星屑の誓い、君と辿る未来
すぎやま よういち
第1話 最悪の出会いから芽生える恋心
朝のラッシュアワーの只中。福岡県の久留米市に住む桜井陽菜は、通学のため、いつものように西鉄大牟田線の特急電車に乗り込んだ。車内はすでに通勤・通学客でごった返し、すし詰め状態だ。ドアが閉まる直前、ホームの駅員が「奥へ詰めてくださーい!」と叫びながら、文字通り乗客をぐいぐいと押し込んでくる。陽菜の背中にも、前方からの圧力と後方からの駅員の力が同時に加わり、まるでサンドイッチの具になったような感覚に襲われる。
「うわっ!」 思わず声が漏れたが、かき消されて誰にも届かない。一瞬、息が止まるほどの圧迫感に、陽菜は必死で吊り革を握りしめた。手のひらには、他の誰かの汗なのか、じっとりとした湿り気が伝わってくる。隣に立つ会社員らしき男性は、読みかけの文庫本を胸元に抱え、顔をしかめている。その隣の女子高生は、イヤホンから音漏れする音楽に合わせて、小さく首を揺らしていた。陽菜のすぐ耳元からは、スーツ姿の男性二人の会話が聞こえてくる。
「いやー、マジで潰れるかと思ったわ。最近のラッシュ、尋常じゃないっすよね」
「まったくだ。これで遅延でもしようもんなら、目も当てられん。課長に怒鳴られるのがオチだ」
「そうっすねー、今日は定時で上がりたいっすよ、せめて」
そんな会話も、陽菜にとっては遠い世界の出来事のように感じられた。彼女の意識は、ただひたすらこの苦しい状況に耐えることに集中している。窓の外を流れる景色は、すでに視界の隅に追いやられ、ただガラスに映る自分の疲れた顔がぼんやりと見えているだけだ。
電車の揺れに合わせて、車内の人々が一斉に右へ左へと傾ぐ。そのたびに、誰かの肘が脇腹に、誰かの膝が太ももにぶつかる。謝罪の言葉は聞こえず、ただ無言の圧力とため息がそこにあるだけだ。陽菜は、なんとかバランスを取ろうと足を踏ん張るが、一歩も動くことができない。まるで巨大な生き物の胃袋の中に閉じ込められたような閉塞感が、全身を包み込む。
ふと、顔を上げた陽菜の視界に、一人の男子生徒の姿が飛び込んできた。陽菜の正面、ほんの数十センチの距離にいる彼は、陽菜と同じくらいの年齢だろうか。制服から察するに、おそらく別の高校の生徒だ。彼は、この満員電車の中で、なぜかスマホ画面に熱中している。周囲の状況など全く気にしていないかのように、眉間にしわを寄せ、真剣な表情で画面を見つめているのだ。
「この状況でスマホに夢中とか、信じられない…」
陽菜は心の中で毒づいた。彼の周りでは、人々が身を寄せ合い、押し合いへし合いしているというのに、彼はまるで自分だけの空間にいるかのようだ。陽菜の苛立ちは募る。彼のような「周りが見えていない自己中な奴」のせいで、さらに車内が混沌とするのではないかとさえ思った。
電車の振動が続き、再び大きく揺れたその時だった。陽菜の背後から、これまで以上の強い圧力がかかり、彼女の体は前のめりになった。その拍子に、抱えていた大切なスケッチブックが手から滑り落ち、床に散らばってしまう。中には、時間をかけて描き上げた美術の課題のデッサンが何枚も入っている。
「あっ…!」
床に散らばった作品を見て、陽菜は絶望的な気持ちになった。この状況で、どうやって拾えばいいのか。人々は相変わらず身動きが取れないほど密集している。そして、その視線の先には、まだスマホ画面を見つめている彼がいる。彼は陽菜の窮状に、全く気づいていないように見えた。陽菜の心に、言いようのない憤りがこみ上げてきた。
数日後の月曜日。陽菜は、週末も引きずっていた満員電車の鬱憤を抱えたまま、気だるい足取りで教室のドアをくぐった。友人の美咲が、黒板に書かれた日直の名前を見て声を上げる。
「ねえ陽菜、今週の日直、高橋と…あれ?なんかもう一人増えてない?」
陽菜が視線を向けると、確かに高橋の下に、見慣れない文字で「藤原」と書かれている。
「藤原って誰?転校生でも来るのかな?」 別のクラスメイトが興味津々に尋ねる。教室は朝のホームルーム前特有のざわつきに包まれていて、転校生の話題でいっそう活気づいていた。
「マジで?どんな子だろうね!イケメンかな?」「それとも可愛い子?うちのクラス、女子ばっかだから男子希望!」「でも転校生ってさ、なんかミステリアスで良くない?」
陽菜は、そんな浮かれた会話をぼんやりと聞き流していた。転校生が来ようが来るまいが、朝の満員電車で散々な目に遭った自分には関係ない、と。今日こそは、あのスケッチブックのシミをどうにかして消さなければ、と別の心配で頭がいっぱいだった。
やがて、担任の神崎先生が教卓の前に立った。いつもは穏やかな物腰の神崎先生だが、今日はなぜか少し得意げな顔をしている。
「えー、皆、静かに。今日は皆に紹介したい生徒がいる」
教室のざわめきが、期待と興奮のこもった「おおっ!」という声に変わる。そして、神崎先生が教室のドアに視線を向けると、ゆっくりとドアが開き、一人の男子生徒が姿を現した。
その瞬間、陽菜の心臓がドクン、と大きく跳ね上がった。
そこに立っていたのは、数日前、満員電車の中で陽菜に最悪の印象を植え付けた、あの藤原悠斗だった。
悠斗も、教室内で陽菜の姿を見つけたらしく、一瞬、その表情に驚きと気まずさが混じったような色が浮かんだ。二人の視線が、ほんのわずかな時間、しかし確かに交錯する。教室の喧騒が、陽菜の耳には遠いものに感じられた。まるで、自分と悠斗だけが、別の空間に放り込まれたかのような感覚だった。
「はい、藤原。自己紹介をお願いする」神崎先生の声で、悠斗は少し硬い表情のまま、教卓の横に立った。
「藤原悠斗です。先週、久留米市に引っ越してきました。高校は、以前は…」
悠斗の声が、陽菜の耳にはやけに明瞭に聞こえる。彼の自己紹介の内容は、陽菜の頭にはほとんど入ってこなかった。ただ、「藤原」という名字が、あの時の彼であることを決定づけた事実として、陽菜の脳裏に焼き付いた。
「…と、いうことで、皆、藤原のことをよろしく頼むぞ」神崎先生が締めくくった後、教室からはまばらな拍手が起こった。
「さて、藤原の席だが…」神崎先生はにこやかに教室を見回し、そして、陽菜の隣の空席を指差した。「よし、藤原は桜井の隣の席だ。桜井、何かと助けてやってくれ」
その言葉に、陽菜は「えっ!?」と声にならない叫びを上げた。しかし、神崎先生は陽菜の困惑には気づかず、悠斗に席を促している。悠斗もまた、陽菜の隣が自分の席だと知ってか知らずか、陽菜の方を一瞥し、微妙な表情のままその席へと向かってくる。
