おてんば王女様に世界の面白い法則を教えていたら恋に落ちた。このままハッピーエンドだと思ってた。――圧倒的な身分の差が、僕らの未来を否定するまでは。これは、世界で一番切ない「さよなら」の物語。

Gaku

第一話:檻の中のお姫様と、空の下の魔法使い


『今日のドレスは、湖の夜明けをイメージしたものでございます、ルナ王女殿下。素敵でございましょう?』

『ええ、素敵ね。まるで凍った沼みたい』

『……。』

『今日の紅茶は、東方の秘境で夜明けの霧を浴びて育った茶葉でございます。素晴らしい香りでございましょう?』

「ええ、素晴らしいわ。なんだか、湿った犬の毛みたいな香りがする」

『……。』

 私の人生は、「素敵」と「素晴らしい」でできた、金ピカの鳥かごだ。

 朝、目が覚めると、侍女たちが鳥のさえずりのような声で私を囲み、鳥の羽のように軽いドレスを着せ、鳥の餌みたいに上品で味気ない朝食をテーブルに並べる。窓から差し込む初夏の光ですら、まるで計算され尽くした舞台照明みたいに、部屋の埃を一粒一粒、主役のようにキラキラと照らし出す。その光にむせ返るようなバラの甘い香りが乗って、私の鼻腔をくすぐる。ああ、今日も一日、生きた化石になるための退屈な訓練が始まるのだ、と私は思う。

 私の名前はルナ。このアウレリア王国の、たった一人の王女。それが私の、今のところの職業であり、趣味であり、特技であり、そして、どうしようもなく巨大な檻の名前だった。

「さて、本日は王国史、建国の英雄、”鉄血王”アルフレッド一世の治世について学びましょう」

 私の家庭教師、グレイストーン伯爵夫人が、乾いた薪が爆ぜるような声で言った。夫人の顔の皺は、まるでこの国の複雑な歴史そのものを刻み込んだ地図のようだ。そしてその地図は、残念ながら、ひどく道に迷っているように見える。

「鉄血王。素晴らしい響きですわね。きっと、血の代わりに鉄が流れていたのでしょう」

「さようでございます。それほどの覚悟と冷徹さで、この国を統一されたのでございます」

「ふうん。それで、その鉄の人は、どうやって死んだのかしら?」

「え…? あ、それは、その…晩餐会で、好物のブタの丸焼きを喉に詰まらせて…」

「ブタ!」

 私は、思わず身を乗り出した。それまで物語の登場人物の名前くらいにしか思えなかった鉄血王が、急に、ちょっとマヌケで愛すべき隣人のように思えてきた。

「ええ、なんでも…その丸焼きは、建国以来一番の出来栄えだったとか…」

「最高の一口が、最後の一口になったわけね! 面白い! それこそ歴史の醍醐味じゃない! 教科書の最初のページに、太字で書いとくべきよ!」

「王女殿下、そのような…はしたない…」

 伯爵夫人の皺の地図が、さらに複雑な地形を描き出す。私はそれを見て満足すると、再び窓の外に視線を投げた。

 城の庭では、庭師たちが一分の隙もなく木々を刈り込み、花々を配置している。風が吹いても、枝々はまるで「失礼いたします」とでも言うように、お上品に頭を下げるだけだ。ざわめきすらしない。鳥かごの中から見る、完璧に作り込まれたジオラマ。それが私の世界。

 だから、私は時々、この檻から逃げ出すのだ。

 歴史の授業が終わる鐘の音は、私にとって、自由へのファンファーレだ。

「では、本日はここまで。午後は、詩聖と謳われたボードリ卿の『七つの溜息』について学びます故、それまでに昼食をお済ませください」

「ええ、わかったわ。楽しみだこと。溜息の数え方を学べるなんて」

 伯爵夫人が退室するのを見計らい、私は音もなく立ち上がった。侍女たちが「王女殿下、昼食の準備が…」「まあ、ドレスに皺が…」と小鳥のように騒ぎ立てるのを、柳に風と受け流す。

