第2話「報告者: 飼育員(妻)



【追補レポート】旦那(Danna Tsundere Domesticus)の特異的行動に関する考察


対象個体: 旦那

報告者: 飼育員(妻)


前回の基本生態レポートに続き、特筆すべき2つの行動が新たに観察されたため、ここに追補として報告する。


行動事例1:個体識別信号の極端な簡略化


当個体は、飼育員(妻)を名前で呼ぶ行為をほぼ行わない。代わりに、「おい」「なあ」「お前」といった省エネ型の呼びかけを用いる。


さらに観察を進めると、「これ」「あれ」「それ」といった指示代名詞のみで意思疎通を図ろうとする高度なコミュニケーション(?)が確認された。特に**「あれだよ!あれ!」は、頻繁に発せられる鳴き声であり、飼育員に対し、自らの意図を察する能力を試す行動、いわゆる「以心伝心チャレンジ」**であると推察される。


【考察】

これは言語能力の退化ではなく、飼育員への絶対的な信頼と依存の表れである。名前という固有名詞を使わずとも、自分の意図は100%伝わるはずだ、という揺るぎない確信に基づいた行動であり、ある意味で究極の甘え、そして究極の愛情表現(の裏返し)と言える。飼育員が「あれ」を正確に理解できた時、個体は満足感を得ると考えられる。


行動事例2:擬似睡眠と縄張り防衛


リビング(縄張りの中心地)のソファでテレビをつけたまま睡眠状態に入り、やがて床に移動して寝るという行動が観察された。この際、豪快ないびき(威嚇音)を伴う。


飼育員がテレビを消そうとすると、閉じていたはずの目を開けることなく**「見てんだよ!」と鋭く反応。飼育員が「ねてんじゃん!」と指摘すると、「聞いてたんだ」**と反論し、テレビの主導権を明け渡さない。


【考察】

これは、野生動物に見られる**「半球睡眠」**に近い状態である。片方の脳を休ませつつ、もう片方の脳で周囲の警戒を怠らないという、生存本能に基づいた睡眠形態だ。彼にとってテレビの音は、群れ(家族)の気配を感じる安心材料であり、かつ、自身の縄張りが正常に機能していることを示すバロメーターでもある。


それを消そうとする行為は、彼にとって「縄張りの異常事態」と認識されるため、たとえ睡眠中であっても瞬時に防衛本能が作動するのである。「見てる」のではなく「聞いて」安心している。これは、飼育環境への深い安らぎと、その平和を乱されたくないという強い意志の表れに他ならない。


小説:うちの旦那の飼い方【第二話】


うちの旦那には、私の名前をインプットする機能が搭載されていないらしい。結婚して数年経つが、彼が私の名前を呼んだ記憶は、数えるほどしかない。


基本は「おい」か「なあ」。機嫌が良いと「お前」。

そして、彼の言語能力が最も省エネモードに突入した時、それは現れる。


「なあ、あれ取って。あれ」

キッチンのカウンターで、彼はテレビのリモコンを片手に私を呼ぶ。彼の指差す先には、塩も醤油もソースも、あらゆる調味料が並んでいる。

「……どれ?」

「あれだよ!茶色くて、しょっぱいやつ!」

「醤油もソースも茶色いけど」

「ああもう!あれだよ、あれ!」


最終形態、『あれ』。

もはやクイズだ。この「以心伝心チャレンジ」をクリアして初めて、私は彼の求めるもの――この場合は醤油――を差し出すことが許される。まるで、言葉を覚えたての雛鳥に餌を与える親鳥の気分だ。いや、立場は逆か。


そんな省エネな彼が、唯一、エネルギーをフル稼働させる時間がある。

夜だ。


リビングのソファには、今日も立派な野生動物が一体、転がっていた。種族は、イエダンナ・イビキデカ科。口をぽかんと開け、「グゴォォ…フガッ…」と、およそ人間が出すとは思えない地響きのような音を立てている。


テレビは通販番組を大音量で流し、彼の安眠を陽気に妨害している…ように見えるが、彼にとってはこれが子守唄らしい。

しばらくすると、彼は巨体をゆっくりと揺らし、ソファからずるり。重力に従い、カーペットの上にごろんと着地した。トドが岩場から滑り落ちるみたいに。


「ちょっと、こんなとこで寝たら風邪ひくよ」

ベッドに行きなさい、という優しい忠告は、轟々たるいびきに掻き消される。仕方ない。せめてテレビだけでも消してあげよう。そっとリモコンに手を伸ばした、その瞬間だった。


「…見てんだよッ!」


閉じていたはずの瞼はそのままに、地を這うような声が響いた。寝てるくせに、気配を察知するセンサーだけは超一流だ。


「見てないじゃん! がっつり寝てんじゃん!」

思わずツッコミを入れると、彼はもごもごと口を動かし、こう言った。


「聞いてたんだ…」


聞いてたんだ、じゃないんだよ。

聞いてるなら、せめて「テレビ消さないで」くらいちゃんと言えばいいのに。どうしてこっちの行動を読んで、単語だけで威嚇してくるのか。その能力があるなら、普段からもうちょっとマシな会話ができるだろうに。


結局、リモコンをそっとテーブルに戻す。通販番組のハイテンションな声と、彼の豪快ないびきが、リビングで奇妙なデュエットを奏で始めた。


聞いてたんなら、私の名前くらい呼んでくれればいいのに。


そんな小さな願いも、きっとこのいびきに掻き消されて、彼には聞こえやしないのだろう。まあ、いっか。こんなに無防備に、縄張りのど真ん中で安心して眠っているのだ。


それもまた、「あれ」と同じくらい、不器用な信頼の証なのかもしれないな、なんて思ってしまう私は、やっぱり飼育員失格なのかもしれない。

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