陽菜は、凍り付いたように席に座り続けるしかなかった。まさか、あの「自己中な奴」が転校生として現れ、しかも自分の隣の席になるなんて。これは一体、何の因果だろうか。
悠斗は無言で陽菜の隣に座った。二人の間には、机一つ分の物理的な距離以上に、満員電車の出来事と、お互いへの最悪の第一印象が作り出した、分厚い壁が横たわっていた。
二人の気まずい関係は、しかし、すぐに日常の中に溶け込んでいくことになる。
このように、神崎先生の無意識の采配と、高校生活における様々な日常の出来事が、最悪の出会いをした二人の距離を、ごく僅かずつではあるが、確実に縮めていくことになるのだった。彼らの間にある壁は、まだ厚い。しかし、ひび割れの兆しは、もうそこにあった。
悠斗が転校してきて数週間が経った頃、クラスは新たな問題に直面していた。来月に控えた文化祭の準備だ。そんな折、クラスの学級委員の一人である高橋が、急な家庭の事情でしばらく学校を休むことになってしまった。クラス委員の仕事は多岐にわたり、文化祭の準備期間ということもあって、一人欠けるのは大きな痛手だった。
「どうするよ、高橋いないとかマジきついんだけど」 「代理立てるしかないでしょ。でも誰がやるの?」 休み時間の教室で、クラスメイトたちがざわつく。
そこで、担任の神崎先生が、突然の提案をした。 「急なことだが、高橋の代わりに、しばらく藤原に学級委員の補欠として手伝ってもらいたい」
教室に、一瞬の静寂が訪れる。そして、すぐに「えーっ!?」という驚きの声が上がった。 「藤原?あの藤原が学級委員?」 「マジかよ、先生の趣味?」 悠斗は、一見すると学級委員とは程遠い、自由奔放なタイプに見える。陽菜もまた、内心で「あの悠斗が、クラスをまとめるなんて…」と呆れたような、しかし少しだけ好奇心も混じった目で彼を見ていた。悠斗自身も、突然の指名に戸惑った表情を見せていたが、やがて小さく頷いた。
その日の放課後、早速、文化祭の準備に関する学級委員の会議が開かれることになった。教室には、各係の代表や有志の生徒たちが集まっていた。陽菜も文化祭実行委員として参加している。
会議が始まると、悠斗は普段のぶっきらぼうな口調とは打って変わって、意外にも淡々と進行役を務め始めた。 「えー、じゃあ、文化祭の準備について。まず、企画の内容から決めたいんだけど、何か意見ある奴いる?」
彼の言葉に、最初は皆が様子を伺うように黙っていた。学級委員を務める他の女子生徒が「じゃあ、私から…」と口を開きかけた時、サッカー部らしき男子生徒が口を挟んだ。 「俺、お化け屋敷とかやりたいっすね!定番だけど、やっぱ盛り上がるし」 すると別の生徒が「でも、準備大変じゃない?予算もかかるし」と水を差す。意見がまとまらず、議論は停滞し始めた。
普段の悠斗なら、この場で面倒くさそうにしているか、あるいは全く興味を示さないだろうと陽菜は思っていた。しかし、悠斗は冷静だった。 「ちょっと待て。まずは、出し物の候補をいくつか出して、それぞれのメリットとデメリットを洗い出そう。予算とか準備の手間は後で考える」 彼の落ち着いた声が、場の空気を落ち着かせる。そして、黒板に「企画案」と書き出し、ホワイトボードマーカーを手に取った。
「じゃあ、お化け屋敷。メリットは?」「集客力」クラスメイトの一人が答える。「デメリットは?」「準備期間と、あと予算」別の生徒が続ける。 悠斗はそれを手際よく書き込んでいく。その流れるような手つきは、陽菜の知る「テキトーな悠斗」とはかけ離れていた。
「他に意見は?」「喫茶店はどうですか?」「じゃあ、喫茶店のメリット、デメリット」「演劇もいいかな」「演劇のメリット、デメリット」 悠斗は、一つ一つの意見を丁寧に聞き、メリットとデメリットを簡潔にまとめていく。意見が対立した際には、どちらか一方を否定することなく、「なるほど、そういう考え方もあるな」と受け止め、両方の意見を踏まえて「じゃあ、この点については後でさらに話し合うとして、次に行こう」と、巧みに議論を前に進めていくのだ。
陽菜は、彼のその姿に驚きを隠せないでいた。満員電車で出会った「周りが見えていない自己中な奴」という印象は、この会議の場で完全に覆されつつあった。彼は、クラスメイト一人ひとりの意見に耳を傾け、それを冷静に分析し、全体をまとめようと努力している。その真剣な眼差しは、あの満員電車でスマホを見ていた時の真剣さとは全く別のものだった。もしかしたら、あの時も何か真剣な理由があったのかもしれない、と陽菜はぼんやりと思う。
会議の終盤、悠斗はきっぱりと締めくくった。 「今日はこれで終わり。次回までに、各自、自分の係でできそうなこととか、予算案とか、具体的なアイデアをもう一回考えてきてほしい。質問ある奴は残ってくれ」 彼は、ホワイトボードに書かれた議事録を眺めながら、腕組みをして考え込んでいる。その横顔には、責任感のようなものが確かに見て取れた。
会議が終わると、クラスメイトの間からは、悠斗への評価の声が聞こえてきた。
「藤原ってさ、意外としっかりしてるんだな」
「うん、なんか仕切るの上手かったよね。あんま喋らないくせに」
「見た目によらずってやつ?ちょっと見直しちゃったかも」
陽菜は、そんな声を聞きながら、彼への印象が少しずつ、しかし確実に変化していることを自覚していた。彼は、自分が思っていたよりもずっと、深く、そして多面的な人間なのかもしれない。満員電車での最悪の出会いから、彼のことを「こんな奴」と決めつけていた自分への、軽い自己嫌悪のような感情さえ芽生え始めていた。
神崎先生の「計らい」――それは、陽菜にとってはほとんど罰ゲームに近いものだった。転校早々、学級委員の補欠に指名された悠斗が、さらに日直まで陽菜とペアになるとは。週明けの朝礼でその発表があった瞬間、クラス中にざわめきと、どこか面白がるような視線が二人に集まったのを陽菜は感じていた。
「え、マジで?あの二人、日直ペアとか。絶対気まずいって」
「ねー、前に満員電車で最悪の出会いだったとか言ってたもんね、陽菜」
陽菜の親友、美咲が心配そうに耳打ちしてきたが、陽菜は生返事を返すのがやっとだった。悠斗はといえば、発表の間も神崎先生の方を向いたままで、陽菜とは一度も目を合わせようとしなかった。その彼の態度に、陽菜の胸にはまた、得体の知れない不満が募った。まるで、自分だけが一方的に気まずさを感じているようで、それがさらに不愉快だった。
