帝都情話

月咲 幻詠

東京駅にて

 去年の冬のこと。鈍色に染まる寒空に人知れず溜息を吐きながら、私は二等の切符を手に改札をくぐりました。


 今は「学校を卒業したら見合いをして家庭に入れ」と、時代遅れの父の手紙に辟易して、気晴らしにと銀座へ向かう所。 


 レンガ造りのモダンな東京駅にはハイカラな格好をした方々がひしめいていて、その光景は上京したばかりの私にはいつ見ても素敵なものです。


 私は暫しその場でキョロキョロと辺りを見回して、新聞売り場を見つけ、一部購入しました。


 この新聞にはよみうり婦人附録と銘打って暮らしのヒントや流行りを取り上げるコーナーがあり、それを読むのが毎日の私の楽しみなのです。単に新聞を読んでいるだけで賢そうに見えるという密かな下心もあるのは内緒。


「南海鉄道にて、初の女性駅長。へぇ」


 同じ女として、女性の社会躍進は自分のことのように嬉しいこと。私も、学校を出たら社会で活躍するかっこいい女性になりたいものです。


 あらかた新聞を流し読んで、ぼうっとしていると、後ろから声がかかりました。低く安心感のあるような、殿方のお声です。

 

「失礼、さっき新聞を買っていた御婦人とお見受けする」


 振り向くと、それは端正なお顔をした方が、真っ黒なスーツを身に纏って立っておりました。


 白い肌に鋭く叡智に富んだ光を宿した瞳、太く整った力強い眉。筋の通った分厚い鼻梁に、鮮やかな赤い唇。何よりも、洗練されたあの立ち姿。今思い出しても胸が高鳴るよう……。


「え、ええ。左様でございます」

「驚かせてしまったようで申し訳ない。このハンカチ、貴女の物では」


 彼はそういって、桃色のハンカチを私に渡してくれました。その時に触れた、氷の様に冷たい手の感触は今でもはっきりと覚えております。


「確かに、私のハンカチです。ありがとうございます」


 彼の美貌に半ば呆然としながら頭を下げると、彼は気にしないようにと笑いかけてくださいました。


「ところで、私はここ東京に来て浅く、右も左もわからぬのだが、銀座町へはどのように向かえばよろしいだろう」

「銀座であれば、私も今から向かう所です。良ければご一緒に如何です?」


 困っている殿方に、道案内をするだけ。それだけなのに、当時の私は袴の上からでもわかるほど、緊張に胸が鳴っていたことでしょう。


「ありがたい申し出だ。お言葉に甘えても良いかな」


 彼は笑顔で私の申し出を快諾してくださいました。その時の嬉しさたるや……きっと私はこの時既に、彼に一目惚れをしていたのでしょう。


 それから、私達は汽車が来て銀座へ着くまで他愛のないことを沢山お話しました。


「美津代さん、貴女は銀座へ何をしに?」

「私はただあてどなくふらふらと町を歩いてみるつもりですわ。貴方は?」

「知り合いが探偵事務所を構えていて、そこに。どうにも、持病が最近酷くなったようでね。見舞いをしに行くつもりだ」

「あら……大事でなければ良いですが」

「ああ……」


 そこまで話したところで、無情にも汽車は銀座へと到着しました。


「ここからはどうにかなりそうだ。ありがとう、美津代さん。また何処かで」


 彼はそう言うと、颯爽と人混みへ溶けてゆきました。私は暫く彼の背に手を振っておりましたが、そこでお名前を聞き忘れたのに気づき、一人溜息をこぼすのでした。


――――――――――――――――――


 あれから、一週間が経ちました。私は何となくあの殿方に会えないものかと、同じ時間、東京駅に足を運んでみました。すると、なんということでしょう。会えたのです、彼に!


「おや、この前の」


 彼はあの時と同じように、私の後ろから声をかけてくださいました。


「この前はどうもありがとう。お陰で迷うことなく、友人の見舞いができた」

「いえそんな、困った時はお互い様です」


 私は声が上ずりそうになるのを堪えるのに必死でした。それほど、彼との再会が私には嬉しかったのです。


「どうです、汽車の来る間お話でも」

「是非」


 私達は、また他愛のない話に花を咲かせ、楽しい時間を過ごしました。


「貴女は聡明な方のようだ。ここまで人との会話が楽しいとは」

「そんな」


 貴方こそ。そう言いかけて、私は彼のお名前を伺っていないことを思い出しふと問うてみたのです。


「そういえば、私は一方的に名乗るだけで、貴方のお名前を存じ上げませんでしたわ。失礼でなければ伺ってもよろしくて?」


 彼は一瞬目を見開いて、すぐに笑顔を取り戻すと、


「失敬、そう言えばそうだった。私の名は天草。以後お見知り置きを」


 天草さん。なんと綺麗な響きでしょう。私がそう言うと、彼は恥ずかしそうにはにかんでいらっしゃって、男の人にこう言うのも失礼なことかもしれませんが、それが私にはとても可愛く思えました。


 苗字のお話が転じて、お家の歴史のお話がありました。私も一応地主の娘で、父が殿方のお家柄を気にする方でありましたので、自然と私もこういった類いは興味を示すようになりました。


「私の家系は豊臣の血を引く家だ。代々類まれなる頭脳とカリスマにより人々をまとめてきた」


 豊臣といえばかの有名な天下人、豊臣秀吉が思い起こされます。あれほど有名な家系なら、なるほど、歴史の裏に隠された子供がいても不思議はありません。


 それから、彼は天草家の事を嬉しそうに語ってくださいました。彼は自身の生まれに誇りを持っているようで、天草家のことには詳しく、まるで彼自身が実際その時代にいたかのような語りぶりに、私は圧倒されました。


