逆光の君へ
Chocola
第1話
四月、桜の花びらが風に揺れていた。
春という言葉がよく似合う季節。高校三年生になった左衛門三郎凛(さえもんざぶろう・りん)は、教室の一番後ろの席で、窓の外に咲く花を静かに見つめていた。
「……あんた、本名それマジで合ってんの?」
前の席の女子が、やや本気めの声で尋ねてきた。
「うん。住民票も見せられるけど?」
凛はあっさりと返す。よくある質問だ。変な名前には慣れている。
背筋をまっすぐに伸ばし、きれいに切り揃えられた髪をなびかせながらも、凛はどこかクラスの中で浮いていた。話すときは丁寧で落ち着いていて、大人びて見える。
けれど、人と深く関わるわけでもない。近づきがたい空気を、意図せず纏っていた。
その理由を知っているのは、本人だけだった。
「左衛門三郎、おまえ、作文得意だったよな」
担任の一言が、すべての始まりだった。
「卒業制作でドラマを作ることになった。脚本、書いてみないか?」
教室のざわめきの中で、凛の横顔がほんの少しだけ動いた。
彼女は、かつて偽名で小説を発表していた。
年齢も顔も明かさず「R・S」という筆名で世に出たその物語は、一時話題となり実写化もされた。
けれどその後は名前を出さず、静かにその世界から身を引いた。
その事実を知る者は、ほとんどいない。
ただ一人、彼女の物語をきっかけに人生が変わった少年を除いて――。
ドラマの主演に決まったのは、幼なじみの雲類鷲裕翔(うるわし・ひろと)。
中学時代に読んだ『月が泡になる夜に』に心を動かされ、俳優を志した。
そして偶然にも、その原作のヒロイン役の相手役として彼はデビューを果たした。
彼にとって“R・S”の物語は、ただの本ではない。
人生を決めた、大切な記憶そのものだった。
数年ぶりに再会した凛は、かつての彼女とはどこか違って見えた。
でも、脚本に込められた“言葉の癖”は、間違いなくあのときのままだった。
「……やっぱり、君が書いたんだ」
そう確信したのは、裕翔が台本を読んだ瞬間だった。
撮影が始まったのは、四月の終わり。
教室、廊下、屋上――生徒たちがそれぞれの役割を分担し、拙いながらも一生懸命に作り上げていく。
凛は毎日のようにシーンごとの修正を重ね、現場を見守りながら脚本に手を加えていた。
そんなある日。
突如として予期せぬ出来事が起きる。
「なんか……車、突っ込んでこなかった!?」
「ちょ、あれ動物!? ダチョウ!? ライオン!? 嘘でしょ!?」
逃走車が校門を破り、謎の電車がグラウンドを横切り、幻の動物たちが暴走する――。
まるでB級映画のワンシーンのような混乱が、現実の中で巻き起こった。
そのとき、凛のバッグの中で二台のスマホが同時に震えた。
履歴はゼロ。通知もなし。
でも、その震えはまるで「今だ」と言っているようだった。
廊下を駆ける中、裕翔が凛の手をつかんで言う。
「……大丈夫。俺がいるから」
その言葉は、セリフではなかった。
裕翔の素の声。心からの、想い。
校舎裏の倉庫に逃げ込んだ二人は、やっと一息ついた。
「……なんで俳優になったか、教えてなかったよね」
「うん」
「中一のときに、君の小説を読んだんだ。
あれで、初めて“生きててよかった”って思った。
それから、ずっと君の物語の中で生きたかった」
「……そんな、たいしたもんじゃないよ。私のなんて」
「でも、俺にとっては、人生のスタートだった」
そう言って裕翔は、まっすぐ凛を見た。逆光の中で、その瞳は少し潤んで見えた。
やがて騒動は“事故”として片づけられた。
逃走車の件も、幻獣も、すべては“サーカスの輸送ミス”と無理のある説明がなされ、生徒たちは日常へと戻っていった。
だが、凛たちが撮っていた映像には、事件の一部始終がはっきりと映っていた。
録画を編集したクラスメイトが、ふと呟いた。
「……なんか、全部映画の演出みたいに見えるな」
「脚本、現実になっちゃったんじゃない?」
「いや、現実が脚本に合わせてきたんじゃない?」
笑い合うクラスメイトの輪の中で、凛は静かに思った。
“もう一度、書いてみようか”。
放課後、帰り際。
裕翔が振り向きざまに言った。
「……また、君の物語で、俺に演じさせて」
凛は少しだけ笑って、頷いた。
その夜。
凛は久しぶりにパソコンを開いた。
カーソルが瞬く白い画面に、そっと指を添える。
傍らには、今も履歴のない二台のスマホが置かれている。
でも、それでも構わない。
これは、物語の“終幕”じゃない。
今ここから始まる、わたし自身の第一稿だ。
《これは、終幕から始まる物語――。》
(了)
逆光の君へ Chocola @chocolat-r
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