最初のうちは、日直の業務は事務的に進められた。 朝のホームルーム前、日直台に並んで立つ二人。陽菜が「今日の朝の連絡事項です」と口を開き、プリントに目を落とす。隣の悠斗は、その隣でぼんやりと立ち尽くしている。彼が何か言うべき状況になっても、陽菜が「藤原くん、出席番号の確認、お願い」と促さない限り、動こうとしない。
「…ああ」
悠斗は短く返事をして、生徒名簿に目を落とす。その声は、朝特有の眠気を含んでいるようで、どこか投げやりにも聞こえた。
給食の時間も地獄だった。日直は給食当番の指示出しをしなければならない。
「今日の給食当番、二班の人、お願いします」陽菜が声を張り上げる。 すると悠斗が、ぼそりと「…おい、そこの眼鏡」と、給食当番の一人を指差した。
「藤原くん、もう少しちゃんとした言い方で…」陽菜が思わず注意すると、悠斗は眉間にしわを寄せ、「あ?分かればいいだろ」と不機嫌そうに返した。
そのやりとりに、周囲の生徒たちは面白がってクスクスと笑い声を漏らす。
「やっぱ仲悪いじゃん、あの二人」
「見てるこっちがヒヤヒヤするわ」
そんなひそひそ声が陽菜の耳にも届き、彼女は顔を赤くして俯いた。早くこの一週間が終わってほしい、と心から願った。
放課後の教室の施錠確認もまた、試練だった。他の生徒が帰り、二人きりになった教室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。その沈黙が、かえって二人の間の気まずさを際立たせる。 陽菜が窓を閉め、電気を消して回る。悠斗は、陽菜から少し離れたところで、腕組みをして壁にもたれかかっているだけだった。
「藤原くん、鍵、私がかけますから、先にどうぞ」陽菜が遠慮がちに声をかける。
「別にいい。待つ」悠斗はぶっきらぼうに答える。
陽菜は、彼のその態度に苛立ちと諦めを感じていた。本当に何も話す気がないんだな、と。
しかし、その沈黙の中でも、二人の間にはごく微細な変化が起こり始めていた。
ある日の夕方、窓を閉めようとした陽菜が、窓枠に引っかかった古い画鋲に気づかず指をかすめてしまった。
「いっ…」
思わず小さな声が漏れた瞬間、背後にいたはずの悠斗が、すっと陽菜の隣に立っていた。 「…大丈夫か?」
その声は、これまで聞いたどの声よりも、わずかに心配の色を含んでいた。陽菜が驚いて顔を上げると、悠斗は陽菜の指を一瞥し、すぐに視線を逸らした。
「ああ、うん…大丈夫」
陽菜は、心臓が小さく跳ねるのを感じた。ほんの一瞬の出来事だったが、彼の意外な反応に、陽菜の心はざわついた。彼は、本当に「周りが見えていない」だけの自己中な奴なのだろうか?
日直の任務は、二人の間に、嫌悪感と戸惑い、そしてほんのわずかな「あれ?」という疑問符を残していった。業務連絡だけのぎこちない会話、そして時折垣間見える相手の意外な一面。それはまだ、陽菜が「こんな奴」という印象を払拭するほどのものではなかったが、確実に二人の関係に、微細な亀裂を生み出し始めていたのだ。
桜井陽菜と藤原悠斗が日直の週を終えても、二人の間に漂うぎこちなさは、クラスの誰もが感じ取っていた。しかし、神崎先生の「計らい」は、それに続く現代文の授業でも発揮されることになる。
「はい、じゃあ今日のテーマは『物語における主人公の成長とは何か』だ」 神崎先生が、いつも通り朗らかな声で告げた。 「ここからの時間は、隣の人とペアになって、このテーマについて話し合い、意見をまとめてもらう。その後、グループで発表してもらうから、しっかり議論するように」
クラス中に、ざわめきと、お気に入りの相手とのペアワークに歓喜する声が上がる。 「よっしゃー、美咲、よろしくね!」 陽菜の親友である美咲が、ニコニコしながら陽菜に声をかけてきた。だが、陽菜の視線は、隣の席で既に腕組みをしている悠斗に釘付けだった。美咲もすぐにそれに気づき、「あ…」と小さく声を漏らした。隣の席――それは、嫌でも悠斗と組まされることを意味していた。
「おい、藤原、今日のテーマ、どう思う?」 陽菜から少し離れた席では、男子生徒が悠斗のサッカー部の友人に話しかけている。 「主人公の成長ねぇ…なんかめんどくせぇな」 「藤原なら適当にそれっぽくまとめてくれそうじゃん?」 そんな会話が、陽菜の耳にも届く。彼女の脳裏には、満員電車でスマホに夢中だった悠斗の顔がちらついた。「やっぱり、この人も適当なんだ…」陽菜は、ため息を押し殺した。
「さあ、ペアで話し合いを始めて!」神崎先生の声が響き渡る。
陽菜は意を決して、悠斗の方を向いた。 「えっと、藤原くん。テーマは『主人公の成長』ですけど…何か、意見ありますか?」 悠斗は腕組みを解き、だるそうに天井を見上げた。 「成長っつってもな。なんか、急に強くなるやつとか、悩みが解決するやつとか、色々あるだろ」 「それはそうですけど、その…もう少し、具体的に…例えば、どんな物語の主人公が、どう成長したと思いますか?」陽菜は、具体的な例を挙げて議論を深めようとする。 悠斗は少し考えてから、「うーん、じゃあ、少年漫画の主人公とか?」と曖躇なく答えた。 陽菜は、少し呆れた。「少年漫画ですか…。もう少し文学的な作品で、深く考察した方が…」 悠斗は眉をひそめた。「いや、成長ってそういうことだろ。別に何でもいいんじゃねえの」 「何でもいいって…そういう適当な感じでいいんですか?」陽菜の声に、少し苛立ちが混じった。 「適当じゃねえし。分かりやすい例挙げただけだろ」悠斗の口調も、少しとげとげしくなる。
最初のうちは、こんな調子だった。陽菜は、悠斗の「適当に見える」意見に反発し、悠斗は、陽菜の「真面目すぎる」姿勢に息苦しさを感じていた。議論はなかなか噛み合わず、沈黙が続くことも多かった。
しかし、週が進むにつれて、彼らの間には少しずつ、しかし確かな変化が見られるようになる。 ある日のグループワークでのこと。テーマは「社会における個人の役割」だった。 「僕、あんまり自分の意見を言うのが得意じゃなくて…」 グループの男子生徒の一人が、困ったように俯いた。 その時、悠斗がその生徒に向かって言った。 「別に全部完璧に意見言わなくてもいいだろ。お前が日頃考えてること、ちょっとでいいから教えてくれよ。俺、そういうの聞くの好きだぜ」 その言葉は、ぶっきらぼうな口調ながらも、どこか相手を気遣うような温かさがあった。陽菜は、彼のそんな一面を初めて目の当たりにし、少し驚いた。彼は、一見無関心に見えて、意外と周囲の人間関係に気を配れる人間なのかもしれない、と。
