『滴る』(1話完結小説)
ぼくしっち
第1話(1話完結)
記録的な猛暑、という言葉をニュースで聞かない日はない、そんな8月の昼下がりだった。 俺、佐伯(さえき)が住む築五十年の木造アパート「月見荘」は、現代の容赦ない陽射しから逃れる術を持たなかった。クーラーなんて文明の利器はない。窓を開ければ熱風がなだれ込み、大家さんから貰った年代物の扇風機が、ぬるい空気をかき混ぜて「ゴウン、ゴウン」と不気味に唸るだけだ。
「……あっつ……」
汗で貼り付くTシャツを引き剥がしながら、大学のレポートに向き合う。集中力はとっくに気化していた。アスファルトを焼く匂いと、狂ったような蝉の声が、思考を麻痺させる。
その時だった。
ポタリ。
静かだが、やけにはっきりと耳に届く音。なんだ? 音のした方へ目をやると、部屋の隅、天井と壁の境目あたりが濡れていた。そこから、ゆっくりと一滴の水が生まれ、重力に従って床に落ちた。
ポタリ。
「うわ、マジかよ…」
上の階は301号室。水漏れだろうか。面倒なことになったな、と舌打ちしながら、俺は雑巾を手に取った。床にできた小さな水たまりを拭う。 その時、ツン、と鼻をつく匂いに眉をひそめた。 鉄錆のような、それでいて生魚を放置したような、じっとりとした生臭さ。拭き取った雑巾に染みた水は、気のせいか少し黒ずんでいるように見えた。
翌日、アパートの大家である腰の曲がったお婆さんに水漏れの件を伝えた。しかし、大家さんは皺だらけの顔を怪訝そうに歪めるだけだった。 「佐伯さんの上の部屋? 301号室かい?」 「はい。昨日の昼くらいからポタポタと」 「……おかしいねぇ。あそこはもう五年も誰も住んでいない、空き部屋だよ」
空き部屋。 その言葉が、じわりと汗の浮いた首筋を撫でた。 じゃあ、あの水はなんだ? 古い水道管が破裂でもしたのかもしれない。そう無理やり自分を納得させた。この異常な暑さだ、頭がおかしくなっても仕方ない。
だがその夜、俺のささやかな希望は打ち砕かれた。 ベッドに横になっても、暑さで眠れない。扇風機の唸りと、外の蝉の声に混じって、例の音が聞こえる。
ポタリ……ポタリ……。
昼間よりも、心なしか間隔が短くなっている。そして、あの生臭さが部屋の空気に溶け込み始めている。 たまらなくなって電気をつけると、俺は息を呑んだ。 天井の、水が漏れている箇所。そこを中心に、じわりと黒い染みが広がっていた。直径三十センチほどだろうか。それはただの染みではなかった。闇の中で目を凝らすと、その形が、人間の横顔のように見えたのだ。高い鼻、閉じた瞼、薄く開いた唇。まるで、天井の向こう側から誰かがこちらを覗き込み、その輪郭だけが滲み出ているかのようだった。
ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。 暑さのせいじゃない。本能的な恐怖だった。
それから数日、俺は水滴の音と染みの幻覚に苛まれた。眠れない夜が続き、食欲も落ちた。昼間は大学の図書館に逃げ込んだが、夕方、あの部屋に帰るのが苦痛でならなかった。 染みは日を追うごとに、少しずつ、だが確実に形を変えていた。 横顔だったそれは、やがて俯いた人間の上半身のように見え始め、さらに数日後には、膝を抱えてうずくまる、人の全身のシルエットになった。
そして、運命の夜が来た。 その日も、耐え難い熱帯夜だった。うだるような暑さと、すぐ隣で鳴いているかのような蝉の声で、午前二時に目が覚めた。 いつもと何かが違う。 部屋の空気が、異常に湿っている。あの生臭さも、吐き気がするほど濃くなっていた。 そして、音だ。
ポタ…ポタ…ポタポタポタ…!
規則的だった水滴の音が、今はまるで蛇口をひねり損ねたかのように、不規則に、そしてけたたましく床を打っている。 恐る恐る、ベッドから身体を起こし、天井を見上げた。
「……あ……」
声にならない声が漏れた。 染みは、俺の部屋の四分の一を覆うほどに広がっていた。うずくまる人の形は、もはや判別できないほどに濃く、黒く、淀んでいる。 金縛りにあったように動けない俺の目の前で、信じられないことが起きた。 その染みの中心から、ぬるり、と。 黒く艶のある、長い髪の毛が一房、垂れ下がってきたのだ。 水滴がその髪を伝い、ポタ、ポタ、と床に落ちる。まるで、天井の向こう側にいる「何か」が、その身を絞って、この部屋に己の一部を染み出させているかのように。
髪はゆっくりと、生き物のように伸びてくる。一メートル、二メートル…。やがて、その先端が床の水たまりに触れた。 その瞬間。 天井の染み全体が、ぐにゃり、と粘性を帯びて歪んだ。 そして、人の形をした黒い影が、液体のように天井からずるり、と滴り落ちてきたのだ。 それは水と髪と怨念をこね合わせたような、名状しがたい「何か」だった。床に落ちて人の形を成すと、水浸しの床をずるずると這いながら、ベッドの上で凍りついている俺に、ゆっくりと近づいてくる。
「……あ……つ……い……ねぇ……」
しわがれた、水気を含んだ声が、脳に直接響いた。 身じろぎもできない俺の頬に、氷のように冷たい指が触れた。それは、滴り落ちてきた「何か」の手だった。 絶叫が喉の奥で凍りついた。 目の前に、髪の間から覗く、虚ろな目があった。その瞳に、恐怖に歪む俺の顔が映っていた。
「……すずしく……してあげる……」
冷たい腕が、俺の首にゆっくりと回される。 蝉の声が、やけに遠くに聞こえた。
数日後。 佐伯からの連絡がぱったりと途絶えたことを心配した大学の友人が、月見荘を訪れた。何度インターホンを鳴らしても応答はなく、ドアを叩いても静まり返っている。ただ、ドアの隙間から、カビと生ごみが腐ったような、ひどい悪臭が漂っていた。 友人の報せで駆けつけた大家が、合鍵で201号室のドアを開ける。
部屋は、もぬけの殻だった。 机もベッドも、家財道具は全てそのままなのに、佐伯の姿だけがどこにもない。 部屋全体がひどく湿っており、畳は水を吸って黒く変色していた。むわりと立ち込める悪臭に、友人と大家は顔をしかめる。
「……おかしいな」
友人が、ふと天井を見上げて呟いた。 部屋の隅に、大きな黒い染みが広がっている。まるで、巨大な人影がそこに焼き付いているかのようだ。 友人は、以前佐伯から「天井に染みが…」と、怯えた声で相談されたのを思い出していた。その時聞いた話よりも、染みは遥かに大きく、濃くなっている気がした。
その、染みの中心から。
ポタリ。
黒い雫が一つ、静かに床へ落ちた。
外では、まるで世界の終わりを告げるかのように、蝉がけたたましく鳴き続けていた。
『滴る』(1話完結小説) ぼくしっち @duplantier
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