「少し、一人で庭の空気を吸ってくるわ。詩聖の溜息に備えて、肺を清めておかないと」

 完璧な微笑み。王女の仮面は、こういう時にとても役に立つ。侍女たちがうっとりとその仮面に見惚れている隙に、私はひらりと身を翻し、大理石の廊下を滑るように進んだ。

 目指すは、北塔の裏手にある、今はもう誰も使わない食料庫へと続く階段だ。ひんやりとした石の廊下は、私の足音を吸い込んでくれる。壁からは、雨上がりの日の土みたいな、少し湿った苔の匂いがした。私はこの匂いが好きだ。完璧に管理されたバラの香りより、ずっと「生きている」感じがするから。

 衛兵の交代時間は、午後の一時。彼らが気の抜けたあくびを噛み殺し、「昨日の酒場の女がどうだった」とか、「今度の給金で何を買うか」とか、そういう最高にどうでもいい話に花を咲かせている間に、私は壁の隠し扉に手をかける。重い石の扉が、ギシリ、と長い眠りから覚めるような音を立てて開いた。

 .

『さよなら、私の拘束具! こんにちは、自由!』

 秘密の通路の薄闇の中で、私は鳥の羽のように軽いが、鉛のように重いドレスを脱ぎ捨てた。代わりに身に着けるのは、何度も洗濯してくたくたになった、亜麻色のチュニックと、動きやすい革のズボン。城の誰かが見たら卒倒するような、はしたない格好。だが、私にとっては、これが世界で一番の正装だった。

 .

 城下町に一歩足を踏み入れると、全身の細胞が、待ってましたとばかりに歓声をあげるようだった。

 空気が違う。匂いが違う。音が違う。

 城の空気が、ろ過され、香りをつけられた澄まし水だとすれば、ここの空気は、様々な具材がごった煮になった、栄養満点のスープだ。パンが焼ける香ばしい匂い、家畜の糞の匂い、男たちの汗の匂い、天秤棒を担いだ行商人が運ぶ異国の香辛料の匂い。その全てが、私の肺を「これぞ人生だ」とばかりに満たしていく。

 喧騒も心地よい。肉屋の親父が常連客と交わす怒鳴り声のような挨拶。それを真似してきゃあきゃあ笑う子供たち。物陰で愛を囁き合う若い恋人たち。生命力に満ちたノイズが、私の心を躍らせる。

『うん、今の「てやんでい」は完璧だったわ』

 八百屋のおばちゃんが景気よく叫んだ言葉を、こっそり口の中で真似てみて、私は一人で悦に入った。

 初夏の太陽は気前が良く、石畳の道を惜しげもなく照らしつけている。建物の軒先が作る日陰と、ぎらぎらと照りつける日向のコントラストが、まるで巨大な獣の縞模様のように街を彩っていた。風が吹くと、街路樹の葉がわさわさと揺れ、まだらな木漏れ日が地面の上をキラキラと走り抜ける。私はその光の粒を、わざと踏みしめながら歩いた。意味なんてない。ただ、楽しいからだ。

 ふと、広場の方から、ひときわ大きな子供たちの歓声が聞こえてきた。何事かと人混みをかき分けてみると、その中心には、一本の大きなニレの木がそびえ、その涼しい木陰に、人だかりができていた。

 その中心に、彼がいた。

 年の頃は、私とそう変わらないだろうか。日に焼けた肌に、何度も洗濯したのだろう、少し色褪せた焦げ茶色のチュニックを着ている。特別、目立つような容姿ではない。それなのに、なぜか彼の周りだけ、空気が楽しそうにキラキラと揺れているように見えた。