また、別の日のペアワークで、陽菜が引用したいと思った小説の一節をなかなか見つけられずにいると、悠斗がふいに「それって、もしかしてこのページか?」と、的確にその箇所を指差したことがあった。陽菜は目を見開いて彼を見た。 「藤原くん、よく分かりましたね…」 悠斗は少し照れたように「ああ、前になんとなく読んだことあったから」とぶっきらぼうに答えたが、その表情には、陽菜の困っている姿に気づき、さりげなく助けようとした優しさが滲んでいた。
互いの「意外な得意分野」や「思考パターン」が見えてくるようになった。 陽菜は、悠斗が一見適当に見えて、実は物事の本質を掴むのが早く、直感的な洞察力に優れていることに気づき始めた。そして、表現はぶっきらぼうでも、人の心を動かすようなストレートな言葉を選べることがある、と。 悠斗もまた、陽菜の真面目さや探求心が、単なる堅物さではなく、物事を深く突き詰める力や、細やかな気配りの源であることを理解し始めた。彼女の言葉選びの繊細さや、分析力の高さにも気づき、感心するようになる。
「陽菜ってさ、なんか文章書くの得意そうだよな」 ある日、悠斗がポツリと漏らした。 「え?そ、そうですか…?」陽菜は少し戸惑った。 「ああ。なんか、話してるとさ、色々細かいこと考えてんだなって分かる。俺、そういうの苦手だから助かるわ」 悠斗の素直な言葉に、陽菜は思わず顔が赤くなった。
彼らの意見の衝突は、次第に「議論」へと変化していった。お互いの意見を否定するのではなく、それぞれの得意なアプローチで、一つの結論へと導いていく。陽菜の論理的な思考と、悠斗の直感的な発想が組み合わさることで、以前よりも格段に良い発表ができるようになっていた。
「いやー、藤原と桜井のペア、なんか最近すごいよね。最初あんなにギスギスしてたのに」 「本当だよね。なんか、阿吽の呼吸って感じ?」 クラスメイトのそんな声が聞こえるたび、陽菜は胸の奥がキュンとなるのを感じていた。まだ、悠斗への複雑な感情は残っていたけれど、少なくとも「こんな奴」という最悪の印象は、もはや彼女の中にはなかった。むしろ、彼の隣にいることが、少しずつ心地よいと感じ始める自分がいた。
悠斗が久留米市の高校に転校してきてから、彼が運動神経抜群であることはすぐに知れ渡った。特に、サッカー部に入部してからの彼の活躍は目覚ましく、瞬く間にチームのエース候補として頭角を現したのだ。
放課後、グラウンドでは悠斗が躍動していた。彼のポジションはフォワード。そのプレースタイルは、まさに野生の獣のようだった。相手ディフェンダーのマークをものともせず、一瞬の加速で置き去りにする圧倒的なスピード。どんな角度からでも、強烈なシュートをゴールに突き刺す決定力。そして、ボールを持つとまるで体の一部であるかのように操る卓越したドリブル技術。彼がボールを持つたびに、チームメイトや見学している生徒たちから感嘆の声が上がる。
「うわ、今のシュートやばすぎだろ!」 「藤原、あれで転校生とかマジかよ。チートだろ!」 「あいつ入ってから、練習の雰囲気全然違うよな。やっぱエースがいるとさ」 サッカー部員たちの会話も、もっぱら悠斗の話題で持ちきりだった。
陽菜の親友である美咲は、そんなサッカー部のマネージャーを務めている。練習中、選手たちに水筒を配ったり、ボール拾いをしたりしながら、常にグラウンドの様子を注意深く見守っていた。美咲は、悠斗のプレーぶりに目を輝かせ、その活躍ぶりを陽菜に報告するのが日課のようになっていた。
「ねえ陽菜!今日の藤原くん、またすごかったんだよ!あのね、相手DF3人抜き去って、そのままトップスピードでゴール決めたの!マジで鳥肌立ったよ!」 放課後、美咲が興奮冷めやらぬ様子で陽菜に語りかける。 「へぇ…そうなんだ」 陽菜は、素っ気なく答える。悠斗がすごい選手であることは分かっていたが、彼のことを「自己中な奴」と思っていた過去の自分との間で、感情がまだ整理しきれていないのだ。
美咲はそんな陽菜の態度にお構いなしに続ける。 「陽菜もさ、一回グラウンド見に来なよ!絶対びっくりするって!普段あんなぶっきらぼうなのに、サッカーやってる時はすっごい真剣で、なんか…カッコいいんだから!」 美咲の言葉に、陽菜の心は少し揺れる。確かに、学級委員としての悠斗の真面目な一面を見てから、彼への見方は変わり始めていた。サッカーをしている時の彼の姿は、また違った顔なのだろうか。
そんな中、二人の間の距離をさらに縮める存在が現れる。悠斗のクラスメイトである佐藤 健太(さとう けんた)だ。健太は明るく社交的な性格で、すぐにクラスのムードメーカーになった。悠斗が転校してきたばかりの頃から、何かと悠斗の世話を焼いていたらしい。
ある日の昼休み、健太が陽菜のクラスにひょっこり顔を出した。 「あれ?桜井さんじゃん!藤原のクラスメイトの佐藤健太って言いまーす。よろしく!」 健太は、陽菜の隣に座る悠斗をちらりと見て、ニヤリと笑った。陽菜と悠斗が日直のペアだったことも、クラスメイトから聞いて知っているようだった。
「陽菜さーん、藤原がさー、今日朝練でまたすげぇゴール決めたってよ!サッカー部でもなんか、一目置かれてるらしいぜ」 健太は、わざとらしく陽菜に悠斗の話題を振る。悠斗は「おい、健太、余計なこと言うな」と顔をしかめるが、健太は全く気にする様子がない。 「いやいや、いいじゃん!せっかく同じ学校なんだし、お互いのこと知っといた方が良くない?な、藤原!」 健太は悠斗の肩をポンと叩き、陽菜と悠斗の間に自然な会話が生まれるように仕向ける。
また別の機会には、健太が陽菜のクラスの美術部について尋ねてきた。 「桜井さんって美術部なんだっけ?藤原、絵とか描くの全然ダメなんだよなー。美術の課題とか、いつも『何これ?』みたいなの出してて、先生に怒られてるし」 悠斗は「うるせぇよ、健太!」と顔を赤くする。 「陽菜は絵上手いんだろ?今度、藤原に描き方教えてやってくんね?」 健太の軽口に、陽菜は少し困惑したが、悠斗が美術に苦手意識を持っているという意外な一面を知り、少し親近感を覚える。そして、彼の無骨な絵を想像して、思わずフッと笑ってしまった。
