第4話 イリスの回想

ある朝、私は目覚めて、ふと思ったのです。


「今日、時間は何秒流れるのかしら」と。


イリス・アルメリアは、言葉をつむぐ最後の人間だった。

この世界で、もう詩は読まれていない。


記憶はAIが保持し、記録はソラが担っている。

それでも、彼女はノートに万年筆まんねんひつを走らせていた。


時間が速くなった。

歩いても、すぐ夜になった。

会話が途中で終わったまま朝になった。


誰かが言った、「それがTAS(時間加速度障害)だ」と。


誰もが「今が過ぎる」ことに怯え始めた。


子どもは1日で背が伸び、建物は1週間で朽ち、

恋人たちはキスの途中で別れた。


だがイリスだけは、その流れの音に耳をませていた。


落ちていく水の音に、私は言葉を重ねてゆく。

それは、消えゆくものへの小さな祈り。


落下するのは、時間か、それとも私たちか。


彼女は回想する。

あの最初の異変の朝を──。


かつて、時間はもっと重たかった。


時計の針は、きざむ音に意味を持ち、

日差しは傾くことで感情を連れてきた。

季節は循環じゅんかんし、沈黙には余白があった。


一日には重みがあり、

夜にはゆるしと、夢があった。


だが、誰もが急ぎすぎていた。

何かを目指して、何かに追われて。

会議は圧縮され、詩は削除され、

「言葉は短く、結果は早く」——それが正しさだった。


「まるで世界が、言葉の速度に追いついてしまったみたい」


それが、最初の違和感だった。


やがて、「中心点」が発表された。

世界が“終わり”に落ちていくカウントダウンが、全人類に突きつけられた。


イリスはそのとき、静かに笑ったという。

彼女は知っていたのだ。

終わりと始まりは表裏一体ひょうりいったいであるということを。


「私は、すべての終わりに“始まり”を聞き取るために詩を書く」


若き日のイリスは、図書館で偶然読んだ詩に涙した。

「なぜ時間が流れるのか」をうその詩は、誰にも読まれていなかった。

だが、イリスの中で、その一行は未来まで生き延びた。


『時間とは、記憶の重力である』

——それが、彼女の最初の詩だった。


今、そのイリスの記録が再生されている。

レイカ博士が開いた映像記録室えいぞうきろくしつで、誰も読み返すことのなかったページが、ようやく光を浴びる。


『終わりとは、沈黙ではなく反響。

その最初の詩が、ふたたび世界を満たすのです』


その声は静かだったが、確かに響いていた。

終末を迎える世界にとって、それは予言ではなく、回想だった。


イリスの最後の詩が、そこにあった。


『わたしは おわりにいる

けれど かつて はじまりにいた

そして その記憶を ことばにして残す

それは あなたの中で ふたたび目を覚ますから』


映像は、静かに途切とぎれた。

音も、光も、彼女の姿も、まるで風のように去っていった。


だがイリスの詩だけは、残っていた。

「誰か」の中に。

まだ終わっていない、「未来」の中に。


そしてその誰かが、レイカだった。


彼女はそのページを手に取り、思った。


——私たちは、本当に終わるのか?

それとも、これは始まりなのか?


イリスの声は、今もどこかで響いている。

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