『残滓』
月白紬
『残滓』
長谷川蓮(はせがわれん)の舌は、呪われていた。いや、祝福されている、と言うべきか。
銀座の夜を照らす無数の灯りの中でも、ひときわ静謐な光を放つ老舗フレンチの名店『argent(アルジャン)』。ミシュランの星を十年以上守り続けるこの場所で、蓮は二十代の若手料理人として厨房に立っていた。彼には才能があった。食材の僅かな違いを嗅ぎ分け、0.1ミリグラム単位の塩加減で味の頂点を掴む、繊細な味覚。しかし、その才能も、師である料理長・白石(しらいし)の前では色褪せて見えた。
白石の仕事は、まさに神業だった。誰も思いつかない食材の組み合わせで、客の魂を揺さぶる一皿を創造する。その味は、もはや料理というより、一つの完成された芸術だった。
「焦るな、蓮。味とは、舌で感じるものではない。魂で味わうものだ」
力をつければつけるほどわかり始めた白石と自分の実力差からスランプに陥り、思い悩む蓮に、白石はそう静かに語りかけた。そしてある夜、店の片付けを終えた蓮を呼び止め、小さな桐の箱を差し出したのだ。
「お前に、これをやろう」
箱の中には、土を細かく砕いたような、黒い粉末が納められていた。嗅いだことのない、乾いていて、どこか甘いような、不思議な香りがした。
「『餮(てつ)』という。享保の頃、うちの店がまだ和食料亭『銀屋』だった頃から代々伝わるものだ」
「これは……スパイス、ですか?」
「味覚を研ぎ澄ませたいのなら、試してみるといい。ほんの少し、舌に乗せるだけでいい。だが、使いすぎるな。魂ごと、持っていかれるぞ」
白石はそれだけ言うと、闇に溶けるように去っていった。その忠告は、蓮の耳にはむしろ、悪魔の囁きのように甘く響いた。
✳ ✳ ✳
深夜、一人残った厨房で、蓮は震える指で「餮」をひとつまみ、舌に乗せた。
瞬間、稲妻が脳を貫いたような衝撃。舌が痺れ、視界が白く点滅する。次の瞬間、世界が一変した。厨房にある全ての食材が、その来歴を蓮に語りかけてくるようだった。
カウンターの檜は、霧深い森で何百年も生きてきた記憶を。水槽の鯛は、潮の流れの速さや、海底の砂の感触を。野菜の一つ一つが、浴びてきた太陽の光と、吸い上げた水の量を。
味が、視えた。味が、聴こえた。味が、理解できた。
蓮の味覚は、人間が到達し得ないレベルにまで覚醒した。翌日から、彼の料理は別次元へと昇華した。客は彼の皿を「奇跡」と呼び、評論家は「百年の一人の天才」と賞賛した。蓮は、名声と才能の開花という、むせ返るような快感に酔いしれた。
だが、栄光の光が強まるほど、彼の日常の影は濃くなっていった。
まず、日常生活の味が消えた。コンビニの弁当も、評判のラーメンも、かつては心を慰めてくれた恋人の手料理でさえ、まるで砂を噛むように無味乾燥に感じられた。鮮烈な味覚の奔流を体験した蓮の舌は、もはやありふれた味を「味」として認識できなくなっていたのだ。唯一、彼の魂を震わせるのは、『argent』の厨房で、「餮」の力を借りて作る、自らの料理だけだった。
異変はそれだけではなかった。食材に触れるたび、その「記憶」が生々しく流れ込んでくるようになった。
魚を捌けば、網にかかった瞬間の絶望的な暴れる感覚が。牛ヒレ肉を叩けば、屠殺場の冷たい床の感触と、恐怖の匂いが。それは食材の記憶というより、むしろ「死の追体験」だった。断末魔の苦痛や悲しみが、調理のたびに蓮の精神を削っていく。
恐怖に駆られた蓮は、「餮」を断とうとした。しかし、もう遅かった。彼の舌は完全に「餮」に支配され、あれなしでは味を感じられないだけでなく、あの超人的な感覚を失うことへの恐怖が、彼を禁断の粉末へと引き戻した。才能を失うくらいなら、魂が蝕まれた方がましだった。
