ゲームが好きだったおかげで救えて満たされて……さようなら

富士なごや

第1話

 意識が覚醒したとき、真っ先に感じたのは、壮絶なまでの臭さだった。生臭いというか獣臭いというか、何かが腐敗している臭いというか、『嫌な臭い』に分類されるありとあらゆる臭気を混合させたかのようなもので。目を開ける前に吐き気を覚えたほどだ。


 だから、怖さのあまり目を開けなかった。だって、明らかに普通でない。こんな臭気を感じる中での覚醒だなんて、これまでの人生にはなかった。オレの目覚めは、いつだって、いたって平凡だったのだ。匂うものといえば、姉が作る朝ご飯くらいという毎日だった。


 どう考えても、これはおかしい。異様だ。だから、目を開けたくない。瞼を上げてしまったら、見たくないものを見てしまうかもしれないから。たとえそこにどんなものがあったとしても、見さえしなければ、ないも同然だ。……いや、そんなことはないか。


 仮にそこに何かが存在するとして、自分が見ないからといってそれが消えてなくなるわけではない。ただ、自分が認識できないだけだ。認識できない……待ってくれ、そのほうが何倍も恐ろしいのではないだろうか。ほら、今ももしかしたらそこにいる何かが、ひたりひたりと近づいてきているかもしれない。見ないままでいたら、何に対応もできない。


「ッ」対応できない、つまり、逃げることもできないという恐怖が背筋を震わせ、オレは両目をかっぴらいた。……あん? 映ったものに、疑問。自室の天井がそこにはなかった。

 映るのは、天井は天井でも、真っ黒な建材の天井だ。しかも、何を象っているのかわからないが、極めて精緻な飾り細工が施されている。教会とか聖堂とか呼ばれる文化遺産の天井みたいだ。家賃五万の安アパートの自宅とは、明らかに違う凄みを発している。


「…………」


 物音はしない。息遣いも、とくに。気配も感じない。誰も、何もいないのだろうか。答えを出すのは早いだろう。とにかく確認だ。見て、確認だ。何か存在していたとしてもこちらの動きを気取られないように、ゆっくり、静かに、とりあえずまずは眼球だけ左右に動かしてみる。……、……、……。最大限に眼球を運動させてみたが、同じような暗い天井と、暗い空間があるということしかわからなかった。


 こうなってくると、もう身体を動かすしかない。どうする。まずは、頭だけ? それとも思い切って上半身を起こそうか。悩ましい。いやいや悩んでいる場合か? そもそも、あの天井に、この暗い空間だ、明らかに自室ではない。悠長にしていて、メリットあるか?


「…………」


 思い切ることにした。思い切りは、案外、大事だ。オレが愛して止まない、もう三十三周もした超重厚ド級死にゲーでも、武器やアイテム、レベル上げにステ振りも勝つための重要な要素だけれど、何より大事なのは、やるときにはやる、つまり臆せずに攻撃する、ゴリ押しすることが大事。だから、ガッといこう。バッといこう。よし、せぇ~~~のっ!


 上体を一気に起こす。そして、左右警戒。誰もいな……はっ⁉

 いた。二人。五メートルほど離れたところにまず一人、その人からさらに同じだけ離れたところにもう一人。二人とも寝かされている。救急の担架みたいなものに。


「ッ」オレは勢いよく行動を開始した。自分の身体の状態確認とか、そんなもの、頭にはなかった。だって、だってそこにいるのは、寝ているのは、この世で一番大切な人と、その人が愛している人だから。オレはオレのことなんて……痛いのとか苦しいのとか嫌だし、怖い目になんて避けれるなら避けたいけれど……生ゴミのようにしか思っていないのだ。


 オレはオレが、とことん、どうだっていい。

 早く死ねよ、とまで思っている。

 ただ……死んじゃダメ!って、泣いてくれた人がいるから生きているだけだ。

 その人の迷惑にしかなっていないから死にたいのに……悲しませたくはないから……。


「うおっ」大切なその人に近付こうと動いて、次の瞬間には身体を浮遊感が襲った。上体が一気に前へと傾いて、視界が強制的に下を向き、勢いよく床が接近してくる。

 落ちている、と察した瞬間には、落ちた。しかし、なんとか両手をついて堪え……たかったけれどそうはできず、顎を強打して舌も噛んだ。マジで痛くて涙が滲む。


 ……ん? 体勢を立て直そうとしたとき、ふと、視界の右端に赤いものが映った。

 警戒心がほぼピークに達していると言ってもいい精神状態だからか、という色への正体を確かめたいという欲求は強かった。だって赤といえば血というか……ねぇ?


 見る。……え……。信じられなかった。

 その赤の正体は、何度も目にした、見知ったものだったからだ。

 てらてらと濡れ光る赤で描かれたそれは『聖肉教会の刻印』。


 見間違いではない。

 見間違えるわけがない。


 だって……だから。

 もう三十三周もプレイし、いろいろな実況者のプレイ動画も視聴してきたのだ。見間違えるわけがない。この世全ての血肉を喰らうことで神聖なる上位者になることができる……という信条の許、主人公たちを殺戮狂の信者に仕立て上げる聖職者たちの刻印だ。


 どうして……どうしてこんなものが、ここにある?

 それに、そうだ。この位置、ゲームと同じ。ゲームにもここに刻印が描かれていた。

 主人公が目覚める寝台があって、そのすぐ傍に血の刻印があったのだ。


 ……あん? 寝台があって、そこで、目覚めて……。

「ッ」ゾッとした。いやまさか、まさかそんなバカなことがあるわけない。

 ない。ないないない。そうだ。そうだそうだっ。今はとにかく二人をっ……。


 立ち上がって、近いほうの一人の傍へ。

 寝台で横たわっているその人は……やっぱり、大切な人だった。

 距離が縮まったことで、さらに向こう側にいるもう一人が誰かも確信を持つ。


 その二人とは、大切な人と、大切な人が愛している人。

 実の姉と、その婚約者だった。

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