「いいかい? このビー玉一つ一つが君たちだ。何のルールもなしに転がせば、ほら、ただゴチャゴチャとぶつかるだけ。喧嘩ばっかり起きるクラスみたいだな」

 青年――ソラと、後で知ることになる彼は、地面に描いた大きな渦巻きの上に、色とりどりのビー玉をばらまいた。ビー玉は好き勝手な方向に転がり、カチカチと耳障りな音を立ててぶつかり合う。

「でもね、『隣のビー玉とはぶつからないように、でも離れすぎないように』って、たった一つの、思いやりのルールを加えると……見てごらん!」

 彼が渦巻きの中心から、そっと自分のビー玉を転がした。すると、不思議なことが起きた。彼のビー玉に押された他のビー玉たちが、次々と隣のビー玉の進路を予測し、譲り合うようにして、渦巻きの線の上を滑らかに流れ始めたのだ。カチカチという不協和音は消え、まるで一つの生き物のように、カラフルなビー玉の川が、渦を巻いて流れ出した。

「すげー!」「魔法みたい!」

 子供たちが、純粋な驚きに満ちた声をあげる。青年は、ニレの葉を透かして落ちてくる緑色の光を浴びながら、ニカッと笑った。

「だろ? 世界ってのは、こういう面白い法則でできてるんだ。魔法なんかじゃなくてね」

 .

『魔法じゃない、ですって。じゃあ、今の私のお腹が鳴ったのも、法則かしら』

 私は、その不思議な光景から目を離すと、自分の腹の虫が出した素直な要求に従うことにした。広場の隅で、威勢のいいおばちゃんが、串に刺した肉を焼いている。じゅうじゅうと油の爆ぜる音と、香ばしい煙が、私の理性を麻痺させるには十分すぎた。

「おばちゃん、これ一本ちょうだい!」

「あいよ、お嬢ちゃん! 最高の焼き加減だよ!」

 受け取った串焼きは、熱々で、少し焦げた部分がカリカリしていて、城で出されるどんな高級料理よりも、私の心をときめかせた。

「んー、これこれ! お城の晩餐会より百倍おいしい!」

 人目もはばからず、私は夢中で肉にかぶりついた。口の周りがタレでベトベトになるのも、お構いなしだ。自由の味は、少しだけ行儀が悪いほうが、より美味しく感じられる。

 そう、私が人生で数少ない「思い通りになる」瞬間を、心ゆくまで堪能していた、まさにその時だった。

 .

 背後から、すっと伸びてきた影。

 次の瞬間には、肩にかけていた、なけなしの小銭を入れたポシェットが、ひったくられていた。

「あっ、泥棒ーっ!」

 我ながら、なんとも情けない声が出た。犯人は、痩せた狼のような目つきの男で、あっという間に人混みの中に駆け込んでいく。追いかけようにも、人垣が厚くて前に進めない。ああ、私の自由時間と、なけなしのお小遣いが、一瞬にして消えていく。なんて理不尽な世界!

 万事休す。

 私が、串焼きを握りしめたまま、呆然と立ち尽くした、その時だった。

「わっはっは! 見ろよ、みんな! 今日の風は、最高のシャボン玉日和だぜ!」

 広場の中心から、あの青年の底抜けに明るい声が響いた。彼と子供たちは、いつの間にかビー玉遊びをやめて、大きな輪っかを使ってシャボン玉を飛ばしていた。その中の一つ、ひときわ大きく膨らんだシャボン玉が、初夏の風に乗り、ふわり、ふわりと、まるで意思を持っているかのように、ひったくり犯の方へと飛んでいく。

「ぶっ!」

 見事、としか言いようがない。虹色に輝くシャボン玉は、犯人の顔面にクリーンヒットした。石鹸水で視界を奪われた犯人は、パニックになって数歩よろめく。そして、その足は、寸分の狂いもなく、果物屋の店先からこぼれ落ちていた、熟れたバナナの皮を、完璧な角度で踏みしめた。

 .