蓮は、この呪われた祝福から、もう逃れられないと悟った。
✳ ✳ ✳
「餮」とは、一体何なのか。
その正体を知るため、精神が蝕まれ憔悴しきった蓮は嵐の日の深夜、白石が何人たりとも入ることを許さない、店の地下にある最も古い蔵に忍び込んだ。黴と埃の匂いが充満する蔵の奥で、彼が見つけたのは、壁一面に並べられたおびただしい数の骨壷と、一冊の古びた帳面だった。
帳面には、『argent』その前身の料亭の初代から続く、悍ましい秘密が墨痕鮮やかに記されていた。
初代料理長は、究極の味を求め、人の領域を超えるため、古代中国から伝えられる禁忌のレシピに辿り着いた。「餮」とは、スパイスなどではない。それは、春秋戦国時代・楚の王家の厨房から連綿と受け継がれてきた悍ましい美食の秘法。代々『argent』の料理長の座を退き、その生涯を終えた者の「遺骨」を粉末にし、その者が最も愛した食材を乾燥させて混ぜ合わせた、呪われた調味料だったのだ。
料理長は死してなお、その研ぎ澄まされた舌と魂を「餮」として厨房に捧げる。次の世代の料理人は、その「残滓」を味わうことで、先人たちの才能と、食材に刻まれた記憶を、自らの魂に取り込んできた。蓮が感じていた食材の断末魔は、食材そのものではなく、それを調理し、味わい、自らの血肉としてきた歴代料理長たちの、最期の記憶だったのだ。
「――ようやく、辿り着いたかね」
背後から、静かな声がした。振り返ると、蝋燭の光に照らされた白石が立っていた。彼の顔には生気がなく、肌はまるで土気色をしていた。
「私の役目も、もうすぐ終わる。私の『餮』が、最高の味を完成させてくれるだろう。そして、次の『argent』は、お前だ、蓮」
白石は、穏やかに、まるで慈しむように微笑んでいた。彼は、蓮の才能と、その才能に溺れる渇望を見抜き、後継者として選んだのだ。もうこの厨房という名の地獄から、蓮が決して逃れられないことも承知の上で。
* * *
三年後。
フレンチの名店『argent』は、新進気鋭の若き料理長・長谷川蓮の名声で、予約は一年先まで埋まっていた。彼の料理は「魂ごと味わう、官能的な体験」と評されている。
厨房に立つ蓮の目は、深く落ち窪み、狂気的な輝きを宿していた。彼は客に出す新作の味見をしながら、その奥に広がる「記憶」の奔流に身を委ねている。ある時は、ブルターニュの海で岩に張り付くオマールの記憶を。ある時は、トリュフの森の湿った土の匂いを。そして、時折ふと蘇る、白石が最後に味わった、一皿のブイヤベースの記憶を。
彼の調理台の脇には、二つの桐の箱が並んでいた。一つは、彼が代々受け継いできた「餮」。そしてもう一つは、白石の遺骨から作られた、まだ真新しい、ひときわ黒い光を放つ「餮」。
蓮は、厨房の隅で必死に鍋を振る、野心に満ちた若い弟子、勝山の姿を、じっと見つめる。その瞳に宿る、才能への渇望と、自分への嫉妬の色を見抜きながら。
いつか自分は、この若者に桐の箱を渡すのだろう。
そして自分自身もまた、この厨房の「餮」の一部となり、未来の天才の舌の上で、永遠に記憶の残滓として生き続けるのだ。
その運命を、蓮は絶望とも破滅とも思わず、むしろ至上の愉悦として受け入れていた。
彼は、新作の皿の仕上げに、白石の「餮」を、祈るようにひとつまみ、振りかけた。
料理の名は――「残滓のテリーヌ」。
『残滓』 月白紬 @shin-korori
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