鈍色の盾
緋翠
鈍色の盾
痛みに敏感すぎた。
そう悟ったのは、きっと何度目かの失恋を経験した時だったと思う。いや、もっと幼い頃から人よりずっと感情の起伏に激しく揺さぶられてきたのかもしれない。小さな棘が刺さっただけで大げさに泣き叫び、些細な悪意にも深く傷ついてきた。そんな自分にほとほと嫌気が差していた。だから、決めたのだ。苦しい時は、できる限り何も感じないようにしよう、と。
最初に試したのは、五感を鈍らせることだった。例えば、かつて満員電車で押し潰されそうになった時は、呼吸すら困難になるほどの圧迫感に苛まれたけれど、今は意識的に視界をぼやかせ、耳に届く喧騒を遠い幻のように捉えることにした。肌に触れる他人の体温も、ただの熱源として認識するだけだ。するとどうだろう。いつの間にか私は、その苦痛から切り離された場所にいる。まるで、私と苦痛の間に一枚の薄いベールがかけられたかのように。
次に、感情そのものに蓋をする術を身につけた。悲しいニュースを見ても、心に波紋が広がらないように意識して思考を停止させる。怒りが込み上げてきそうな時も、その感情が自分のものではないかのように客観視させた。それはまるで、心の中に分厚い鈍色の盾を構えるような作業だった。最初はぎこちなく、何度も盾が揺らいだけれど、繰り返すうちにその盾は私の感情をしっかりと覆い隠すようになった。
もちろん、完璧に感情をシャットアウトできるわけではない。時折、盾の隙間から、痛みや悲しみがじんわりと染み出してくることもある。それでも、以前のように感情の奔流に飲み込まれることはなくなった。私はその鈍色の盾の奥で、静かに呼吸を続けることにした。
この「鈍感であること」を心がけるようになってから、私の日常は驚くほど穏やかになった。他人の言葉に一喜一憂することなく、自分のペースで物事を進められるようになったからだ。些細なことで傷つくこともなくなり、人間関係の摩擦も減った。けれど、時々ふと考える。この鈍感さは、本当に私を幸せにしているのだろうか、と。
ある雨の日、道端で小さな子供が転んで泣いているのを見かけた。以前の私なら、きっと駆け寄って、心配そうな顔で声をかけていただろう。しかし、その時の私は、ただその光景を遠巻きに眺めているだけだった。心に何の痛みも湧かない。ただ、目の前で起こっている出来事を、一枚の絵を見るように客観的に認識しているだけだ。その時、私は少しだけ、一抹の寂しさを感じた。痛みに鈍感になることで、他人の痛みにも共感できなくなってしまったのかもしれない。喜びや感動といった、ポジティブな感情までもが、鈍色の盾の向こう側に置き去りにされているような気がした。果たして、これは正しい選択だったのだろうか。苦しみから逃れるために、私は大切な何かを犠牲にしてしまったのではないか。雨粒がアスファルトに弾ける音だけが、静かに響いていた。子供の泣き声はもう聞こえない。ただ、自分の心の中に広がる形容し難い空虚感だけが残った。
その日を境に、私は漠然とした不安を抱えるようになった。この鈍色の盾は確かに私を苦しみから守ってくれたが、それと同時に、世界との繋がりをも希薄にしているのではないか。喜びも、感動も、そして、他者への共感も、この盾によって隔てられているのではないかと疑念を抱いた。
ある日の夕暮れ、スーパーのレジで前の老婦人が小銭を数えるのに手間取っていた。かつての私ならイライラしただろう。しかし、今の私は、ただ無感情にその様子を眺めていた。すると、男性の若い店員が、嫌な顔一つせず、優しく声を掛け、手伝っている姿が目に入った。その刹那、私の鈍色の盾の表面に微かな亀裂が入ったような気がした。
「ありがとうね、助かったよ」
老婦人のしわくちゃな笑顔と、店員の屈託のない笑顔が交差する。その光景は私にとって、まるで別世界の出来事のように映った。私はこの温かい感情のやりとりから、あまりにも遠い場所にいる。そう気づいた時、凍てついた氷が溶けだすようにじわりと痛みを感じ始めた。それは懐かしく、少しばかり恐ろしい感覚だった。
家に帰り、私は部屋の隅に座り込んだ。これまで蓋をしてきた感情の波が、ゆっくりと押し寄せてくる。まるで自分のものではないように客観視していたはずの感情が、生々しい痛みとなって蘇った。鈍感でいることで得た平穏は、感情を一時的な麻痺させていただけに過ぎなかったのだ。苦しみを避けるために鈍感であることは、確かに一時的な逃避にはなる。しかし、それは同時に人生の豊かさをも奪い去る諸刃の剣なのだと悟った。喜びを深く感じられないように、悲しみも深く感じられない。感動に震えられないように、怒りにも燃えられない。感情の振幅が狭まることは、生きることそのものの奥行きさを失う事だったのだ。
私はもう一度、感情と向き合うことを意識した。痛みから逃げるのではなく、痛みを受け入れること。鈍色の盾を完全に手放すことはまだ怖いけれど、少しずつその盾に空いた亀裂を広げていくことから始めてみようと思った。
翌朝、私は窓を開けた。朝の光が部屋いっぱいに差し込み、鳥のさえずりが耳朶に心地よく響く。空気は澄み渡り、遠くの街並みがくっきりと見えた。先日までの私なら、ただの日常の風景として認識していたであろう光景が、鮮やかな色彩を帯びて目に映った。
まだ全ての感情をありのままに受け入れられたわけでない。また、傷つくこともあるかもしれない。それでも、私はこの世界や私自身の感情と再び繋がっていきたい。鈍色の盾の向こう側ではなく、盾のこちら側で全てを感じて生きていきたい。
私はゆっくりと深呼吸した。胸いっぱいに吸い込んだ空気は、少しだけ痛みを伴うようだった。けれど、その痛みは生きている証のようにも感じられた。
鈍色の盾 緋翠 @Shirahanada
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