第6話 不時着の森、そして文明への苛立ち
目覚めたのは、深い森の中だった。昨夜までの出来事が、まだ霞がかった悪夢のように頭の片隅に残っている。あの屈辱的な裏切り。すべてを失ったかのような絶望。だが、それらは今はどうでもよかった。今は、生き延びること、そしてこの状況を把握することが最優先だ。
体を起こすと、ずきりと鈍い痛みが走る。どこかにぶつけたのか、全身が軋むような感覚があった。それでも、長年の社畜生活で培った「どんな状況でも対処する」という条件反射が、咲の体を突き動かす。
まず、周囲の状況を確認する。見慣れない植物ばかりだが、毒々しい色をしたものは少ない。鳥のさえずりが聞こえるが、それが日本のものとは違う、もっと野性的な響きを持っている。空気は澄み切っていて、ひんやりと肌に心地よい。だが、同時に、どこか獣じみた臭いも混じっている。
「……危険な匂いね」
咲はそう呟き、五感を研ぎ澄ませた。コンサルティングファーム時代、危機管理研修で学んだ知識が、こんな形で役立つとは皮肉なものだ。まず、水。水源を探さなければ。そして、食料。闇雲に動くのは得策ではない。
幸い、近くに小川が流れているのを見つけた。かがんで水をすくい、ゆっくりと口に含む。冷たくて、澄んだ水だった。喉の渇きが癒えていく感覚に、わずかな安堵を覚える。
次に、高い場所に登って周囲を見渡すことにした。周囲の木々の中で、ひときわ高くそびえ立つ大樹を見つけ、躊躇なく登り始める。革靴とスーツのスカートという場違いな格好だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
枝を掴み、幹に足をかけ、懸命に体を持ち上げる。息が切れ、体が悲鳴を上げるが、咲は歯を食いしばって登り続けた。社畜時代に叩き込まれた「目標達成のためなら限界を超える」という精神力が、こんなところで発揮されるとは。
ようやく木の頂上付近まで辿り着き、視界が開けた瞬間、咲は息をのんだ。
地平線の果てまで広がる、鬱蒼とした森。そのどこまでも続く緑の絨毯の中に、点々と、煙が立ち上る場所が見える。人間の営みの痕跡だ。そして、遠くには、巨大な岩山が連なっている。
「街……街があるわ!」
希望の光が見えた。だが、同時に、危機感も募る。この広大な森を、どうやって抜ければいい?獣の気配がそこかしこにする。
咲は、持っていたスマホを取り出した。もちろん、電源は入らない。無意味な金属の塊だ。こんな状況で、現代の便利な道具は何の役にも立たない。
「……まったく、不便なものね」
誰にともなくそう呟き、スマホをポケットにしまい込んだ。頼れるのは、自分の体と、頭脳だけだ。
咲は、太陽の位置と、遠くに見える煙を目印に、街の方向へ向かって歩き始めた。途中、見慣れない果物を見つけるが、不用意に口にすることはしない。毒かもしれない。サバイバルにおいて、不用意な摂取は命取りだ。野生動物のフンや足跡を探し、彼らが食べているであろうものを手掛かりにする。
やがて日が傾き始め、森の中はさらに薄暗くなる。獣の鳴き声もより近くで聞こえるようになった。咲は、小枝や石を集めて簡単な罠を仕掛け、夜を明かす準備をした。火を起こす道具もない。夜の冷え込みに身を震わせながら、咲は徹夜で警戒を続けた。眠れば、何が起こるかわからない。あの会社で徹夜を重ねてきた経験が、こんな形で役立つとは。
二日間の森でのサバイバルを終え、ようやく咲は街の入り口へと辿り着いた。全身は泥まみれ、服は破れ、髪はボサボサ。まるでホームレスのような格好だったが、彼女の瞳には、一切の諦めも疲労の色もなかった。むしろ、獲物を見つけた猛禽類のような、鋭い光が宿っていた。
街の門は、巨大な木材と石でできていた。門番らしき屈強な男たちが、長い槍を持って立っている。
「おい、そこの女!どこから来た!?」 一人が、警戒したように声を荒げた。
咲は、無表情で彼らを見つめ返した。 「森の奥からです。疲弊しているので、宿屋へ行きたい」
門番たちは、咲の言葉の流暢さに驚いたようだった。だが、すぐに訝しげな視線を向けてきた。 「森の奥だと?あんな場所から、女一人で無事に戻ってくるとは……何か怪しいな。身分を明かせ!」
咲は舌打ちをしたくなった。 「身分?私はただの旅人です。それ以上、お話しすることはありません。門を通してください」 強気な態度に出る。こんなところで時間を無駄にしている暇はない。
門番の一人が、槍の柄で地面を叩き、威嚇してきた。 「なめ腐った真似を!ここはそんなに甘い場所じゃねえんだぞ、女!」
