第2話 夜闇の女神
コンテナのハッチが開くとともに、女神の姿があらわになる。
その体は異様に膨れ上がっており、呼吸をする度に、無数のイボから膿液を吹き出していた。しかし彼女は眠っているのか、いまだに俺に気づく様子はなかった。
「これが『夜闇の女神』パラモリアか……相変わらず、お前たちは残酷な運命を背負わされているんだな」
「あら、やっと私の苦労がわかったのかしら?」
「とっくの昔からわかっているさ。それよりも真面目な話だ。彼女とは、どうやって会話をするんだ?」
ニリアに夜闇の女神との会話方法を尋ねる。
すると、彼女から意外性のない率直すぎる答えが返ってきた。
「私があなたたちの間に、精神回路を繋げるわ。手で彼女の肌に触れてみて」
「わかった」
俺は視線を今一度、パラモリアの赤黒い肉体に向けた。
彼女の体は泡立つ液体で覆われており、その肉々しい見た目とは裏腹に、腐った桃のようなほのかに甘い香りを漂わせていた。
普通の人間なら、生理的に受け入れられず、強い抵抗感を示すだろう。ましてや、勇気を出して彼女に触れたとしても、強酸によって手を焼かれるのは目に見えている。
しかし、俺は彼らとは違う。女神ニンフェリエルを体に宿しているため、通常の人間と比べて強靭な肉体を持っており、呪いの効力にも耐えられる。
ただ、それだけが、俺が夜闇の女神に触れようとする理由ではない。
俺と同じく異常と見なされ、断罪されてきた彼女の歴史――かつて信仰していた者たちに裏切られた過去を知る身として、彼女のことを放っておけない。
何より、俺の目には彼女が醜い化け物ではなく、人々を信じることに絶望し、暗闇の中で深く悲しむ、綺麗ながらも哀愁を帯びた孤独な女神として映っていた。
「いくぞ」
俺はニリアに合図を送ると、パラモリアに触れた。
すると、精神のリンクが接続すると同時に、雑音が混じった歪な金切り声が耳に鳴り響いた。
”アアぁあ嗚呼あぁぁああッッッッ!!”
「――ッ!?」
俺は思わず、驚いた拍子にパラモリアから手を放し、耳を抑えてしまった。
どうやら、彼女との会話は困難なものになるようだ。
「大丈夫!? 景明!!」
「ああ、耳が痛むが……大丈夫だ」
俺は体勢を立て直し、膿液を浴びて爛れた左手を、もう一度彼女に当てた。
「もう一度頼む」
「……わかったわ」
心配するニリアを目尻に、再度パラモリアと心を通わせる。今度は手を離さないよう、両脚に力を込めた。
すると、夜闇の女神の冷たく悲しい声が、頭の中に流れ込んできた――。
「あなたは……誰ですの……?」
「俺は櫛名田景明。お前と同じ、世界から拒絶され――呪われた神格を宿す者だ」
「同じ……確かにあなたからは、わたくしと似た存在を感じ取れますが……あなたはわたくしに……何を求めるのですか……?」
パラモリアは俺の真意について聞いてくる。
彼女の信頼を得るためにも、答えを間違えてはならない。
「俺はお前を、家族として迎い入れるために、ここに来た」
「家族……また随分と大きな言葉を使うのですね? あなたもあの者たちと同じで、わたくしのことを騙し、力だけを欲した後に裏切り、また忘却の彼方へと幽閉する魂胆なのでしょう?」
パラモリアから伝わってくる声が次第に怒りを含み、トラックを中心に周囲の地面が揺れ動いた。
「お前の過去を調べさせてもらった。まだ熾天使だった時、神の支配から人々を守るために、他の熾天使たちとともに、神に反旗を翻して堕天したそうだな」
「……何が言いたいのです?」
「お前は人間を愛していた。本当に憎いと思うなら、人間を滅ぼすことだって、いつでもできたはずだ。にも関わらず、お前は身を隠し、その姿が変わり果ててもなお、人々を陰から見守った」
「……違います」
「違わなくないさ。お前は人間が自らの進化――異常性を正常性と認めるその時を、ずっと待っていたんだろ」
「違いますッ!! その口を今すぐ閉じなさいッ!!」
また大きな怒声が頭の中で響き渡った。
けれど、俺の推測は当たったようで、彼女は感情をむき出しにして、体から複数の太い触手を伸ばし、地面に叩きつけた。
「いきなり現れて、さもわたくしのすべてを知っているかのように語って……一体、何様のつもりですかッ!! あなたに、わたくしの何がわかるというのですかッ!?」
「わからない。だが今、世界は再び神とその傀儡によって、陰から蝕まれようとしている。それを止めるためにも、俺はお前の信頼が必要だ」
俺は力でなく、彼女の信頼を求めた。
今となっては、俺や彼女のような少数の人物たちしか、世界に隠された真実を知らない。
その真実とは、人類の本当の歴史だ――。
人間の祖先である旧人類は、かつて異次元の世界に住んでいたが、その世界の神が率いる軍勢との間で大規模な戦争が勃発。戦いに敗北した彼らは、次元の穴を通ってこの地球へと逃れた。
