This Spring, With You ─ この春、君と ─

Chocola

第1話

 新学期。高校の寮の一室に、二人分のスーツケースが並んでいた。


 サッカー部のエース・橘悠翔は、そこで初めて彼女に出会った。


 「水城紬。……これから、よろしく」


 短く挨拶した彼女は、どこかよそよそしかった。


 部屋にはベッドがふたつ、机がふたつ。それだけ。

 学校側が「チーム同士の交流と自立を促す」ために導入した“ルームシェア制度”は、最初から賛否両論だった。


 悠翔も、正直やりづらいと思っていた。けれど──


 「陸上部のエースだったんだって?」


 ある日の夕方、何気なく声をかけたとき。

 紬の表情が、一瞬だけ曇ったのを、悠翔は見逃さなかった。


 「あのね、私……走れないの」


 ぽつりと呟かれた言葉は、思っていたより重かった。


 「事故にあって、入学直前に。子供をかばったの。……まあ、バカだよね」


 そう言って笑った紬の笑顔は、どこか痛々しかった。


 


 それからしばらく、ふたりの間には距離があった。


 悠翔は部活、紬は補習とリハビリ。食事のタイミングもずれていて、言葉を交わすことも少なかった。


 けれどある日、悠翔はふと、部屋の隅に置かれた陸上スパイクを見つけた。


 手に取ると、泥だらけだったそれは、まるで時間を止められたように置かれていた。


 「……俺、陸上のことよくわかんないけど」


 夕暮れの部屋で、思わずつぶやいた。


 「それでも、君が今ここで、生きてることは……すごいと思う」


 返事はなかった。

 けれど次の日から、紬は少しだけ笑うようになった。


 


 彼女が笑えば、空気も変わった。


 朝、「いってらっしゃい」と言ってくれる。

 夜、「おかえり」と微笑んでくれる。


 それだけで、部屋があたたかくなった。


 悠翔は気づいていた。


 彼女が、自分を見つめる目が、だんだんと変わってきていることを。


 けれど──


 「悠翔くん。あの子とは、そういうんじゃないよね?」


 ある日、幼なじみでサッカー部のマネージャー・長谷川美優がそう言った。


 彼女はいつも近くにいた。

 試合で負けたときも、怪我をしたときも、励ましてくれた。


 けれど、それは「情」なのか「恋」なのか、悠翔はわからなかった。


 「私、ずっと見てきたんだよ? あの子、走れないんでしょ。だったら……」


 「関係ない」


 思わず口を挟んだ。


 「今の紬が、俺には一番まぶしいんだ」


 静かな部屋。

 紬は、何も言わず、それでも優しい笑顔で「おかえり」と迎えてくれた。


 


 季節は巡り、アザレアの花が咲いた。


 鮮やかなピンクが校門の脇を彩るその頃。


 悠翔は、サッカーの県大会で決勝に立っていた。


 ピッチの端に、杖をついた紬の姿があった。


 勝利のホイッスルが鳴り響く。

 チームメイトの歓声が上がるなか、悠翔はまっすぐ彼女のもとへ走った。


 「紬」


 「おめでとう、悠翔くん」


 彼女の目には、涙が光っていた。


 「私ね、走れないこと、ずっと悔しかった。でも、あなたが一生懸命走ってる姿を見て……、それでよかったんだって、思えたの」


 「……紬」


 「だから、今度は私が言う番。走れなくてもいい。君と一緒に、歩きたい」


 その手が、そっと彼の手を握った。


 アザレアの花言葉は、「青春の喜び」「恋の喜び」。


 ──それはきっと、ふたりが今ここにいる理由。


 「じゃあさ、歩こうよ。ゆっくりでいいからさ」


 悠翔の言葉に、紬は大きくうなずいた。


 春風の中、ふたりは並んで歩き出した。


 まるで未来へ、一歩ずつ、踏みしめるように。

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