健太は、まるで二人の間に張られた見えない壁を壊すかのように、無邪気に間を取り持った。彼の一見お節介な行動は、陽菜と悠斗がそれぞれ相手の新たな一面を知るきっかけとなり、会話が自然に生まれる橋渡し役となった。美咲からの情報と健太の直接的な介入によって、陽菜の中で悠斗のイメージは、単なる「自己中な奴」から、多面的な魅力を持つ一人の人間へと、少しずつ変化していくのだった。
日直や現代文のペアワークで、ぎこちないながらも接点が増えてきた陽菜と悠斗。そして、季節は体育祭へと向かっていた。クラス対抗リレーや大縄跳び、騎馬戦といった種目の選手選考や、応援の準備でクラス中が活気づく中、陽菜は「体育委員」として、悠斗は「学級委員」として、嫌でも顔を合わせ、協力しなければならない状況に置かれた。
「おい、このクラスのリレー選手、どうするんだよ?」 「やっぱ足速い奴から順に決めとけばいいんじゃね?」 放課後、クラス委員が集まる教室で、男子生徒たちが気軽に意見を出し合っている。悠斗は、腕組みをしながら、その様子を黙って見守っていた。陽菜は、リレーの走順をまとめたプリントを手に、発言のタイミングをうかがっている。
その時、クラスの一人の女子生徒が、遠慮がちに口を開いた。 「あの…私、足速いって言われるんですけど、リレーはちょっと…転んだら迷惑かけちゃうから…」 彼女は、以前のリレーでバトンを落としてしまった経験があり、それがトラウマになっていることを陽菜は知っていた。彼女の言葉に、周囲の何人かが「そっかー」「でも人数足りないしなー」と、困ったような顔をする。
すると、これまで黙っていた悠斗が、不意に口を開いた。 「別に、走るのが苦手なら無理にやる必要ねぇだろ。他にもやることあんだから」 彼の言葉に、女子生徒はハッとしたように顔を上げた。陽菜もまた、悠斗の意外な発言に目を見張る。てっきり「足速いならやれよ」とでも言うかと思っていたからだ。
別の男子生徒が口を挟んだ。「でも、リレーはエースがいないと勝てないし…」 悠斗は、その男子生徒の方に視線を向け、はっきりと言い放った。 「勝つためだけに無理させる必要ねぇだろ。全員が気持ちよく参加できるのが一番じゃねぇの?それに、勝つ方法は別に走るだけじゃねぇだろ」 彼の言葉には、妙な説得力があった。普段のぶっきらぼうな口調とは裏腹に、クラス全体のことを考えているような、意外な一面がそこにはあった。議論は、勝敗だけでなく、皆が楽しめる体育祭にするにはどうすればいいか、という方向に切り替わっていった。
陽菜は、悠斗のそんな姿を目撃し、また一つ、彼の印象が塗り替えられていくのを感じた。彼は決して、自分勝手な人間ではない。むしろ、周囲をよく見ていて、困っている人間をさりげなく、そして的確に助けることができる、気遣いの人なのかもしれない。
別の日、昼休みの教室でのことだった。数人の女子生徒が、教室の隅でひそひそと話しているのが聞こえた。 「ねー、〇〇ちゃんさ、最近ちょっと調子乗ってない?」「なんか、ちょっと目立ちたがり屋って感じするよね」「わかるー、この前の発表もさ、全部自分がやったみたいに言ってたし」 クラスのリーダー格の女子生徒に対する、陰口だった。 陽菜は、聞いているだけで居心地が悪くなり、その場を離れようとした。
その時、ちょうど飲み物を買いに外から戻ってきた悠斗が、その女子生徒たちの横を通りかかった。 「おい、お前ら。人の悪口ばっか言ってねぇで、もっとマシなこと話せよ」 悠斗の声は、決して大きくはなかったが、教室に響き渡った。女子生徒たちは一瞬で顔色を変え、口を閉ざした。 「なんかあったんすか、藤原?」 近くにいた男子生徒が、悠斗に尋ねる。 悠斗は、ちらりと陽菜の方を一瞥し、そして口元をわずかに歪めた。 「別に。どうせ大したことじゃねぇだろ」 そう言い放つと、彼は自分の席に戻っていった。
陽菜は、悠斗のその行動に驚き、同時に胸の奥がキュンとするのを感じた。彼は、陰で悪口を言われている生徒を直接的に庇ったわけではない。しかし、その行為を明確に否定し、止めたのだ。それは、悠菜が知っていた「ぶっきらぼうで無関心な悠斗」からは想像もつかない、正義感と優しさが滲み出る行動だった。
「なんか藤原って、ああいうところあるよね」「うん、意外とそういうの許せないタイプっていうか」「普段チャラそうに見えて、根は真面目なんだよな、あいつ」 男子生徒たちのそんな会話が聞こえてくる。陽菜は、彼への印象が、完全にひっくり返されたような気がした。
体育祭の準備、そして何気ない日常の中で、陽菜は悠斗が単なる「自己中な奴」でも、「適当な奴」でもないことを知っていく。彼は、ぶっきらぼうな言動の裏に、確かな優しさや、困っている人を助けようとする強い意志を秘めているのだ。陽菜の心の中で、悠斗という存在は、どんどん大きくなっていき、気づけば、彼の言動一つ一つに、心がざわつくようになっていた。もはや、彼への「嫌い」という感情は、どこにも見当たらなかった。
体育祭の準備や、クラスメイトへのさりげない優しさ、そして陰口を咎める正義感。陽菜の中で、悠斗への「最悪な奴」という印象は、もはや影を潜めていた。むしろ、彼のぶっきらぼうな言動の奥にある、人間らしい魅力に気づき始めていた。そんな中、陽菜は悠斗がサッカーにかける真剣な眼差しを目の当たりにし、彼の印象をさらに改めていくことになる。
ある日の放課後、陽菜は美術部の活動で使う画材を買いに、学校近くの文具店へ向かっていた。校庭の脇を通りかかると、サッカー部の練習風景が目に飛び込んできた。夕暮れ時のグラウンドには、まだ蒸し暑さが残る久留米の空気が漂い、部員たちの掛け声と、ボールを蹴る音が響いている。グラウンドの向こうには、夕焼けに染まり始めた耳納連山(みのうれんざん)の稜線が美しく横たわっていた。
陽菜は、ふと足を止めた。グラウンドの中央で、ひときわ目を引く動きをしている選手がいた。もちろん、悠斗だった。彼は誰よりも激しくボールを追い、声を張り上げて指示を出し、チームメイトを鼓舞している。先ほどまで美術室で静かに絵を描いていた陽菜とは、まるで別世界のような熱気に包まれていた。
