おまじない
中村朝日
沙織と勝也
まだ六月なのに。
そんな言葉が飛び交う今月は、本当に暑い。真夏日なんてざらだ。
麦茶を入れたコップの氷がからりと音を立てて、それで初めて、出した麦茶が一口も飲まれていないことに気づいた。
沙織は、自分で飲んでしまおうと思った。床に散らばった服は、まだ拾わない。もう一回するかもしれないから。そんな淡い期待を抱く自分を馬鹿だなと思いながら、ベッドから起き上がった。通販サイトで購入したベッドは、可愛いけれど、安物だ。沙織が起き上がった振動が、勝也に伝わってしまったようだった。
「ん……なに」
「ごめん、麦茶飲もうと思って」
「いま何時」
「20時過ぎたとこだけど」
「やっべ」
勝也はがばっと身を起こすと、脱ぎ散らかしていた服を身につけ始めた。
勝也が焦っている理由は、なんとなく分かった。分かりやすい彼にも、察してしまう自分にも、怒りたいような、悲しいような気持ちになる。
「ねぇ、キスだけして」
「は、急いでんのわかるだろ」
「一回でいいから」
沙織がねだると、勝也は溜息をついてから、軽いキスを寄こした。
それだけで、さっきまでの悲しみが嘘のように、ふわふわとした幸福感に包まれる。
「なぁ、このアパートさ」
鏡の前でシャツのボタンを留めながら、勝也はこちらを見ずに言った。
「引っ越せよ」
「え? 急になんで」
「えー……いや、だってボロいじゃん、ここ」
歯切れの悪い様子に、あ、と思う。また察してしまった。都合のいい女って、あたしみたいなのを言うんだろうな。さっきの感情が戻ってきた。悲しさを持て余して、沙織は拗ねたそぶりをした。
「酷くない? 結構愛着持って住んでるんですけど」
「へー」
勝也はもう興味をなくしたようだった。スマホを充電コードごと抜き、鞄に放り込む。
「あ、それ」
「悪り、これ借りてたやつだっけ」
「いいよあげる」
「まじ? サンキュ」
悪びれない様子も、不快に感じるより先に、好きだなと思ってしまう。どうも、頼られているというか、必要とされている感じがしてしまって、喜んでしまうのだ。よくないのは、分かっている。分かっているんだけど。
「んじゃ行くわ」
「あ。麦茶、飲んでいかないの」
「えーいいよ。沙織が飲めば」
「うん」
ばたばたと靴を履いているところに、声を掛ける。
「今日ほんとに暑いから、何か買って飲んでよ」
「おー」
「熱中症、なるからね」
「わかったわかった」
ひらひらと手を振って、勝也はドアノブに手をかけた。
もう少し話していたいのに。焦れる気持ちのままに言葉を重ねようとすると、唇で塞がれた。
「じゃあ。またLINEするわ」
「う、うん……」
ぽーっと返事をしていると、ドアが開く音がして、はっと我に返る。
「またね」
「おー」
バタンと無機質な音が響く。鍵を閉めるのも惜しい気がした。
どこへ向かっているんだろうか。誰に会いに行くんだろうか。彼がどんな気持ちで向かっているのかは分かる気がするけれど、場所も顔も、知る由もない。
この寂しい気持ちを、いつまで抱えていたらいいのだろう。
「ちちんぷいぷい」
沙織は呟いた。
「あたしのこと好きになーれ」
おまじない 中村朝日 @asahi_novels
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