第2話 忘れ雨の文月/晴れ間に確信の生まれた水無月



【文月】


茹だるように暑い日。

何時の間にか半袖になった制服と、陽炎がアスファルトに揺れるようになって、そんな中で体育館という四角い箱にこれだけの人数を集めようとするのは日本人特有なんじゃないかと思う。

それも、僕が世界の普通を知らないから勝手に思っているだけかもしれないけれど。


『えー、夏休みに入っても君たちが我が校の生徒であることに変わりはなく、節度を守り……』


「ほんっと、なんでこう言う話って長いのかね」

「マジ暑い…むりー、早く教室戻りたいー」

「まって汗かいてきた。メイク崩れるのマジで無理なんだが」

「おい寝るなって…おいオガ先こっち睨んでんぞ」

「…ぐぅ…」


うるさい


煩い


五月蝿い


そっとポケットに手を伸ばして、そのまま再生ボタンを押した。

ピアノの音が塗り替えていく。

あぁ、このイヤホンはこういう時に役に立つ。ノイズキャンセリングのやつ、持ってきておいて正解だった。

まるで僕そのものみたいに、隠すようにつけたワイヤレスのイヤホンから流れる電子音はざわめきも喧騒も塗り替えて、周波数へと変換されたピアノが僕を守るようにきらきらと奏でられた。


背後から感じる、"あの人"特有の視線を感じることは、もう慣れてしまった自分がいることには気付かないまま。


いや違う。


それが日常に溶け込んでしまっている事に、高梨先輩の存在が僕の"普通に"なってしまって居ることに気付かないまま。

僕は世界を閉じるように少しだけイヤホンの音量を上げた。



____________________




「……降ってたんだ」




「あー終わった終わった」

「先にHR終わらせてくれた先生マジ神!」

「え!雨じゃん…傘もってる人ー、一緒に入れてー!」

「あ、もしもし?ねえ雨降ってるから迎えきてよー」

「雨降ってるならカラオケ行くべ?」

「いーじゃーん!!」

「部活どうすんのかなぁ…体力作りは地獄すぎる……むり……」


雪崩のように箱から出てくる生徒たち。

暑さはそのままに厚く覆われた黒い雲から落ちてくる雨は6月に降り忘れたのを補うようで。

雨ひとつにここまで騒がしくなれる周りから少し距離を置いて空を見上げていた僕は、鞄を背負い直して歩きだそうとした。するとふと遠ざかる右耳の音。


「やっぱり、イヤホンしてた。いつもの有線のやつじゃないんだ?」


何時もより、僕とだけの時より少しだけ明るく、けれど温度感の低く響く声。

人が疎らになった出入口のノイズは少し小さくなっていた。喧しく遠回しな視線は除くとしても。


「……先輩、返してください」


「やーだ。あれ、いつもの曲じゃない。新しいアルバム?」


……なぜ覚えているんだろう、気持ち悪い。

僕のイヤホンを自分の耳から少しだけ離して決して触れない距離からの筈なのに、なぜ分かるんだ。

左側の電子に変換されたピアノの音は、確かに新しく聴き始めたアルバムのもので。

正確に当ててくるのだから、この人は変だ。


「ね、屋上でしょ?俺もいーく。購買行ってから行くから、先行ってていーよ。その時にこれ返すね?」


そう言って僕の顔を覗き込みながら笑う高梨先輩は何時もより明るく"普通"に近いまま、けれど矢張り綺麗に笑って。その視線の温度感は、あぁ、ずっと感じていたあの視線は矢張りこの人のものだったのだと確信を持たせた。

