第32話 アレクシスのいない日々(前編)

「いってらっしゃいませ、殿下。お身体にはくれぐれも気を付けてくださいね」

「君の方こそ、俺のいない間に建国祭のときのような無茶はしないように。何かあれば、マリアンヌを頼るんだぞ」

「はい、心得ておりますわ。殿下のお帰りを、おとなしくお待ちしております」

「ああ、そうしてくれ。では行ってくる」


 ――翌朝、刺繍入りのシャツを装ったアレクシスを、エリスは笑顔で見送った。

 そしてその日から、アレクシスのいない生活が始まった。

 

 エリスは最初、アレクシス不在の一月の生活について、それほど心配はしていなかった。


 食事や就寝時に一人になる以外は、アレクシスが居ても居なくても変わらない。夜の寂しさにさえ慣れてしまえば、普段通りに過ごせるだろうと悠長に構えていた。


 そもそも、帝国に嫁いできたばかりの頃は一月もの間完全に放置されていたのだ。

 あのときと今では状況が違うとはいえ、アレクシスが自分を思ってくれているとわかっている今は、当時よりも心に余裕がある。

 それに、宮には沢山の使用人がいるわけで、寂しさを感じたとしても、気にするほどではないだろうと。


 だが残念なことに、その余裕は三日も経たずうちに、脆くも崩れ去ってしまった。



(何だか、宮がとても広く感じるわ)


 事実、この宮はとても広い。

 ここに嫁いできて七ヵ月以上が経った今も、知らない場所や、入ったことのない部屋が沢山ある。

 だから広く感じるのは何らおかしくないのだが、アレクシスが夜帰ってこないと思うだけで、更に広くなったように感じた。


 つまり、エリスは想像していたよりもずっと、アレクシスの不在に大きな喪失感を覚えたのである。



(まるで心にぽっかり穴が開いたみたい。殿下がいらっしゃらないことが、こんなに寂しいだなんて)


 エリスはこれまで、大切な人との別れを三度経験してきた。


 一度目は母親の死。二度目は弟シオンの単身留学。そして、三度目は王太子ユリウスからの婚約破棄。

 そのどれもが、心が抉られるほどの痛みと苦しみを伴う別れだった。


 だが今回はそのときとは違う。アレクシスはただの出張、それも、期間はたったの一ヵ月。

 十年もシオンと離れ離れで過ごしてきたエリスにとって、一月など取るに足らない期間なはずだった――そのはずなのに。


 夜不意に目が覚めたとき、隣にアレクシスがいないことに、とても不安になる。


 あれだけ楽しみだった朝夕の食事の時間が、今では、自分は一人なのだと自覚させられる、億劫な時間でしかなくなってしまった。

 いっそ、ここに来たばかりのときのように、使用人と一緒に食事を取れないだろうかと考えてしまうくらいには。



「エリス様、お食事が進んでおりませんが、どこか具合が悪うございますか? ここのところ、夜もよくお眠りになられていない様にお見受けします」

「……!」


 アレクシスが帝都を立って五日目の朝、食事が進まないエリスをみかねて、侍女の一人が心配そうに声をかける。

 エリスは、食事をし始めて三十分が経ったというのに、半分も食べられていなかった。


 声をかけられたエリスはハッとして、サラダにフォークを刺す。


「大丈夫よ、ちょっと考え事をしていただけだから。心配しないで」

「そうですか? よろしければ、今からでもメニューを変えさせますが……」

「いいえ、本当に大丈夫よ。今日もとても美味しいわ」

「…………」


 エリスの明らかな作り笑顔に、侍女たちは顔を見合わせる。


 侍女たちはエリスの食事が進まない理由が、アレクシス不在による寂しさのせいなのだろうとわかっていた。いずれ、アレクシスがいないことにも慣れるだろうとも。

 だが、ここまで落ち込まれてしまうと流石に心配になってくる。


 侍女たちは、余計なお世話だと思いつつも「今日のご予定はキャンセルして、一度お医者さまに診ていただくのはどうでしょうか」と提案する。

 するとエリスは、今度こそ慌てたように、食事を口に詰め込み始めた。


 今日はマリアンヌと帝国図書館に行くことになっている。

 アレクシスのいない今、マリアンヌと会うことだけが唯一の楽しみと言っても過言ではない。

 その予定をキャンセルするなど、考えられないことだった。


「本当に平気よ。返さなければならない本もあるし、何より、マリアンヌ様とお話するととても気分が良くなるの。――だから、ね?」


 エリスが微笑むと、侍女たちは再び顔を見合わせる。

 確かに、マリアンヌと話していた方が気分転換にはなると言われれば、そうに違いない。


「そうですね。出過ぎたことを申しました、お許しください」

「いいえ、わたしの方こそ心配をかけてしまってごめんなさい。いつも気遣ってくれて、本当にありがとう」


 そう言って、ようやく自然な笑みを浮かべたエリスに、侍女たちはほっと安堵の息をはく。

 その後エリスは、少しずつではあったものの、どうにか食事を完食したのだった。


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