特に陽菜の目を引いたのは、悠斗がゴールを決めた瞬間の眼差しだった。相手ディフェンダーを華麗なドリブルでかわし、そのままゴールネットを揺らした後、彼は天を仰ぎ、喜びと達成感に満ちた表情で拳を握りしめた。その瞳は、目標に向かってひたすらに努力を重ねる者の、純粋な情熱と集中力に満ちていた。普段の授業中や日直の時には決して見せることのない、研ぎ澄まされた真剣さがそこにはあった。陽菜は、まるで別人のような彼の姿に、思わず息をのんだ。「あんな顔をするんだ…」陽菜の胸に、これまで感じたことのない、温かい感情が込み上げてきた。彼への印象は、この瞬間、決定的に変わった。
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一方、悠斗もまた、陽菜が美術に打ち込む真剣な姿を目撃し、彼女への印象を改めていく。
悠斗が学級委員として文化祭の準備を進める中で、美術部が制作するクラスの看板や装飾について、陽菜と打ち合わせをする機会があった。ある放課後、悠斗は美術室を訪れた。古びた木造の校舎の二階にある美術室は、絵の具や粘土の独特の匂いが混じり合い、イーゼルや石膏像が所狭しと並べられていた。窓からは、久留米の市街地がオレンジ色の夕日に染まっていくのが見える。
美術室の隅で、陽菜は巨大なキャンバスに向かい合っていた。文化祭で展示する大きな絵を描いているのだという。悠斗が声をかけるまで、彼女は完全に集中していて、彼の存在にすら気づいていなかった。
陽菜の手は、絵の具で汚れていて、顔には何箇所か絵の具の点が付いている。それでも彼女は、眉間にしわを寄せ、真剣な眼差しでキャンバスの細部を描き込んでいた。その瞳には、自分の描きたいものを表現しようとする強い意志と、妥協を許さないプロのような厳しさが宿っていた。悠斗は、普段の控えめな陽菜からは想像できない、その熱量に圧倒された。
「お、おい、桜井」 悠斗が声をかけると、陽菜はハッと我に返り、少し驚いた顔で悠斗を見た。 「あ、藤原くん…何か?」 「いや…すげぇなって思って」悠斗は、素直な感想を口にした。「なんか、普段と全然違うな。絵描いてる時」 陽菜は少し照れたように俯いたが、すぐにまた絵の方に視線を戻した。
「それにさ、お前、友達思いなんだな」 悠斗は、以前、陽菜が美咲の悩みを聞いている場面や、クラスメイトの相談に乗っている姿を何度か目撃していた。いつも、自分のことより他人のことを優先して考えているような、優しさと気配りが陽菜にはあった。彼は、そんな陽菜の姿を見て、彼女が単に「真面目」なだけでなく、深い愛情と包容力を持った人間だと感じていた。
「思っていたより、悪い奴じゃないな、桜井って」 悠斗は心の中でそうつぶやいた。満員電車での最悪の出会いから、彼女のことを「堅物で面白くない奴」だと決めつけていた自分を、少しだけ恥じる気持ちになった。彼のぶっきらぼうな態度の奥に、陽菜の真剣さや優しさに気づき、それを素直に認めようとする変化があった。
陽菜の絵に対する情熱と、悠斗のサッカーにかけるひたむきさ。互いの分野で真剣に取り組む姿を目撃することで、二人の間には、単なる好き嫌いを超えた、尊敬と理解の気持ちが芽生え始めていた。それは、互いの存在が、ただのクラスメイトから、かけがえのない大切な存在へと変わっていく、最初の一歩だった。
悠斗がサッカーにかける情熱、そしてさりげない優しさや正義感を目の当たりにしてから、陽菜の中で彼への印象は完全に塗り替えられていた。もはや「こんな奴」という嫌悪感は微塵もなく、むしろ彼のぶっきらぼうな言動の奥にある魅力に、陽菜の心は静かに、しかし確実に惹かれ始めていた。
それは、まるで日常に彩りが加わるような変化だった。朝、教室で自分の席に着くと、陽菜は無意識のうちに悠斗の席に視線を向けるようになった。彼がまだ来ていないと、ほんの少しだけ寂しさを感じ、教室のドアが開くたびに、期待に胸が膨らんだ。彼が席に着くと、わざとらしくプリントに目を落としながらも、彼の横顔をちらりと盗み見る。授業中、神崎先生が何か質問をすると、悠斗がどのように答えるのか、耳を澄ませてしまう。彼の声が聞こえるたびに、なぜか胸の奥がキュンと締め付けられるような、甘酸っぱい感覚に襲われた。
それは、他のクラスメイトを見る時とは全く違う感情だった。親友の美咲と話している時、隣の席の健太とふざけている時、彼女の心は平穏だった。しかし、悠斗が近くにいると、心臓がいつもより少しだけ速く鼓動するのを感じる。それは、体育祭でリレーの順番が近づいてきた時の緊張感とも違う、もっと柔らかく、そして温かい高鳴りだった。
休み時間、友人たちと廊下で話している時でも、陽菜の意識は常に悠斗のいる方向へと向かっていた。彼がサッカー部の仲間と笑い合っている声が聞こえたり、遠くで彼の姿を見かけたりすると、陽菜はつい目で追ってしまう。そして、ふと彼がこちらに視線を向けた時には、慌てて目を逸らす。自分のそんな行動に、陽菜は戸惑いを隠せないでいた。これが「好き」という感情なのだろうか、と。
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悠斗もまた、陽菜への意識が変わり始めていた。満員電車での最悪な出会い、そして日直や現代文のペアワークでのぎこちないやり取り。最初は「真面目すぎて面倒くさい奴」としか思っていなかった陽菜だが、美術に打ち込む彼女の真剣な眼差しや、友人や困っているクラスメイトにさりげなく寄り添う優しい一面を知ってから、彼女の存在は悠斗の中で急速に大きくなっていた。
彼は、以前のように陽菜を避けることはなく、むしろ、無意識のうちに彼女の存在を探すようになっていた。教室で陽菜の姿を見かけると、なぜか安心する。放課後、グラウンドから美術室のある校舎の二階を見上げ、窓の明かりがついていると、陽菜がまだ絵を描いているのだな、と考えるようになった。サッカーの練習中、辛い時でも、ふと陽菜の真剣な横顔を思い出すと、不思議と力が湧いてくるのを感じていた。
廊下ですれ違う時、以前なら軽く会釈をする程度だったが、今はもう少し長く彼女を見つめてしまう。陽菜が髪をかき上げる仕草や、少し困ったように眉をひそめる表情、小さな声で笑う声、その全てが、悠斗の意識を惹きつける。彼女が他の男子生徒と話しているのを見ると、なぜか胸の奥がチクリと痛む。そんな自分の感情の変化に、悠斗自身も戸惑いを覚えていた。