何故僕が屋上に行こうとしている事に気付いて居るんだろう。

その違和感には、すぐに気付けないまま。


「すぐ追いかけるね。」


僕のイヤホンの右側を持ったまま。

先輩は走り去っていった。


____________________



屋上の一つ下の階は授業以外で使われることの無い特別教室ばかりだからか、屋上にいるより聞こえる音が少ない事を知ったのは、あの梅雨の日だった。



雨の音が、聞こえる。



____________________


【晴れ間に確信の生まれた水無月】



降り続いた雨が太陽に隠れる様になりを潜めた数日。まだ衣替えが行われる前で袖を折っている人が増え始めた頃だった。


雨だったから行くのをやめていた屋上への階段を上がる途中。


「おつかれ、古泉くん」


いつもの使い込まれた鞄を下げて、先輩が後ろから声をかけてくる。イヤホンをしているのが分かっているのに、いつもこの人はなんで話しかけてくるんだろう。


「2日も晴れてるからさ、今日はこっちかな〜って。」


相変わらず僕の少し後ろを着いてくる先輩は、へらっと効果音の着きそうな声音で笑いながら言った。周りの声が少しずつ靄がかかるように小さくなると僕と先輩が階段を踏みしめる靴底の擦れる音とピアノの音だけが響いた。


ぎいっ、と軋む蝶番。


開いた扉から差し込む太陽は夏のはじまりなのかと思うぐらい目に痛い光を放っていた。

今日はいつものところより少し影になっている所に座ろう。

「くぁーっ!晴れたー!ね、最近雨続きだったし暑いけどこういう時の太陽っていうのはいーよね」

僕からの返答を待っている訳でもない距離感と、その言葉。明るいトーンの筈なのに声に乗っている音はいつもの様に奇妙な温度がしていて気持ちが悪い。

勿論、返事をする訳でもなくそのまま何時もの場所より少しだけ影になる所に座って、またイヤホンの音量を上げて目を閉じる。


世界を音で塗り替えるみたいに。


ふはっ、って何時ものように"僕の知る"高梨先輩は笑って、またフェンスの軋む音がした。

僅かに聞こえるグラウンドの声と、教室の窓から漏れる話し声。暖かい風が髪と肌を撫でる感覚。それからイヤホンから聞こえる変換されても聴こえるピアノの音。

そして、気配の薄い先輩の息遣いと相変わらず肌を舐めるようにこちらを見る視線。


これが日常になったのは何時だろう。


この人が、何を考えているのか分からない。


1曲目が流れる間、そんなことを考えては消えるシャボン玉みたいな時間が流れて。次の曲、次の曲と何曲かを流してまた1曲目に戻ってきた時、なんだか変わった気がした風の温度と共に突然フェンスの軋む音がしたと思ったら腕を掴まれた。


目を開ければ僅かに光に眉を顰め見えない逡巡があったけれど、この場所に居るはずの先輩以外にその相手はありえないと脳が理解するまでに数秒。



キモチワルイ



『大好きよ』



過去の歪な音が反響する



やだ




『ダイスキ』





ヤメテ


そんな出来事(こと)はなかった


僕は、ボクは




『キョウヤ、あいして……』



違うこれは今の事じゃ




「やめ……っ!?」


「古泉くん、降るから。中入るよ。」


呼吸が苦しくなって自分から発せられている筈の音は妙に響いて不快で。じっとりと一瞬で額に滲んだ汗。反射的に振り払わなくてはと思った腕の感触。


明確なノイズ


不快感


僕の頭の中に響いていたノイズに割り込むように覗き込んできた先輩のビー玉みたいな目。

その目の奥に見えたアスファルトのような陽炎が揺らいでいたことをよく覚えている。一瞬で消えたその陽炎に、温度のない一対のビー玉に"今"を感じて。目の前にいて僕の腕をとったのが高梨先輩だということを再度理解するまで数秒。


大丈夫、あれは今じゃない。

この人は、おかしいひとだけれど。

違う。


その目に覚えたのは安堵なのか、夏の日に溶けそうな飴玉のような何かなのか。

それは、今も僕は分からないけれど。


その感覚だけは、確かに覚えている。


先輩はそのままなかば無理やり立ち上がらせた。

空いた手に自分の鞄と僕の鞄を持ち上げて、そのまま蝶番に無理をさせるように酷く軋んだ音を立てて開いた扉に駆け込まされる。

その最中僅かに僕は視線だけ屋上へと向けたのは何故だろう。


何かの暗示のように夏の象徴のような強すぎる光は飲み込まれるように影が侵食を始めた所だった。




"ガチャン"




