第一章 蟲産みの姫
4話 擬蟲
1950年 2月
大
深い眠りから目を覚ました
自分の中に、自己以外の何かが存在しているという確信。
脳のどこか、確固たる自我を格納している巨大な金庫の上に、一回り小さい金庫が増設されたような感覚だ。不快というわけではないが、違和感を覚えざるを得ない存在感がそこにはあった。
それだけではない。
なにか、とても大事なことが欠けているような不快感さえあった。忘れてはならない感情、忘れてはならない記憶が、心からなくなってしまったことに、たったいま気がついたような焦燥が。
「──あ、お目覚めですかね」
いやに重たい瞼を開けようと奮闘していると、聞いたことのない声が耳に入った。若い女の軽薄な声だ。
「ここは第一近衛軍病院です。
やっとの思いで目を開くと、病室と思しき内装の部屋と、白衣を身にまとった二十代前半と思しき女が視界の端に映った。看護婦、という雰囲気ではない。かけている眼鏡越しでもわかるほど目の下にくまができている。
「まず、そちらが名乗れ」
「あ、失礼しました。小官は近衛軍技術士官の小早川です……あ、本名全部言った方がいいですかね。小早川
女──小早川は目を泳がせながら、信じがたいほどの小声と、およそ
聞き手をいらだたせるためにあえてやっているとすれば、この女は相当な食わせ物と言えそうだったが、そうではないことを真言はすでに察していた。
「わかった。征夷大将軍特別警護隊、第二隊長の大杉真言だ。年齢は二十四歳。これでいいか?」
「あ、はい、どうも。あとすいません、今日の日付は分かります?」
「……二月二十六日よりも後だということはわかる」
会話が進むにつれて、ぼんやりと浮かんでいるようだった意識が次第にはっきりとしてきた。二月二十六日。記憶にある限り最後の日付だ。
自分に何があった? 二月二十六日、その日に何が──
「──
「え?」
せき止められていた記憶と感覚が一気に戻ってくる感覚。
時間の感覚がゆるやかになり、時系列に沿わない断片的な情景が連続して脳裏によぎっていく。
叛乱軍の襲撃を受けた生体化学技術研究所。降りしきる雪と血の雨。殺された同僚。敵の強化人間に切り伏せられる自分。そして──
「────っ天姫さま!」
「びっ!」
反射的に病床から起き上がろうとした真言の全身を、張力が引き留めた。そのときはじめて、真言は自分の四肢が拘束されていることに気が付いた。
突然の反応に驚いた小早川はネズミの断末魔のような悲鳴を上げて椅子から転がり落ちていた。
「天姫さまはいずこにおわすか! 答えろ!」
怯えてすくみあがる小早川を意にも介さず、真言は怒号を飛ばした。
あのあと──自分たちが無様を晒して地に伏したあと、守るべき主君はどうなったのか。その考えだけが真言の心を支配していた。
「よしたまえ」
聞いたことのないはずの、しかしどこかで耳にした覚えのある声がした。
女だてらに鋭く、よく響く声だ。
その声の方向に振り向くと、やはり見覚えのない顔がそこにあった。
近衛軍の軍服を身にまとった長身の女だ。階級章からみて、階級は
「主君の安否に逸る気持ちはよくわかるが、まずは落ち着きたまえ。なんにせよ、我々は貴官に聞くべきことと、説明するべきことがある……おい、小早川。いい加減に立て」
「ひあ……」
将監の女が頭ふたつ分も小さい小早川に手を貸して立たせる様子を見て、ようやく真言は平静を取り戻し、己の行動を恥じることができた。
「申し訳ない。婦女子に声を荒げるなど……」
「あ、大丈夫です。これでも軍人ですから……婦女子ってくくりには入らないと思います」
そういう問題ではないのではないか、という思いがよぎったが、どうやら将監の女も同じことを考えていたらしく、すみやかに内心を代弁してくれた。
「そういうことではあるまい。すまない、彼女は優秀なのだが、いささか変人でね」
将監の女は部屋の端にあった椅子を持ってきて病床のそばに座ると、真言の
「私は近衛軍将監、西条
「一昨日まで横須賀でインドから復員してきた強化人間部隊の検査やってたのに、突然帝都まで呼び出されたと思ったらこんなとんでもない患者の担当やれって言われました小早川です」
小早川は発言の後半に向かうにつれて急速に早口になり、最後の方はほとんど聞き取れなかった。西条はというと、すでに彼女はそういうものだと折り合いをつけているらしく、気にする様子もなかった。
「さて、まずは重要なことから片づけていこう。貴官は、すでに自身の身体の変化に気づいているか?」
そう言われてはじめて、真言は自分の身体が、これまでと全く違うものに代わっていることを明確に認識した。拘束具による違和感だけではない、もっと大きな、自明の変化だ。
「……身体が、重い。なんだ、これは」
筋肉が衰えたとか、太っただとか、そういう次元の話ではなかった。かかっている重力からして桁が違う。体重が十倍に増えている、と言われても驚かないほどだ。
「気味が悪い。増えた分の重さは感じるのに、身体を動かすのには何の支障もない……どういうことだ?」
真言が困惑を隠せない表情で西条を見た。
「この際だからはっきり言うが、貴官はすでに『
擬蟲。
その存在を知らない人間は陽本にはいないだろう。義務教育でも軽くは触れられるし、新聞やラジオを読み聞きしていれば嫌でも知ることになる。
歴史上はじめて擬蟲の存在が記録されたのはおよそ二千年前。北米大陸を不毛の砂漠に変えた巨大隕石の落下と、ほぼ同時期である。
古代ローマ人が記述を残している。