ある日の昼休み、屋上の扉が開け放たれたままになっているのを陽菜が気づき、閉めに行こうとした時のことだった。日差しが降り注ぐ屋上には誰もいないはずだったが、そこには風に揺れる髪を鬱陶しそうにかきあげている悠斗の姿があった。彼はフェンスにもたれかかり、久留米の市街地を見下ろしていた。青空の下、遠くに見える耳納連山の雄大な景色を背景に、一人で佇む彼の姿は、いつもより少し寂しげに見えた。
陽菜が声をかけようとすると、悠斗がふと、下を向いていた顔を上げた。そして、開いたままの扉の向こうにいる陽菜に気づき、視線が絡み合った。その瞬間、悠斗の心臓が「ドクン」と大きく鳴った。彼の視線は、陽菜の瞳に吸い込まれるように、じっと彼女を見つめていた。陽菜もまた、その視線から逃れることができず、顔が熱くなるのを感じた。
沈黙が二人の間に流れる。それは、日直の時に感じた気まずい沈黙とは全く違うものだった。言葉はないのに、互いの心が通じ合っているかのような、不思議な温かさと、そして甘い高鳴りがそこにはあった。屋上を吹き抜ける風が、二人の間に漂う、まだ名付けられない感情をそっと揺らしているかのようだった。
悠斗と陽菜の間で、これまで見えない壁のように立ちはだかっていたぎこちなさは、いつの間にか薄れ、代わりにどこか温かく、しかし気恥ずかしい空気が漂うようになっていた。それは二人だけの秘密のようでいて、しかし、周囲の友人たちはその微妙な変化を敏感に察知し始めていた。高校生の恋愛に敏感な彼らが、その兆候を見逃すはずがない。
特に、陽菜の親友である美咲と、悠斗のクラスメイトである健太は、二人の関係性の変化を最も近くで見てきた存在だった。
ある日の昼休み、美咲は陽菜の隣で、ニヤニヤしながら陽菜の肘を小突いた。 「ねー、陽菜。最近、藤原くんとよく話してるじゃん?美術室でも、この前二人っきりだったって聞いたけど?」 美咲の探るような視線に、陽菜の顔が途端に熱くなる。 「な、何言ってるの美咲!文化祭の準備で、看板の打ち合わせしてただけだよ!」 「ふーん?でもさ、なんか雰囲気変わったよね、二人。前はもっとギスギスしてたのに、最近はなんか…ねぇ?」 美咲は意味深な笑みを浮かべ、陽菜の反応を楽しんでいるようだった。 「気のせいだよ!別に、そんなんじゃないってば!」 陽菜は必死に否定するが、その声はどこか上ずっていた。
教室の向こう側では、悠斗もまた、健太の格好のからかいの的となっていた。 「おい、藤原〜、最近桜井さんといい感じじゃんかよ〜!」 健太は、ニヤニヤしながら悠斗の肩を小突く。サッカー部の練習中も、健太は悠斗にちょっかいを出していた。 「今日の朝練もさ、藤原、なんかいつもより気合い入ってたじゃん?桜井さんが美術室の窓から見てたから?」 健太の言葉に、悠斗はピクリと反応する。彼自身も無意識のうちに陽菜の視線を探していることに気づき、少し照れくさい気持ちになっていた。 「うるせえよ、健太。関係ねぇだろ」 悠斗はぶっきらぼうに返すものの、その表情には以前のような嫌悪感はなく、むしろ困惑と少しの照れが混じっていた。 「おやおや、図星か?」「顔赤くなってんぞ、藤原!」 サッカー部の仲間たちも加わり、悠斗をからかう声がグラウンドに響き渡った。
授業中も、二人の間に漂う特別な空気は、クラスの生徒たちの間で噂の種となっていた。 現代文の授業で、ペアワークの発表が終わった後、クラスの女子生徒たちが陽菜にひそひそと話しかけてきた。 「ねー、桜井さんと藤原くんって、いつからそんなに仲良くなったの?」「なんかさ、話してる時、二人だけ空気が違うんだよねー」「もしかして、付き合ってるとか?」 矢継ぎ早に飛んでくる質問に、陽菜はただ首を横に振るばかりだった。しかし、その否定は、むしろ彼女の顔の赤さによって説得力を失っていた。
悠斗も、廊下ですれ違う他クラスの生徒から「お前、桜井さんとデキてんの?」と冷やかされることが増えた。彼は「は?デキてねえよ」と一蹴するが、以前ならもっと強く否定するか、無視していたはずだ。そんな自分の変化に、彼自身も気づいていた。
陽菜と悠斗は、互いに意識し始めるようになり、無意識のうちに相手を目で追ったり、隣にいると心臓がドキドキするような、青春らしい甘酸っぱい感情が芽生え始めていた。それは、友人たちのからかいが、確かな証拠となって二人の周りに漂い始めていた。久留米の高校の日常は、少しずつ、しかし確実に、甘く、そしてどこか気恥ずかしい恋の予感に満ちていくのだった。
その日の放課後、陽菜は美術部で文化祭の巨大な絵の制作に没頭し、気づけば空は茜色に染まっていた。美術室の窓から見える久留米の街並みも、少しずつ家々の明かりが灯り始めている。大きな作品を前に、もう少しだけ、もう少しだけと筆を進めているうちに、すっかり最終下校時刻を過ぎてしまった。
「あ、やばい…」 陽菜は慌てて絵筆を置き、画材を片付け始めた。重いスケッチブックと絵の具の入ったバッグを肩にかけ、美術室の鍵を閉めて校舎を出る。普段は賑やかな校内も、この時間になると人気がなく、ひっそりとしている。
校門を出て、最寄りの西鉄久留米駅へと向かう道を急いでいたその時だった。前方から、聞き慣れた声が聞こえてきた。 「おっせーよ、藤原!マネージャーが待ってんぞ!」 「うるせぇ、ちょっと寄り道してただけだろ!」 声の主は、サッカー部のジャージ姿の悠斗と、そのチームメイトたちだった。悠斗もまた、部活帰りなのか、大きなスポーツバッグを肩に提げている。
陽菜は、反射的に体を硬直させた。こんな時間に、しかも二人きりになるかもしれない場所で、悠斗と鉢合わせするとは。最近、彼への感情が複雑に変化しているだけに、どう接すればいいか分からず、一瞬、道の端に身を隠そうかとも思った。
しかし、悠斗が陽菜の存在に先に気づいた。 「…桜井?」 彼の声が、夕暮れの空に響く。サッカー部の仲間たちは、悠斗の視線の先に陽菜がいることに気づき、ニヤニヤとしながら「おー、お邪魔みたいだし、俺ら先行くわ!」と言い残して、足早に去っていった。陽菜と悠斗だけが、夕闇が迫る道に取り残される形になる。
「何やってんだ、こんな時間に」悠斗は、いつも通りのぶっきらぼうな口調で陽菜に問いかけた。 陽菜は、少し頬を染めながら答える。「美術部の作業が長引いちゃって…藤原くんこそ、今帰り?」 「ああ。まあ、ちょっと用事あったからな」
