第4話 異世界
その日以来、咲は完全に変わってしまった。
仕事は今まで以上に完璧にこなした。むしろ、以前よりも数段、冷徹で無慈悲な仕事ぶりになった。クライアントは彼女のその変化に戸惑いながらも、結果が出るため何も言えなかった。しかし、その過程で、彼女はこれまで以上に多くのものを切り捨てていった。
人間関係は、もはや必要最低限の業務連絡だけ。プライベートの連絡先は全て削除し、誰からのメッセージも受け付けない。啓からの連絡は全て着拒した。彼の顔など、二度と見たくなかった。
「私を傷つける存在など、もういらない」
誰にも頼らない。誰にも期待しない。そうすれば、裏切られることもない。傷つくこともない。
「私の価値は、誰かに認められることで決まるんじゃない。私が決めるんだ。そして、私自身が、その価値を創造する」
彼女の心は、鋼鉄の壁で覆われた。その壁の内側には、誰も踏み込むことを許さない。 愛も、友情も、信頼も、全てが脆く、簡単に裏切られるものだと悟った。 だからこそ、もう二度と、そんな不確かなものに心を預けることはしない。
世界への強い不信感を抱き、彼女は決意した。
これからは、自分自身のためだけに生きる。 誰かの期待に応えるためでもなく、誰かに愛されるためでもなく、ただひたすら、自分の好奇心と探求心のために。 そして、私の力だけで、この世界をねじ伏せ、私の望む形に変えてやる。
その決意を胸に、咲は無機質な東京の夜景を、冷たい瞳で見下ろしていた。 それが、彼女が異世界へと転移する、ほんの数日前の出来事だった。
異世界への不時着、そして新たな野望
重く瞼を開くと、まず目に飛び込んできたのは、見慣れない天井だった。照明器具の代わりに、天井の中央からぶら下がる、虹色に輝く奇妙な石。部屋全体を、その淡い光が幻想的に照らしている。
「……何、ここ?」
掠れた声が、乾いた喉から絞り出された。頭がガンガンする。まるで、徹夜で何本もプロジェクトを抱え、挙げ句の果てに裏切られたあの日の疲労が、そのまま全身にのしかかっているかのようだった。いや、もっとひどい。全身が鉛のように重く、指一本動かすのも億劫だった。
体を起こそうと試みるが、腕に力が入らない。横たわったまま、ゆっくりと視線を巡らせる。寝ていたのは、柔らかい毛皮が敷き詰められたらしき台の上。周囲には、見たこともない木製の調度品が並んでいる。壁は滑らかな石でできており、ところどころに複雑な文様が彫り込まれていた。
「どこかの、リゾートホテル……?でも、こんな内装のホテル、聞いたことない」
ぼんやりとそう考えていると、遠くから、澄んだ鳥のさえずりが聞こえてきた。日本の鳥の鳴き声とは、明らかに違う。もっと澄んでいて、どこか神秘的だ。窓の外からは、柔らかい日差しが差し込んでいる。
「外……?」
咲は、必死に腕に力を込めて体を起こした。激しい目眩に襲われ、思わず片手で頭を抱える。それでも、ゆっくりと、窓へと這うように近づいた。
窓枠は、これまた見慣れない硬質な木材でできており、ガラスではない、透明な膜のようなものがはめ込まれている。それをゆっくりと開けると、一気に新鮮な空気が流れ込んできた。
「……っ」
咲は、息をのんだ。
目の前に広がっていたのは、息をのむほどに雄大な自然だった。遥か彼方まで続く、深緑の森。見たこともないほど巨大な木々が、天に向かって悠々とそびえ立っている。その葉は、日本の木々とは異なる、深いエメラルド色や、赤みがかった紫色のものが混じっている。そして、それらの木々の間からは、いくつもの滝が、白い筋となって流れ落ち、巨大な湖へと注ぎ込んでいるのが見えた。湖面は太陽の光を浴びてキラキラと輝き、まるで宝石が散りばめられているかのようだった。
空には、二つの太陽が輝いていた。一つは、日本の太陽よりも少しだけ小ぶりで、青みがかった光を放っている。もう一つは、燃えるようなオレンジ色で、空に長い尾を引いている。
「二つ……?太陽が……?」
咲の頭の中に、いくつもの疑問符が浮かぶ。ここはどこだ?私はどうしてここにいる?夢を見ているのか?いや、この肌で感じる風の感触、鼻腔をくすぐる土と草の匂い、耳に響く鳥のさえずり。全てがあまりにも現実的だった。
「……異世界?」
突拍子もない考えが、脳裏をよぎった。まさか、そんな馬鹿な。今まで積み上げてきたキャリア。裏切られた恋人。何もかも放り出して逃げ出したくなるような現実。それでも、異世界なんて、小説や漫画の中の話だ。
だが、咲の思考は、あっという間に現実を受け入れた。だって、目の前の光景は、どう考えても日本の風景ではなかったのだから。二つの太陽。見たことのない植物。澄んだ空気。
混乱はしていた。正直なところ、何が起こったのか全く理解できていない。どうやってここに辿り着いたのか、自分がなぜこんな状態なのかも不明だ。しかし、その混乱の中にも、どこか冷静な自分がいた。そして、ほんのわずかな、しかし確かな高揚感が芽生えるのを感じた。
「……まあ、いいか」
咲は、ポツリと呟いた。 「どこでもいい。どうせ、元の世界に未練なんてないし」
あの、プライドを粉々に砕かれた日々。疲弊しきった心と体。信頼していた人間に裏切られ、自分の全てを否定された絶望。あの世界には、もう、咲を繋ぎ止めるものは何一つなかった。
だから、ここは、自分にとっての「逃げ場所」なのかもしれない。
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