 彼の熱を帯びた表情の、爛々と輝く赤みがかった目や、にぃと笑う口の端から覗く鋭い八重歯は、特に記憶に残っています。でもそれは、初めて私に、彼に対する恐怖を覚えさせるものでした。失礼な事に、彼を、怪物かなにかと錯視してしまったのです。


「おや、もう汽車が。すまない、喋りすぎてしまったようだ。またここで会おう」


 汽笛の音と共に、彼はベンチから立ち、優しい声で私に仰いました。彼の目を見ると、どうにも夢心地になってしまって、先程感じた恐怖も夢のよう……。


「天草さん……ふふ」


 私は去りゆく彼の背中を見送って、彼の名を呟きました。きっとまた会える。そんな希望を胸に抱いて。


――――――――――――――――――


 それから毎週、彼に会うために駅へと足を運ぶようになりました。


 彼は何故か曇りの日にしか会ってはくださいませんでしたが、それがかえって彼に対する気持ちを膨らませたのです。


 季節は移り、梅雨の時期などは彼に会えない日も多く、寂しい思いをいたしましたが、梅雨も開けた近頃ではまた少しずつ会う機会も増え、最初に比べれば随分仲良くなれました。


 しかし、私はまだ自身の胸中を告白できずにいたのです。


「お父様ったら、学校を出たら、見合いをして家庭に入るようにと言うのです。私は、社会に出て、男の人と同じように活躍したいのですが」

「きっと、君のお父様は君のような可愛い娘を放ってはおけないのだろう。だが、君の志は立派だ。私は君を応援したいな」


 父との関係にヤキモキしていた私はこの言葉に幾らか救われたような気がしました。


「そうだ、銀座の町に、最近美味しい洋食屋さんができた。一緒に行ってみないか」


 殿方からの食事のお誘い。私は心が舞い上がるようでした。


「是非!」


 天草さんに連れられた洋食屋さんは、煉瓦で作られたこれはまたお洒落な所で、そこで食べたじゃーまんすてーきは、頬が落ちそうな程絶品でした。


「美味しいかね」

「とても美味しいです」

「そうか、良かった。ワインとも合う。試してごらん」


 普段はお酒を飲まないのですが、彼のワインを飲む艶やかな唇と、一段と美しいあの瞳に吸い寄せられるように、私はワインをあおりました。そうして話しているうち、酔いが回って、はしたないことに寝てしまったようです。


――――――――――――――――――


 目覚めたのは見知らぬ天井でした。薄暗い部屋には照明が点いておらず、窓は金刺繍のカーテンが掛けてあるようです。


「おや、目覚めたかい」


 傍らで、天草さんの声が聞こえてきます。


「意識のない女性を脱がせるのも忍びなく、外着のまま寝かせてしまった。許してくれ」


 まだ酔いが続いているのか、ぼうっとした頭で上体を起こすと、彼は茶飲みに入った一杯のお水を渡してくれました。私は散々呑んで泥酔した挙句、そのまま彼に介護されたのか。そう分かると、途端に恥ずかしさがこみ上げてきて、私は顔を隠しみっともなく呻くことしかできませんでした。


「隠すことはない」


 私の耳元で、天草さんの囁く声がしました。私は驚いて顔を上げると、彼の美しい顔が私の目の前にあったのです。彼の不思議な虹彩のある目を見ると、やはり夢心地になってしまいます。


 私は気づくと、彼の胸板に顔を埋めていました。私はなんとはしたないことを!? 頭の隅でそう思いましたが、私の体は、意識の制御外にありました。


 彼は、優しい手つきで私の頬を撫で、柔らかい指先を首に這わせて、最後に顎に手を添えそっと持ち上げました。こんなに近い距離で、殿方と目が合うことの、なんと恥ずかしいことか……!


 泥酔した私を家に上げ、それでも手を出さなかったのです。きっと、彼にその気はなかったのでしょう。これは多分、私の言外の我儘を察した彼が、仕方なくやるのです。そう、自分に言い聞かせながらも、私は何か彼に期待をせざるを得ませんでした。


「嫌ならばしっかりと断ってくれ」


 彼はそう言って、私の唇を奪いました。甘い、甘い時間でした。今になって、私はお酒の匂いがしないかと不安になってきました。けれど、彼の深い接吻に、そんなものはすぐ吹き飛んでしまいました。


 不思議な時間でした。結婚をするまでは、殿方とこのような行為はしないと決めていたはずなのに、自分でも呆れる程に熱中していたのです。私は、想い人が形だけでも私を求めてくれていることの嬉しさと、彼に気を遣わせているのだという自己嫌悪の感情が高まり、気づけば涙を流していました。


 その時、彼は私に囁くのです。


「案ずることはないさ。実のところ、私も君に参っていたのだ。この想いは秘めておこうと思っていたが、君の想いが確認できて、私だけでは無いと知った。私と、生涯を共にしてくれ」


 この日は、人生で一番幸せな日だったに違いありません。今でも大切に胸にしまった思い出なのです。


——————————————————


 それから、私達は人の居ない深夜の東京駅にて、毎夜のように逢瀬をしておりました。今日も、彼に会うため化粧鏡の前で身支度をしているところです。


「あれ」


 私は鏡の前で笑顔を作ると、以前よりも犬歯が鋭くなっているのに気づきました。


「ふふ、彼とお揃い」


 私はつい嬉しくなりました。


「この鏡、映りが悪くなってきちゃったな」


 私は不満げにそう言うと、すぐに気持ちを切り替えて、彼に会うべく夜の闇に消えてゆくのでした。

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帝都情話 月咲 幻詠 @tarakopasuta125

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