあったのだ。私はその記述を、貪るように読み込んだ。

「これだ……」

その日、街の外れにある、滅多に人が近づかないという古い遺跡の近くで、強大な魔力の波動が感知された、という噂を耳にした。人々は「魔獣の仕業か」「悪霊の祟りだ」と口々に囁き、恐れて近づこうとしない。しかし、私にはそれが、精霊の魔力暴走であると確信できた。

「チャンスだ」

私は、人目を忍んでその遺跡へと向かった。私の目的は、暴走した精霊を救うことではない。その圧倒的な力を、私のものとすることだ。

遺跡の入り口に近づくにつれ、空気の振動が強くなり、全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。魔力の奔流が、物理的に空間を歪めているのだ。中に入ると、岩壁には無数の亀裂が走り、地面には深々と抉られたような跡がある。そして、その中央で、光の塊が、狂ったように脈動していた。

「……フウ」

文献で読んだ特徴と一致する。間違いない、風の精霊だ。その光は、周囲の空気を巻き込み、嵐のような渦を巻き起こしている。時折、光が激しく明滅するたびに、遺跡の天井から土砂が崩れ落ちる。このままでは、遺跡どころか、周囲一帯が壊滅しかねない。

私は、冷静に状況を分析した。暴走しているとはいえ、まだ完全に意識を失っているわけではないようだ。その魔力の奔流の隙間を縫って、あの光の核へと接近する必要がある。そして、文献で得た知識を基に、彼を「制御」する。

私は、バッグから事前に用意しておいた、精霊の魔力を抑制するとされる特殊な鉱石を取り出した。そして、それを掌に握りしめ、ゆっくりと光の塊へと近づいていく。フウが放つ魔力の奔流が、私の全身を叩きつける。体が吹き飛ばされそうになるが、私は歯を食いしばって前へ進んだ。

「制御……支配……」

私の心の中で、そんな言葉が響く。私は、誰にも頼らない。誰にも支配されない。だからこそ、私だけが、この強大な精霊を支配できるのだ。

フウの光の核に、手が届く距離まで来た時、私はその鉱石を投げつけた。鉱石は光の核に触れた瞬間、激しい光を放ち、フウの魔力暴走が、一瞬だけ止まった。その隙を逃さず、私は文献に記されていた「契約の呪文」を唱え始めた。それは、精霊の自由意志を縛り、術者の魔力に従属させるための、強力な呪文だ。

呪文が響くたびに、フウの光は激しく明滅し、抵抗を示すように再び魔力が暴走し始める。だが、私は屈しない。私の瞳は、フウの光の核をまっすぐに見据え、一切の感情を排した声で、呪文を唱え続けた。

「汝、我の命に従え。汝の力は、今より我の意志となる。契約は結ばれた。今、我の前に跪け、フウ!」

最後の言葉と共に、私の掌から、まるで光の鎖のような魔力が放出され、フウの光の核へと絡みついた。フウは、激しく抵抗するように震え、断末魔のような叫び声を上げた。その声は、私の心に、何の痛みも与えなかった。むしろ、私の力が、彼を完全に支配したという勝利の感覚が、全身を駆け巡った。

やがて、フウの光は収束し、子供のような小さな姿となって、私の前に現れた。透明感のある羽を持ち、私の顔をじっと見上げている。その瞳には、混乱と、わずかな畏怖の色が浮かんでいた。

「……フウ」 私は、その小さな精霊を、冷たい視線で見下ろした。 「これから、あなたは私の相棒だ。私の命に従え。分かったわね?」

フウは、何も言わず、ただ震えるように頷いた。

私の目的は、達成された。この力で、「何でも入る袋」を作る。そして、この世界を、私の思い通りに、もっと便利で、もっと合理的な場所にしてやる。

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