 そこからの光景は、まるでスローモーションだった。

 世界から、音が消えた。

 犯人の身体が、美しい放物線を描いて宙を舞う。その手から、私のポシェットがするりと離れ、まるで主役の登場を待ちわびていたかのように、空高く放り上げられた。

 その時、近くの魚屋の屋根の上で、気持ちよさそうに昼寝をしていた三毛猫が、目の前を横切ったポシェットの革紐に驚き、寝ぼけ眼のまま、しかし野生の勘がそうさせたとしか思えない、絶妙な力加減で猫パンチを繰り出した。

「フシャーッ!」という声が、遅れて聞こえてきた。

 猫の肉球によって軌道を変えられたポシェットは、今度は向かいの八百屋が日よけに出していた、鮮やかな赤色のテントの縁に当たった。まるで計算され尽くしたピンボールのように、ポシェットは角度を変え、放物線を描いて、再び広場の中央へと舞い戻ってくる。

 そして。

 ポスン。

 という、なんとも気の抜けた、優しい音を立てて、私の頭の上に着地した。

 .

 広場は、一瞬、水を打ったように静まり返った。

 ひっくり返って気絶している犯人。

 何が起きたか分からず固まっている人々。

 そして、頭にポシェットを乗せたまま、串焼きを握りしめている、私。

 .

 沈黙を破ったのは、誰からともない、一人の男の噴き出すような笑い声だった。それが合図だったかのように、堰を切ったように、広場のあちこちから、爆笑の渦が巻き起こった。

「わっはっはっは! 見たか、今の! すごいな、お嬢ちゃん! どんな曲芸だい!」

「あいつ、間抜けすぎるだろ!」

「猫がいい仕事したな!」

 その笑い声の真っただ中を、あの青年が駆け寄ってきた。

「わっはっは! いやー、すごいもの見たな! 世界って、たまに信じられないくらい面白いことを、本気で仕掛けてくるよな! 大丈夫かい? ポシェットも、君も」

 私は、まだ頭の上にポシェットを乗せたまま、呆然と彼を見上げた。

「……今の、あなたのせいでしょ」

「え? 俺は、ただ最高のシャボン玉を吹いていただけさ。あとは、そよ風と、バナナの皮と、仕事熱心な猫と、物理の法則が、勝手に面白くしてくれたんだよ」

 彼は、心底おかしそうに、涙を浮かべて笑っていた。

 私は、その底抜けの笑顔と、自分の今の滑稽な姿を想像して、ついに我慢できずに噴き出してしまった。

「ふ、ふふっ、あはははは!」

 おかしくて、おかしくて、涙が出てくる。こんなに腹の底から笑ったのは、一体、何年ぶりだろうか。

「あなた、最高におかしい人ね!」

「君こそ! そんな、お城から抜け出してきたみたいな、本物のお姫様みたいな格好して、頭にカバン乗っけて、串焼き片手に大笑いしてる子、初めて見たよ!」

 彼の言葉に、私はドキリとした。けれど、彼の瞳には、ただ純粋な好奇心と面白さしか浮かんでいない。

 傾きかけた西日が、私と彼の影を、まるで昔からの親友みたいに、長く、長く石畳の上に伸ばしていた。広場を吹き抜ける夕暮れの風は、少しだけ涼しくて、汗をかいた肌に心地よかった。その風が、私の金色の髪と、彼の焦げ茶色の髪を、優しく揺らして混ざり合わせる。

『なんなの、アイツ。魔法使い? それとも、ただの、とんでもない幸運の塊?』

 私は、彼の隣で笑いながら、心の中で呟いた。

『まあ、どっちでもいいか。こんなに面白いなら』

 それが、私の退屈な世界が、音を立てて色づき始めた、記念すべき第一日目。

 檻の外で出会った、太陽みたいに笑う、不思議な魔法使い。彼の名前はソラ。

 この出会いが、私と彼と、そしてこの国の運命を、誰も予測できない、とんでもない方向へと転がしていく、巨大な渦の、ほんの始まりの一回転だったなんて。

 今の私には、知る由もなかった。

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