『死体から這い出てきた怪物の赤黒い鱗は、斬ることも、砕くことも、潰すこともできず、近づく者すべてを噛殺した。兵士たちは大穴を掘って怪物を落とし、融かした鉄を流し込んで固め、アドリア海へ沈めた』
紀元以後は世界中で擬蟲による寄生が発生するようになり、その宿主はある場所では神として、またある場所では鬼や悪魔の類として畏れられた。
擬蟲は個体の寿命がきわめて長く、寄生した宿主の寿命を大幅に延長するうえに、宿主の生命を維持するためにさまざまな肉体的変化を与える。骨格と筋肉組織の強靭化や、内臓の構造変化、『生体鎧殻』の展開などがそのもっともたる例である。
「現場にいた貴官はよく知っているだろうが、生体化学技術研究所の職員の大半は殺害されてしまった。よって詳細は今も不明なままだが、襲撃の際に脱走した擬蟲が偶然貴官に寄生してしまった、というのが妥当なところだろう。小早川、彼の状態は?」
「あ、えっとですね、この病院に運び込まれた時点で、大杉さんの体内に侵入した擬蟲はすでに骨格との癒着を完了していました。まあつまり、外科的に分離しようとするとあなたも死んでしまう状況だったわけですね」
小早川はどこからか取り出した資料を眺めながら早口で語った。
「大杉さんの体重は現在四百五十キロです。この病床も強化人間用の特別製なんですよ? 血液検査の数値から見ても筋組織の組成置換がはじまったくらいの段階だと考えられます。脊髄反射の伝達速度も測定しましたが、主要な神経系はすでに新しいものに変えられてますね。今なら銃弾くらいは見えるはずですよ」
「つまり、今の俺は強化人間と同じだということか」
真言は無感情に言った。
「あ、いや全然違いますね原理からして大違いです固定翼機と回転翼機くらい違います。詳しく説明しようとするととてつもなく長くなるので尋常ではないくらい端折りますが──」
「自重してくれ、小早川」
これまでで最も早口になった小早川を西条が制止した。小早川は小声で謝罪したようだったが、中身はほとんど聞き取れなかった。
「今は技術的な話をする時間がない。いずれ興味があれば聞いてやってほしい。勧めはしないが」
西条は軽くため息をついて、脇道にそれた話題を本題へ戻した。
「いくつか聞いておかなければならないことがある……二日前、二月二十六日のことだ。あの日、生体化学技術研究所で、一体何が起こった?」
「そもそも、なぜ俺は近衛軍病院に収容されているんだ。あの後何が起こったのか知りたいのはこちらの方だぞ」
「今、貴官には質問する権利がない。私の聞いたことに答えてくれたまえ」
西条は断固たる口調で言った。まさしく取り付く島もない様子だ。
「生化研を襲撃した叛乱軍について、見聞きしたことを話してくれたまえ」
「将軍府に連絡を──」
「通るはずのないことを言うのは時間の無駄だと思わないか? ひとつ言っておくが、貴官の部下たちの遺体を回収したのは私の隊なんだぞ」
それを聞いた真言はかすかに動揺を表出させた。
おそらくあの日、あの場にいた第二警護隊の中で、生き残りは真言だけなのだろう。
陸軍の警備部隊以外の者は、生化研の内部に戦闘装備を持ち込んではならないという規則がある。真言と部下たちはその規則を遵守して、装備を外した状態で『護送対象』を迎えに地下へ下りて行った。
間もなく警報が鳴り、正体不明の襲撃者によって外部との連絡手段が絶たれたことが分かった。警護隊の専用装備を取りに戻ることもできず、唯一持ち込むことを許されていた各々の
結果は、至極当然のものだった。
「……
「大戦力だな。くわえて聞きたい。叛乱軍の目的はいったい何であったのか、見当はつくか?」
「機密だ」
「叛乱軍は大量の機密資料を奪っていったにも関わらず、擬蟲の保管室には手が付けられていなかった。それ以上に重要な目標があったということだ。豊臣家に関わる何かが、な」
「機密だと言っている」
「機密か。そうだろうな。だが、いまや最高の軍事機密が叛乱軍の手に渡っている。強化人間に関する情報のことだ」
西条はそう言うと、やけに迂遠な言い回しで語り始めた。
「私を含む『強化人間』というのは、人為的かつ後天的に擬蟲を人間に寄生させることで、軍事兵器としての運用を目指した技術だ。だが、貴官も知っての通り、擬蟲が自発的に人間に寄生した例はきわめて少ない。歴史上にも両手で数えられる程度だ」
「……ああ、知っている」
真言の言い様にはどこか含みがあったが、西条も小早川も、それに触れることはなかった。
「まあ、あなたはその何例目かになったわけですね。いまも存命の『自然
小早川の言葉を聞いた真言は、つとめて感情の表出を抑え込もうとした。ここで「ああ、そうなるな」などと返すほど不注意ではない。
「……三人目? どういうことだ」
陽本政府が公的に存在を認めている自然宿主はたった一人だ。『二人目』が存在することと、それが誰であるのかを知る者はきわめて限られている。真言はさきほどまでの自分の言動を思い返しながら、矛盾の生じない虚構を組み立て始めていた。
もしもこれが正当な尋問であれば、真言の対応は正しかった。
だが、すでに尋問者が秘密の内容を知っている場合、尋問される側が必死であればあるほど、喜劇のような構図になってしまう。この場合、まさにその通りになっていた。
「貴官に伝えるべき事実がある」
西条はしばしの間をおいてから、言った。
「貴官の護衛対象であった、征夷大将軍豊臣
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