軋むような音と共に扉が閉まると先程までいた太陽の暑さではなく立ち上るような熱がまとわりつく。

でもそれよりも、今は自分の呼吸音の方が不快だった。閉ざされた扉の脇の壁に背をつければ、そのまま力が抜けそうになるのを堪えることに必死になる。なんで?あんな、こんな風に


「危ないよ、古泉くん」


掴んだままだった腕を離すのではなく、両方の肩に手を置かれて、僕と色の違う1つ上の学年を示すネクタイが視界に入る。そこから顔を上げれば高梨先輩の顔。

僕のことを見据えるビー玉のような目には、何かが見えそうだった。

「古泉くん、ゆっくり息して?俺の声、聞こえたら一緒に息するよ」

まるで小さな子に教えるように区切りながら紡ぐ言葉には僕の知らないナニカと、いつもの奇妙な温度を同居させたような音で紡がれる。

僅かに聞こえる誰かの話し声と、室内独特の湿り気を帯びた暑さが肌にまとわりつく。けれど不思議と、先輩の声は僕の中に沈みこんでくる。


吸って、吐いて。


吸って、吐いて。


吸って、吐いて。


何度か繰り返せば、ノイズみたいに響いていた心臓の音も呼吸音も収まっていく。それと引き換えにしたみたいに扉の外から雨粒が地面を叩く音が響いて力が抜けた。壁に背中をつけたままズルズルと座り込んでしまう。

それと同時に、雨に騒ぐ声が遠くから僅かに聞こえてくる。


けれどそれよりも色濃く聞こえた気がした。


「ふは」


先輩の温度が、熱が変わった音が。


「ほんっと……君は、最高だね。」


足元しか見えない先輩の放った音がねっとりとまとわりついてくる。

けれど、それは


「こんなに綺麗に壊れてる子、やっぱ俺見たことない。」


僕は確信してしまったんだ。

しゃがみこんで顔を上げることも出来ない僕の顔を覗き込むその目。

奥底まで覗こうとするその目には


「ねぇ、大好きだよ」


僕が映っていることに。

紛れもなく僕を想っていることに。

抱きしめる訳でも、他に何をする訳でもない。ただ僕に向かって刃のようなその言葉を向けて投げつけてくる。


「大事にする。愛しい古泉くん。綺麗で真っ直ぐに壊れた君を、俺が全部から護ってあげる」


爛々と光るがらんどうの目に、僕は気持ち悪さも狂気も感じるのに。


今まで感じていた他の何よりも安心していることに。



扉ひとつ隔てた屋上へ続く踊り場に響く雨の音と先輩の綺麗(歪)な笑顔は、きっと僕は忘れないだろうと、今でも思う。



_________________________


【忘れ雨の文月】


雨が降る日は、屋上には出られないけれど。

屋上の扉を隔ててすぐの階段に座り壁に耳を付けながら音楽を聴くのは好きだ。屋上に跳ねる雨粒の音が分厚いコンクリートから響いてく錯覚を屋上の扉から流れてくる雨粒を弾く音が本当だと感じさせてくれるから。耳に流れてくるピアノのリズムを刻んでいるようで心地よかった。

「古泉くん雨の日のここ、お気に入りだよね」

1曲目が終わったところで声をかけられる。

いつも通りコーヒー牛乳を持って、半袖が妙に馴染んでいる先輩は本当に追いかけてきた。間違いなく来ることは、ここ数ヶ月で予想が着く程度にはなってしまっているから、確信に近く追ってくるだろうと思っていたけれど。