神は配下の天使たちに命じて、旧人類を追撃させた。だが、その時、傲慢な神の所業に異議を唱えた一部の天使たちが、人類に救いの手を差し伸べた。
彼らはその後、お互いに共闘を誓い、侵略者である神の勢力を退け、次元の狭間へと押し返した。けれど、人々はいつしか女神たちから受けた恩を忘れ去ってしまった。
そして皮肉にも、そう仕組んだのは、彼女が信じていた人間たち――いや、今も世界のどこかに潜んでいる神によって暗示をかけられた者たちだ。
「信頼……あなたはまたそうやって、わたくしが恐れる言葉を使って……あなたは何を持ってそれを証明するのですか……?」
女神の心に傾きが見えた。
いよいよ正念場である。
「お前と契約を交わしたい。別に俺のことを信じろとは言わない。もし俺がお前を裏切るような真似をしたと思った時は、遠慮なく俺を殺してもかまわない。ただ、俺の行動を見て、少しでも良いからまた人間のことを信じてほしい」
俺が想いを伝えると、パラモリアは黙り込んだ。
やがて、彼女は長い静寂を経た後、その重く閉ざされた口を再び開いた。
「……いいでしょう。あなたの覚悟に免じて、もう一度だけ人間を信じてみます。ですが、わたくしを後悔させないでください……」
「約束する。信じてくれてありがとう、パラモリア」
わずかながらも、俺はパラモリアから信頼を得ることができた。
その信頼に報いるためにも、人々が彼女から受けた恩を、俺は自分なりに返したい。
「彼女とわかり合えてよかったわね。あの子、何でも一人で抱え込んでしまうから……。それよりも、敵の増援が近づいているわ! 急いで!」
耳を澄ませると、ヘリコプターの音が聞こえてきた。
ニリアが知らせてくれなければ気づかないほど、神経をすり減らしていたようだ。
「パラモリア。今からお前を俺の体内に取り込み、新しい右腕として受肉してもらうが……構わないか?」
中身が空洞の義手を右肩から外しながら、彼女に問いかけた。というより、右腕しか彼女が受肉できそうな場所はない。
「……わたくしの気が変わらないうちに早くなさい」
「感謝する」
了承を得た俺は改めて礼を言い、左手をパラモリアの体に押し当てた。
すると、その瞬間、肉塊が左手に吸い込まれるように体内に入ってくる。同時に、欠損した右の付け根から骨と肉が形成され、生々しい音を立てながら再生を始めた。
だが、その生え変わりは、気絶しそうなほどの痛みを伴った。
「ぐぅっ……がぁっ、あぐっ……」
一瞬、脳裏に情景が映り込んだ――神衣を纏ったかつての美しい女神パラモリアが、無邪気な子供たちに手を引かれながら、白い花畑を歩く光景が、彼女の記憶を通して再生された。
思い返せば、ニリアが俺の脊椎に受肉した時もこんな感じだった。
何の代償も払わずに力を得るのは、あまりにも都合が良すぎる。
それに、この新しい右腕はパラモリアとの間を結ぶ絆そのものだ。彼女が味わった苦しみを、俺自身の痛みとして受け入れたその瞬間にこそ、俺たちは真の意味で対等なパートナーになれるのだ。
「はぁ……はぁ……何とか耐えた」
俺は息を整え、新たに生み出された右腕を見つめた。
色も元の肌色で、目立った変化も見当たらない。指を動かし、手を閉じ開きさせると、肌同士が触れ合う際の触感もちゃんと感じ取れた。
まるで最初から、本当の右腕だったかのように、何の違和感もない。
やはり、肉体的な右腕があると落ち着く――。
「これで目的は達成したわね、景明。お疲れ様」
「ありがとうニリア。お前のお陰だ」
「ふふ、どういたしまして」
ニリアにも感謝をすると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。姿が見えなくとも、背骨の奥からそっと彼女の温かさが伝わってきた。
「久しぶりね、パラモリア。数千年ぶりかしら」
「……懐かしさの正体はあなたでしたのね、ニンフェリエル。ええ、久しぶりですわね」
二柱の女神が俺の体内で再会を果たし、脳内で話し合っている。
俺は彼女たちが旧知の間柄であると、すでにニリアから聞かされている。二人とも、長い間、消息を絶っていたんだ。積もる話もきっとたくさんあるに違いない。
三人四脚の運命共同体――そういう関係になった以上、これからはみんなで協力し合い、お互いの弱点を補う。
そして俺たちは、自分たちと似た境遇の者たちを機構の制御から解放し、その裏に潜む神を狩る。
一人はみんなのために、みんなは一人のために。
それこそが、俺たちをより団結した存在へと進化させるのだ――。
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