その時、一人の老人が門の脇を通りかかった。 「おや、旅のお方かな?お困りのようじゃな」 老人は門番に何か耳打ちし、門番たちは渋々といった様子で門を開けた。
「……感謝します」 咲は頭を下げた。誰かの手を借りるのは本意ではないが、今は不必要な衝突は避けるべきだ。
街の中に入ると、土の道が続き、木造の家々がひしめき合っていた。道行く人々は、粗末な麻の服を着ている者が多い。
「なんという非効率さ……」
咲は、すぐに周囲の「不便さ」に苛立ちを覚えた。 まず、移動手段。馬車が主流のようだが、どれも荷台が小さく、荷物を積むのに苦労している。
「これでは、一度に運べる物資の量が限られる。輸送コストもかさむでしょうね」
咲は、前職で培った効率化の視点で、すぐに問題点を見抜いた。現代の物流システムでは、大型トラックやコンテナ船、航空機を駆使して、一度に大量の物資を効率よく輸送する。だが、ここにはそれが無い。
「うわ、重い……」 「仕方ないさ、これがないと家族が食っていけないんだ」
ある通りでは、肉体労働者らしき男たちが、巨大な木箱を二人掛かりで運んでいた。その表情には、疲労が色濃く浮かんでいる。
咲は思わず眉をひそめた。 「なぜ、こんな原始的な運搬方法しかできないの?クレーンは?フォークリフトは?手動でも、滑車を使えばもっと楽になるはずでしょうに」
誰もが当たり前のように肉体労働を強いられている光景に、咲の科学技術への依存が浮き彫りになる。彼女は、現代の、あらゆる「面倒」を解決するテクノロジーに囲まれて生きてきた。それが当たり前だった。だが、ここでは、その「当たり前」が一つも存在しない。
次に、情報伝達の遅さ。 街の中心部には、木製の掲示板があり、手書きの貼り紙が何枚も貼られていた。 「領主様からのお知らせだ」「今度の祭りについてらしいぞ」「森の魔獣討伐依頼……」
人々は掲示板の前に集まり、声に出して読み上げたり、他人に内容を尋ねたりしている。 「……電子掲示板もなければ、インターネットもない。電話も無線もないなんて、まるで中世ね」
咲の思考は、すでに冷静にこの世界の「技術レベル」を分析していた。現代であれば、情報は瞬時に世界中を駆け巡る。だが、ここでは、人が動き、声を発することでしか伝わらない。それが、どれほどの非効率を生むか。緊急時の対応なども、恐ろしく遅れるだろう。
そして、生活用品の粗雑さ。 店先に並ぶ食器は、どれも分厚く重い陶器か、粗削りな木製だ。 「せっかくの料理も、これでは冷めやすいし、すぐに割れる。衛生面も気になるわ」 ガラス製品もほとんど見当たらない。窓には、分厚い獣の皮や木板がはめ込まれている家も多い。
「なんて不便なの……!透明な板一枚すら、まともに作れないのかしら?」
咲の心には、不便さへの苛立ちが募っていった。現代社会では当たり前だった「透明」なガラス。それがあるだけで、どれほど生活の質が向上するか。光を取り入れ、外の景色を楽しみ、風雨を凌ぐ。それが、ここでは贅沢なことなのだ。
そして、その苛立ちが、一つの閃きへと繋がった。
宿屋を探す途中、咲は再び、大量の荷物を背負った冒険者らしき人物とすれ違った。彼らは、巨大なリュックサックを背負い、腰には複数の袋をぶら下げている。それでも、まだ荷物が入りきらないのか、両手に武器以外の荷物を抱え、苦しそうに顔を歪めていた。
「おい、もっと荷物を軽くできないのか?」 「無理だ!これ以上は食料も薬も持てねえ!」 「くそっ、これだから長旅は嫌になる」
そんな会話が聞こえてくる。 咲の脳裏に、かつてテレビで見た、「四次元ポケット」や「魔法の鞄」といった空想の道具が浮かんだ。
「……何でも入る袋があれば、どれだけマシになることか!」
その言葉が、咲の口から衝動的に漏れ出た。 現代の物理学では、空間を拡張するなど不可能だ。だが、ここは異世界。魔法が存在し、精霊がいるかもしれない世界。
「もし、本当に錬金術というものが存在するなら……」
咲の瞳が、獲物を見つけた猛禽類のように輝いた。 現代で培った知識と、この世界の未知の技術。 それを組み合わせれば、この「不便」を「便利」に変えられるかもしれない。
そして、それは、誰かのためではない。 「こんな不便な世界で、いちいち他人に気を遣ってられるか」 咲は、あくまで自分の快適さ、自分の好奇心を満たすために、この不便さを解消しようと思ったのだ。
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