第19話 猫耳ぃ……
――あの冷たく悲しい瞳は今でも覚えている。
猫は死に際を見せたがらない。
お母さんは病気になって、体がどんどん弱くなっていった。それに伴い、ストレスによる猫化が頻繁におこっていた。
使用人の人たちがまだたくさんいたあの頃、お母さんは皆に世話をされ、なんとか生活ができていた。
けれど、会社が傾き始め、使用人さんを雇うお金がなくなり、お母さんのことをみるのが私だけになった。
お父さんは苦しかったと思う。死が近づいたお母さんは人の時は優しいけれど、猫化すれば本能がまさり情緒が不安定になる。
忙しい中でもわずかな時間をつくりお母さんに会いに帰るお父さん。ずっと一緒にいてと甘えてしまう猫化したお母さんは、にゃあにゃあと鳴く。
それでもお金がなければお母さんを助けることもできないから、仕事へ向かう。
あの時のお父さんの苦しみは、私なんかには想像もできないくらいだったんだろうなと思う。
そんなある日。お母さんは消えた。
猫は死に際をみられたないように、隠れるようになると聞いたことがあった。
だから、屋敷のどこかに隠れているのかと思った。だから、私とお父さんと秘書さんはお母さんを探した……けれど、結果見つかったのはお母さんが来ていた洋服だけだった。
屋敷の近く、裏山に近い場所の木々の中。
「……奈子」
お母さんの名前を呼んだお父さんの頬に伝う涙。それはもうお母さんに会えない事を悟った心が伝い落ちたものだった。
「お嬢様……!」
秘書さんが私の姿をみて目を剥く。お母さんの病気によるストレス、もう会えないという悲しみによるストレスが許容範囲を超えたのだろう。
私はこの日初めて猫になった。
「……」
お父さんの冷たく悲しい瞳が、こちらに向いていた。
――
「……私は誰かの負担にはなりたくない。君は優しいから、困っている人をみるとつい助けたくなるんだよね……知ってる。けど、それは、私には余計なおせっかいよ」
そういった碧月の表情は、どこか儚げだった。
「……そうか」
「だからこの話はもう終わり」
「え」
「助けてくれたお礼はまた別にする。……でも、これから先、もう私のことを助けなくていいから」
「まて、それとこれとは話が別だろ」
「え?」
「俺はこれからもお前を助けるぞ」
「……話きいてた?」
「聞いてたよ。けど、今の話って俺の負担になりたくないって話だろ?」
「そうよ」
「だったら問題ない。猫と遊ぶのが負担になんてなるはずもないし、猫を助けることが負担だなんて思ったこともない」
「や、だから……それは君に自覚がないだけで」
「俺の趣味は猫カフェでお猫様と遊ぶことなんだよ」
「え?」
「お前を助けるだけで、タダで鈴音と遊びまくれるなんて最高だろ」
「……えぇ」
困惑の色を隠せない碧月。でも本当のことだからな。しかし、納得のいってないような表情で目を細め俺を見てくる。
しかたない。こういう話を引き合いにだすのは気は進まないが……それで鈴音を助けられるなら。
「昔、お前と同じロシアンブルーの子を家で飼ってたんだよ俺」
「……」
「その子は家に来てすぐに病気で亡くなったんだが、俺はあいつの世話が負担だなんて思わなかったよ。寝る暇もなくて、排泄も失敗するようになったりして大変だったけど、それでも嘘偽りなく俺はあいつのことを負担だなんて思ってなかった……それを上回る愛情があったからな」
「……そう」
「ああ。だから、お前がどれだけ面倒臭くて世話の大変な奴だったとしても、俺は愛する自信がある」
「ッ」
びくりと体を震わせる碧月。俺の本気が伝わり始めたのかもしれない。目を見開いて口が僅かに空いている。
「俺はもう鈴音の事が大好きなんだよ」
「……ぁ……ぅ」
「たぶん、もう鈴音がいない生活にはもどれそうにない。だから、こっちから頼むよ。鈴音と一緒に居させて欲しい」
「……ふ、ぇ……」
両頬を手のひらで覆い、身を捩る碧月。なぜか顔が赤い。何度も猫化するたびに裸になってたから、風邪でもひいたのか?