そのまま少し下の段から僕と目が合う。バチって音がしそうなぐらいに真っ直ぐ、爛々と輝くビー玉と交わってしまった視線は焼け焦げてしまいそうだった。

「……別に、そんなんじゃありませんけど」

「うーそ。5月の屋上の陽向にいる時より機嫌いいんじゃない?」

「知りません、うるさいです先輩。というかイヤホン……」

「あ、そうだそうだ。はい、これ返すね」

あの体育館の扉前で、先輩の手に落ちていたコロンとしたワイヤレスイヤホンが僕の手に戻った。


最近こうして先輩が僕に口を挟んでくることが増えた。何故なのかは知らないけれど、いつもよりも視線も声の温度も高く、けれど矢張りあの"人気者の高梨湧"とは違う音で。

僕を射抜こうとするビー玉の視線を無視するように目を閉じる。じゃないと本当に僕を焼け焦げて真っ黒にしてしまう気がしたから。

「だって古泉くんが可愛い顔してたからそうなんだろうなぁって思って」

いつもの様に、気持ち悪い声音であの人はまた僕を褒めてから階段の僕と反対の手すり側にもたれる気配を僅かに感じた。チャックの開く音が下の階に広がるざわめきよりもハッキリと聞こえたから、またいつもの様に本を開くのだろう。


そう思ったのに、あの人は


「よし」


そう呟いたと思ったらゴムが床と擦れる音。

ダッと踏み込んだ音と共に僕の腕を掴む感覚と共に浮き上がるように手を取られそのまま体が動き出す。


「いこ、"恭弥くん"」


イヤホンが僕の耳をすり抜けてそのまま肩にぶら下がる。紐が首に巻き付きそうになる。けれど先輩は止まる事もなくいつかの逆再生のように扉を開けて外へと僕を連れ出していく。


勿論外は雨。

夏の始まりを告げる終業式に降る雨は先程よりも少し柔らかさを増しているもののまだまだ振り続けている。


夏の雨は熱に浮かされてるのかまるでシャワーが空から降ってきているみたいに僕らを包んでいく。

雨の音に、僕と先輩の靴がコンクリートの上で跳ねる音が加わる。


「ちょっ、なに……!?」


「あははっ!!!ね、楽しいね恭弥くん!!!」


そう言って先輩は笑いながら僕の両手をとってしっかりと握りしめる。少し痛いくらいに。

そのままくるくるとまるで子供の持っている風車になった気分で、目が回ってしまいそうなのに何故か嫌にはなれなくて。

分厚い雲隙間から漏れる太陽の光と、グラウンドの隅のライトと、教室の蛍光灯たちの光が空からのシャワーみたいな雨をきらきらと光らせる。

跳ねるみたいに踊るように僕を連れて動き続ける先輩の足元には2人分水溜まりを跳ね上げてキラリと光る。その様子がまるで本の1ページのようで、自分がピアノの鍵盤になった気分だった。

「はは……っ」

「あ!笑った……あはは、やっぱり綺麗だ!大好きだよ、恭弥くん」


「また言ってる……あはは……っ、気持ち悪いですよ、センパイ」


「知ってる、自覚もしてる……っとっ!」


「うわっ!?」


くるくると踊るとも言えない僕らの1幕は僕が足を取られそうになって抱きとめられて一旦幕間に入った。

雨粒が先輩の髪を伝って僕の顔へと落ちてくる。抱きしめられるみたいに、まるで本当に踊っていた最中にターンからホールドされたみたいで。それなら雨の音とこの人の声は楽団で、焼け焦げそうに僕を映しつづけるビー玉はスポットライトじゃないだろうか。



「これでさ、雨の日も一人じゃないって。君に刻み込めた?恭弥くん?」



なんで、この人はこうも易々と知らないハズの何かを超えてくるんだろう。


"雨の日に必ず聞こえる幼い声"

『あめがやまなかったら』


爛々と見た事の無い熱さと

溶けそうなぐらい甘くて

不快で


"いつかの記憶の欠片"

『みんなかえってこないから、こわくないのに』


けれど呼吸がしやすくなる

先輩の気持ち悪いその言葉は



「愛してるよ、恭弥くん。君にどれだけ否定されても、俺は君を愛してる。壊れた君の過去だって受け止めて、今の君が大好き」



僕の中に雨と共に染み込んでいく

先輩はまた今日も、僕の前で綺麗(歪)に笑った

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