傷跡は残れども


🎬


 僕は思わず、彼女の腕を掴んだ。その拍子に、ルーズシャツの袖口から、手首に刻まれたいく筋もの傷跡が覗く。

 慌てて腕を引いた彼女は気まずさを隠すように、金髪のショートボブを耳にかけた。耳たぶには、攻撃的なデザインのピアスがいくつも並んでいる。


「……ごめん」

「わかったでしょ。さっき『関わりたくない』って言ったけど、あんたたちの方こそリスカ女なんかに関わらないほうがいいよ」


 プイとそっぽを向いて歩き出した彼女の前に、茨本紀章が立ち塞がった。


「待って、滝口さん。もうちょっと話させて。でないとこの人、とんでもない事するよ?」


 真顔でそう言って、僕を指差す。は?


「俺なんてお気に入りのカフェで公開処刑されたし」

「ちょ、人聞きの悪い」

「事実じゃん。公衆の面前で大演説ぶちかまされてさ。俺、あれ以来あの店行けてない」

「それはマジでごめんって。ちょっとアツくなっちゃって」

「アツく、っていうか暑苦しかった。非常に」


 言いながら彼は柔らかく笑って、流れるような自然さで彼女をベンチへと促した。彼女の職場近くの住宅街、大型マンションの陰で忘れ去られたような、小さな公園の隅っこ。あるのはいくつかの植え込みと簡素なベンチ、塗装のハゲまくった動物の遊具3体だけ。周囲に人気はない。

 彼はベンチの端に腰掛けると、正面に立ったまま座る素振りも見せない彼女の左手首を、服の上からそっと包み込んだ。


「まだ痛む?」

「……」


 彼女は俯いて、答えない。


「止めなよ、ノリくん。痛いに決まってるじゃん」

「……そういうの、いいから。もう痛くないし、同情とか心配とか、迷惑だから」


「痛いのは、心の傷の方だよね」


 僕の言葉に、彼女はさっきまでとは別人のような、憎しみに満ちた視線を返してきた。歯軋りの音まで聞こえてきそうだ。


「そうやってわかった風な事言われるの、一番嫌い。マジでウザい。二度と話しかけんな。テメエもだよ」


 と、今度はノリくんへ向けて言い放つ。金属じみた軋みを含んだ声が、耳に突き刺さる。


「初対面だからと思って大人しくしてりゃ、調子に乗りやがって。いつまで腕握ってんだ変態。ちょっとイケメン風だからって女がみんな喜ぶと思ってんじゃねえぞクソが!」


「えええ、クチわるぅ……」


 流石のノリくんも手を離し、万歳の格好をして見せた。「チッ」と舌打ちし、彼女は足早に歩き去ろうとする。僕はその背中に、叫んだ。



「滝口ともえさん、君の作る影が好きだ!」


 一瞬、足が止まる。だが、小さく「キモ」と吐き捨ててまた歩き始めた。


「君の作る影は饒舌だ。あんなの、君じゃなきゃ出来ない。それに温度や湿度を感じる光の風合い。プラクティカルライトの使い方なんて斬新でめっちゃ痺れた。他にも色々あるけど、なんと言っても君の照明は……!」


 彼女が足を止め、半分だけ振り向いた。心なしか、少しだけ表情が和らいでいる。



「正直、その…最後の言葉は嬉しい。でも、映像はもう辞めたんだ。今は音楽関係で舞台照明の仕事してる。コンピューター制御で楽そうだし、あれはあれで面白いよ。なんて、まだ下っ端だから雑用ばっかだけどさ」


 「じゃ、そーいうことで」と言い置き、また歩き出してしまう。


「でも、臨場感がない。現場での息詰まるやり取り、役者やカメラとの言葉のない会話、ヒリヒリする緊張感を思い出してよ!」


 呆れたように緩く頭を振りながら、スタスタと歩みを早める。


「さっき、影を見てたろ? あの、ノリくんが腕を掴んだ時!」


 彼女の足が止まった。やっぱりアレは、そうだったんだ。チャンスとばかりに駆け寄って、畳み掛ける。


「君はノリくんの手を振り解かなかった。掴まれたままで少しの間、じっと立ってたよね。周囲を囲む大型マンションの隙間から細く射す太陽光。風に揺れる木漏れ日がノリくんの腕時計に反射して、君のシャツの袖口をチラチラ照らしてた。自分ならどうライティングするか、一瞬でも考えなかった?」



「………考えたよ」


 振り返った彼女の顔は真っ赤で、今にも泣き出しそうに歪んでいた。


「いつも考えちゃうんだよ! いくら頭から追い払っても、気づいたら考えてる。映画の照明が好きだった。でも、あたしにはもう出来ない!」


「噂では聞いてたよ。怪我しちゃった主演の子、君の親友だったって」


 彼女は両手をぎゅっと握りしめた。よほど強く握っているのだろう、関節が白く浮き出して見える。


「だろうね。学生映画の業界なんて狭いもん、あっという間に噂は広がる。でもね、怪我しちゃった、じゃない。あたしが怪我させたんだ。あたしの機材管理が甘かったせいで。あたしにはもう、役者を照らす資格がない」