気まずい沈黙が、二人の間に流れる。陽菜は、肩にかかるバッグの重みに、一層その場の空気が重く感じる。 すると、悠斗が陽菜の持っているスケッチブックに目を留めた。 「…それ、重そうだな」 悠菜は「あ、いえ、大丈夫です…」と反射的に答えたが、悠斗は陽菜の返事を待たずに、すっと手を伸ばし、彼女の肩からスケッチブックの入ったバッグをひょいと持ち上げた。 「俺が持つから。どうせ駅まで一緒だろ」 あまりにも自然な行動に、陽菜は驚いて彼を見上げた。彼の広い背中と、重そうなバッグを軽々と持つその腕に、陽菜の心臓は小さく跳ねた。
駅への道のり、二人の間には、以前のような完全な沈黙はなかった。何気ない会話が、途切れ途切れではあるが続く。 「今日の美術、何描いてたんだ?」悠斗が唐突に尋ねる。 「えっと、文化祭で展示する大きな絵で…クラスの皆の意見も取り入れながら描いてるんです」 「ふーん。大変そうだな」 「でも、藤原くんも、学級委員とサッカー部の練習で大変ですよね」 「まあな。でも、サッカーは好きだから」 彼の声が、夕焼けに染まる久留米の街並みに溶けていく。その何気ないやり取りが、陽菜にはかけがえのない時間に感じられた。
駅に近づくにつれて、人通りが多くなってきた。学校帰りの学生や、仕事帰りの会社員たちで、駅前はごった返している。人が増えるたびに、陽菜は人波に押されそうになる。
その時だった。悠斗が、自然に陽菜の半歩ほど前に出て、彼女を人混みから守るように歩き始めたのだ。彼の背中が、陽菜と周囲の人々の間に壁を作るように立ち、陽菜は彼が作ったわずかな空間の中で、人波に巻き込まれることなく歩くことができた。時折、悠斗が振り返り、「大丈夫か?」と短い言葉で陽菜の様子を伺う。その視線は、人混みに怯える陽菜を気遣う、優しいものだった。
陽菜の胸は、激しい音を立てて高鳴っていた。荷物を持ってくれたこと、そして人混みの中でさりげなく自分を庇ってくれたこと。それは、彼の言葉や態度では決して見せない、彼の優しさと、陽菜を守ろうとする無意識の行動だった。それは、彼の言葉以上に、陽菜の心に深く響いた。
西鉄久留米駅の改札前で、悠斗は「じゃあな」とだけ言って、バッグを陽菜に返そうとした。しかし、陽菜は受け取らず、彼の顔をじっと見つめていた。 「藤原くん、ありがとう…」 陽菜の声は、少し震えていた。その視線には、感謝だけでなく、彼への複雑な感情が宿っていた。 悠斗は、陽菜の真剣な瞳に、一瞬、戸惑いの色を浮かべた。そして、バッグを陽菜の手に渡すと、少し照れたように視線を逸らし、すぐに人混みの中に消えていった。
彼の背中が見えなくなるまで、陽菜はその場に立ち尽くしていた。肩に残るバッグの重みと、胸の高鳴りが、今、はっきりと陽菜に告げていた。 この感情は、もう「好き」以外の何物でもない、と。
悠斗のさりげない優しさに触れ、駅での出来事を経て、陽菜は彼への「好き」という感情をはっきりと自覚していた。その恋心は、陽菜の日常に新たな光をもたらし、世界は以前よりも輝いて見えた。悠斗の姿を見るだけで胸が高鳴り、彼と目が合うだけで顔が熱くなる。そんな甘酸っぱい日々の中で、しかし、陽菜は説明のつかない奇妙な感覚に襲われることが増えていった。それは、ごく短いデジャヴュ(既視感)のようなものだった。
最初のうちは、それが何なのか、陽菜自身もよく分からなかった。ただ、悠斗の特定の仕草や言葉の端々に触れると、心臓の奥がキュッと締め付けられるような、漠然とした懐かしさと、同時に拭い去れない切なさが込み上げてくるのだ。
ある日の放課後、陽菜は美術室で、文化祭で展示する絵の構図について悩んでいた。煮詰まった頭を抱え、ふと窓の外を見ると、グラウンドでサッカー部の練習をしている悠斗の姿が見えた。彼は、チームメイトに指示を出すため、大きく腕を振り上げていた。その腕の動き、そして振り向いた時の、少しだけ険しいけれど真剣な表情。その瞬間、陽菜の視界が、一瞬だけホワイトアウトしたような感覚に陥った。同時に、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、まるで遠い過去の記憶が呼び覚まされるような、言いようのない切なさがこみ上げた。それは、彼が誰かを守ろうとして腕を振り上げた、そんな場面をどこかで見たような、しかし具体的な映像は伴わない、曖張で、しかし強烈な感覚だった。
また別の日、陽菜が廊下を歩いていると、前から悠斗が歩いてきた。彼は陽菜に気づくと、いつものようにぶっきらぼうに「おう」とだけ声をかけた。その瞬間、彼の低い声が陽菜の耳に届いた途端、陽菜の脳裏に、まるで深い霧の中から聞こえてくるような、誰かの優しい声が響いた気がした。その声は、なぜか陽菜の心を穏やかにすると同時に、言いようのない寂しさを感じさせた。「…大丈夫か?」そう問う声が、陽菜の胸に直接語りかけるようだった。陽菜は思わず立ち止まり、悠斗の顔をまじまじと見つめたが、悠斗は不思議そうな顔で陽菜の顔を見ていた。
「…どうかしたか?」 彼の言葉に、陽菜はハッと我に返った。「い、いえ!何でもないです!」と慌てて否定し、顔を赤くしてその場を立ち去った。 後になって、陽菜は考える。あの声は、一体誰の声だったのだろう。なぜ、彼の声を聞くと、こんなにも心がざわつくのだろうか。
さらに、図書館で課題のための資料を探していた時のこと。陽菜が手を伸ばした本の隣に、悠斗の手が伸びてきた。彼が手に取ったのは、日本の古い歴史書だった。陽菜は、彼の意外な選書に驚きながらも、彼の指先が本のページをなぞる姿をぼんやりと見ていた。その時、彼の指の動き、そして歴史書というアイテムに、またしても漠然とした「既視感」が陽菜を襲った。それは、まるで彼が、遠い昔、刀を携え、歴史の荒波の中にいたような、そんな壮大な、しかし具体性のない感覚だった。胸の奥が、締め付けられるような切なさに包まれた。
これらのデジャヴュは、まだ明確な映像として陽菜に過去を思い出させるものではなかった。しかし、そのたびに陽菜の心は揺さぶられ、悠斗という存在が、単なるクラスメイトや好きな人という枠を超えた、何か大きな運命によって繋がっている存在であるかのような予感を、陽菜の心の中に静かに芽生えさせていた。この胸を締め付けるような懐かしさと切なさの感覚が、やがて来る、あまりにも過酷な真実への、ささやかな兆候だったのである。
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