とにかく、
「俺は鈴音を大切にする。だから、お願いします」
まっすぐに碧月の目をみた。真剣に、想いが伝わるように。
なぜか瞳が潤んでいる碧月。あきらかに熱がある……風邪かもしれない。呼吸もあらっぽいし。この話が終わったら撤退しないとな……休ませてあげないと。
「……」
「……」
思い悩んでいるのだろう。首を傾け、ゆらゆら体が僅かに揺れている。
あとなんか微かに独り言のような呟きが聞こえてくるような……「ひ、きょう」?とか「ずるい……」とか、なんとか言ってるような?気のせいか……?
それから、数分の無言が続き、ようやく碧月はひとつ頷いて口を開いた。
「…………そ、そこまで、いうのにゃにゃ……」
にゃにゃ?って、まて!これって……!
「まじで!!?やったああー!!」
マジで嬉しいんだが!!これからあのロシアンブルーこと鈴音とまた触れ合う事ができる!!もうさよならを覚悟したあの可愛いお猫様と!!
「ありがとう、碧月!」
「〜〜ッ」
俺は嬉しさの余り、つい彼女の両手を握ってしまう。
真っ赤な顔がさらに熱を持ち、碧月は俯いてしまった。
「だ、大丈夫か」
「……ひとつ、だけ……約束してほしい」
「一つだけ?なんだ?」
「……」
やや間があって、彼女は顔を僅かにあげた。そして上目遣いで、
「……私の前から、いなくならないで」
俺はハッとする。
弱々しくつぶやいた碧月。
彼女の瞳は潤んでいた。
不覚にも心臓が大きく鳴る。人には興味がないと言った俺だが、この表情と言葉に込められた想いには胸がうたれてしまう。
お母さんを病で失った悲しみか。それとも他の何かなのか……彼女の想いの正確なところはわからない。けれど、その気持ちは伝わってくる。
かつて、俺も感じたことのある誰かを失う『寂しさ』……彼女が恐れているのはおそらくそれだ。
誰かに寄りかかることで、再び失ったときの『寂しさ』を想像してしまう。その辛さと苦しさは、簡単には消えてくれない。
(……それもあって、友達をつくろうとはしてなかったのかもな)
人とはちがう自分。ストレスで猫化してしまう彼女は、それを知られればもう関係を続けられない。少なくとも碧月本人はそう思っている。
……父親の負担にならないよう、一人で生きようと足掻いていた碧月。だからこそ、これまで抑えていた『寂しい』という想いが溢れ出している。
「碧月」
「……なに……?やっぱり、めんどくさくなった……?」
不安そうな色に表情が陰る。
「いや、全然。っていうか、前から俺のこと知ってるとか言っていたけど……実際、全然知らなかったんだなって思ってさ」
「……?」
「俺は猫狂いなんだぜ?」
そう、俺は猫狂いと呼ばれた男。お猫様に対しての愛情はマリアナ海溝よりも深く、エベレストよりも高い……そして、未だ膨張し続ける大宇宙よりも広大である。それくらい大きい。
「お猫様に鬱陶しがられ逃げられることはあっても、俺が鈴音のまえから居なくなることはない。なめんな」
猫だけに。
……いや、お猫様には舐められたいけど。
「……ふっ、ふふ」
「?」
ふと見れば、碧月が微笑んでいた。
生えかけていた猫耳がいつのまにか引っ込み、人のものになっている。
「……そっか、猫狂いだもんね。あはは」
そう言って、彼女はくすくす笑った。
……ああ、猫耳ぃ……。
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