第三話:裏切りの聖杯

王都での巡礼の儀式が終わり、リリスの心は、かつての月影の村の静かな暮らしとは、全く別の世界に囚われていた。きらびやかな王都の光景、貴族たちが集う華やかな舞踏会、そして何よりも、ゼルファス・闇鋼の熱い視線と甘い言葉に、彼女の心はすっかり奪われていた。もはやアルバス・蒼月の素朴な愛は、色褪せた思い出のように、遠い過去のものに感じられた。


ゼルファスは、儀式が終わるやいなや、リリスに誘いをかけた。


「リリス、王都で一緒に暮らさないか? 君のような美しい女性が、辺境の村に戻って朽ちていくのは、あまりにも惜しい」


彼の言葉は、リリスが内心抱いていた王都での生活への憧れを、これ以上ないほどに刺激した。リリスは、その誘いに飛びつくように応じた。彼女の瞳は、未来への期待に輝いていた。しかし、その輝きは、長くは続かなかった。


「ただし、条件がある」


ゼルファスの声は、甘さを孕みながらも、どこか冷酷な響きを持っていた。リリスの胸に、一瞬、不穏な影がよぎる。


「君が『聖なる巡礼』で授かるはずだった『精霊の聖杯』を、私に渡してほしい」


ゼルファスの言葉に、リリスは息を呑んだ。精霊の聖杯。それは、巡礼者が精霊の加護の証として授けられる秘宝であり、その持ち主に強大な魔力を与えると言い伝えられていた。ゼルファスが聖杯の力を欲していることは、リリスにも理解できた。しかし、まさか、それを自分から奪おうとするとは。


リリスは一瞬、ためらいを見せた。聖杯は、村の、そして月の精霊の、大切な証だ。それを私利私欲のために使うなど、考えられないことだった。だが、目の前のゼルファスの視線は、彼女の心の奥底を見透かすかのように、冷たく鋭かった。王都での華やかな生活。地位と名声。それらを全て手に入れるためには、聖杯を諦めるしかない。


リリスは、葛藤した。しかし、王都での生活と、ゼルファスの隣で享受する輝かしい未来への誘惑は、彼女の理性を凌駕した。アルバスとの静かな生活と、ゼルファスの提示する華やかな世界。天秤は、あっけなく後者に傾いた。リリスは、深く息を吐き、そして、ゆっくりと頷いた。


「…分かったわ。聖杯は、あなたに差し上げます」


その言葉を発した瞬間、リリスの心に、薄い氷の膜が張られたような感覚が走った。これで、後戻りはできない。彼女は、自らの選択の重さを、この時、漠然と感じ取った。


こうして、リリスは月影の村に戻ることなく、ゼルファスと共に王都へと向かった。彼女の背後には、故郷と、そこで待ち続けるアルバスの姿が、もはや見えなかった。


一方、月影の村では、アルバスがリリスの帰りを待ち続けていた。彼の日々は、リリスが残した「必ず戻るから」という言葉だけが支えだった。毎朝、村の入り口に続く道を眺め、夕暮れ時には、彼女の足音が聞こえないかと耳を澄ました。しかし、日は流れ、月は巡り、季節はまた一つ変わろうとしていた。


そんなある日、王都の巡礼者から、月影の村に恐ろしい知らせが届いた。


「リリス・星砂は、村に戻らないと申しております。王都で、騎士団のゼルファス様と共に暮らすとのこと…」


知らせをもたらした村人は、口ごもりながらも、衝撃的な事実をアルバスに告げた。アルバスの心臓が、鷲掴みにされたかのように締め付けられた。頭の中が真っ白になり、足元がぐらつく。


「そ、そんな…嘘だ…」


彼は、その言葉を信じることができなかった。リリスが、自分を裏切るなど。ありえない。しかし、村人の次の言葉は、アルバスの心を、奈落の底へと突き落とすには十分だった。


「…それに、もう一つ。巡礼者が授かるはずの『精霊の聖杯』が、王都で消失したという噂が…」


精霊の聖杯の消失。そして、リリスが王都に留まるという事実。それらが、アルバスの中で、一つの恐ろしい結論へと繋がった。リリスは、聖杯と引き換えに、自分を、そして村を捨てたのだ。


アルバスの瞳から、光が失われた。純粋で、人を信じやすい彼の心は、このあまりにも残酷な裏切りに、激しい絶望と怒りを覚えた。彼の脳裏に、リリスとの甘い誓い、共に過ごした日々が走馬灯のように駆け巡る。そして、その全てが、無残にも砕け散った。


「リリス…なぜだ…」


彼の唇から漏れた声は、か細く、そして絶望に満ちていた。彼の心は、これまでに感じたことのない、底知れない憎悪に染まっていく。まるで、澄み切った泉に、墨汁が一滴落とされたかのように、ゆっくりと、しかし確実に、その純粋さは汚されていった。


村人たちは、言葉を失い、ただアルバスの背中を見つめることしかできなかった。彼らの目に映るアルバスは、もう、かつての心優しい青年ではなかった。彼の瞳の奥には、憎しみという名の炎が、静かに、しかし激しく燃え盛っていた。


月の光が、アルバスの凍りついた顔を青白く照らしていた。彼の心に深く刻まれた裏切りの記憶は、やがて、彼を新たな道へと導く、暗くも強大な原動力となるだろう。

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