 いかにも気の強そうな彼女の目から、涙がこぼれ落ちた。


「あの子は女優目指してたのに、あたしも応援してたのに……よりによってあたしが、その道を潰した」


「……それで、手首を?」


 ぎゅっと目を閉じて、彼女が頷いた。涙は後から後から溢れ出る。


「こんなことしたって、意味ないのはわかってる。彼女の顔についた傷が消えるわけじゃない」


 握った拳でゴシゴシと顔を拭く姿は、小さな子どものようだ。


「本当は、顔を切ろうと思ったの。彼女と同じように、ううん、もっと酷く。でも、怖くてできなかった……あたしは卑怯で臆病で、サイテーのクソ女なんだよ!」


 身体を揺すり地団駄を踏みながら、泣き叫ぶ。本当に、癇癪を起こした子どもみたいに。


「なんなんだよお前ら、嘲笑えよ! バカ女って罵れよ! 石の一つも投げてみろよ!」


 しまいには、しゃくりあげながら地べたにへたり込んでしまった。


「なんで、誰も責めないんだよお……」



 僕はポケットを探ったが、ハンカチなんて持っていなかった。跪いて抱きしめてやることも出来ない。ようやく本音を吐き出してくれた彼女に優しい言葉をかけてあげたいけど、僕の言葉なんて彼女には無意味なんだろう。だから……


「そうやって、彼女からずっと逃げ続けるんだね。だ、そうですよ? 環さん」


 胸ポケットに入れておいたスマホを取り出し、ビデオ通話状態になったままの画面を彼女に向ける。


「え?」


「ともえーッ! あんたバカじゃないの? リスカって何よ、聞いてないんだけど?!」


 画面の中からドアップで叫んでいるのは、彼女の親友。元女優の夏井環さんだ。メイクで隠してあるのだろうか、この小さな画面では傷跡は見えない。


「たまき?……え、なんで? いつから?」

「もちろん、最初から。さっき君も言ったでしょ、『狭い業界』だって。探して連絡したんだ」

「ウソでしょ……」

「彼女、『自分も不注意だったし、充分過ぎるくらい謝罪は受け取った』って言ってるよ」


 滝口ともえはへたり込んだまま呆然として、僕の顔とスマホの画面を交互に見ている。


「ともえ、さっさと傷の具合見せなさい」

「え、無理……」


 さっきまでのガラの悪さはどこへやら。借りてきた子猫のようにおとなしい。

 僕はそっと彼女の手を取って、傷跡をカメラに見せた。画面の中の夏井環が悲しげに眉をひそめる。


「ああ……こんなにいっぱい。痛かったねえ」


 彼女は「うん」と頷きかけて、急いで首を振った。


「い、痛くなかった……たまきに比べれば、こんなの全然」

「私もとっくに痛みはひいてるよ。っていうかそんなもの、比べたってしょうがないでしょう。ほーんと、バカ。あ、バカ女だっけ? それともクソ女? あとは何だった? そうそう、罵って欲しいんだっけね。電話に出ろ既読無視すんな返信しろ、ともえのアホボケカス。さぁ、まだ足りない?」



 彼女は画面に縋り付くようにして泣きながら、「ごべんなさい〜〜〜」と「ありがとおおお」を長いこと繰り返していた。




🎬



 なんとか落ち着いたところで、皆でさっきのベンチに移動し、ノリくんのスマホでとある映像を流す。彼女の作品のライティングを参考にして、僕が練習用に撮ったワンシーンだ。僕のスマホも通話状態のまま。環さんにも一緒に見てもらう。


「あたしのマネじゃん」

「参考、ね」


 滝口ともえは、涙でびしょびしょになったノリくんのハンカチで洟をかみ、目の縁と鼻の頭を赤くしたまま吐き捨てるように言い放った。


「下ッ手くそ。劣化コピー」

「そう、僕じゃ無理。だから、滝口さんにお願いしたいんだ」


 横からノリくんが口を挟む。


「この人、しつこいよ。それに暑苦しい。また、君じゃなきゃダメなんだー!とか叫び出すよ」

「うざ」

「いいじゃん。やりなよ、ともえ」

「え………でもあたし、もう怖くって。みんなにたくさん迷惑かけたし、また失敗したら……」

「みんな怒ってないよ。あれは事故だった」

「でも……」


 夏井環の吹っ切れたような明るい笑い声が、滝口ともえの口を閉ざした。


「ともえ。私ね、舞台に転向しようと思う」


 ハッと息を飲んだ滝口ともえの目が、キラキラと輝いた。


「続けるの? 女優さんに、なるの?」

「そう。迷ってたんだけどね、ともえと話して踏ん切りついた。お芝居大好きだもん。こんなかすり傷くらいで諦めない。だからともえも諦めないでよ。私もともえが作る画、大好き。また見たい。いっぱい見たい」


「え……う、うん♡」


 僕らに対する態度と違いすぎる。何なんだ、そのハニカミっぷりは。涙目でほんのり頬を染めちゃって、可愛いじゃないか。ノリくんも苦笑いしている……が、ちょっと嬉しそうだ。



「やったー! お二人とも、ともえのこと、お願いしますね。ほら、ともえも挨拶」


 画面越しに促され、彼女は渋々と言った様子で下顎を突き出した。


「……っしゃーっす」


 スマホの中では夏井環が怒っているが、怒られているともえは嬉しそうにモジモジデレデレしている。本当に、僕らに対する態度と違いすぎる。



 ともかく、脚本に続き、僕らの映画の照明担当が決まったのだった。



🎬


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