その翡翠き彷徨い【第45話 雨霧に消える】
七海ポルカ
第1話
雨が降り続けていた。
四日ぶりに辿り着いた小さな街が正確にどこなのか、よく分からなかった。
方向としてはマルメ方面へと冬のベルイード渓谷を避けながら北上して来たつもりだが、雨に打たれながら四日間山道、林道を歩き続けて疲労困憊だった。
――立ち止まれなかった。
一度でも立ち止まってしまったら捨てて来たものの大きさに立ち尽くしてしまう、と思ったからだ。
冷たい冬の雨が全身を打ち続けたが歩き続けた。
街の明かりが見えたときはホッとしたけれどこの格好だ。金も持っていない。
寝静まる街でどうしたらいいのかも分からなかった。
だが、とりあえず眠りたかった。
肉体が疲れすぎていて魔術師の技で何とかしようなどという考えすら、もう思い浮かばない状態だったのだ。
重い全身を引きずるように歩いていると、鐘の音が雷鳴に混じって聞こえた。
町外れに立つ尖塔。
教会だ。
メリクは導かれるようにそこへと歩いて行った。
教会の裏手にある物置小屋に転がり込み濡れた全身のまま崩れ落ちた。
雨を凌げるだけでもホッとした。
歩き続けた足はボロボロで、足に出来たマメが潰れて気になり出したのは数日前のことだった気がする。
激しい痛みで大変だったが、もう今は痛みさえ感じない。
冷たいのだ。
靴を浸す水が冬の冷気に凍え、とっくに感覚を奪っている。
小屋の床は石造りで冷えきっていた。
伏せてくっついた頬がひりつくように痛い。
でも一度倒れるともう起き上がる気にはならなかった。
雷鳴がする。
外は相変わらずの激しい雨だ。
冷えきった全身。頭から水を浸したように濡れている。
だがここにはそれを拭うものもない。
色を変えた唇はがくがくと震えている。
頭の奥だけが熱い。
重くてひどく気分が悪い。
それでももう、眠っていたい……。
自分の唇から出る白い息を見つめたままふと、このまま死ぬのかなと思った。
――そうなのか。
このまま眼を閉じたらそのまま目を覚まさないかもしれないんだ。
メリクは焼かれるような熱を帯びる頭の奥でぼんやりと思った。
そしてそう思ったら妙に静かな気持ちになった。
雷雨を凌げる場所に転がり込んで、気が抜けてしまったのかもしれない。
(何か目的地があったわけじゃない)
元々そうだった。
サンゴールから離れ、
サンゴールから遠く、
どこか遠くに行くつもりだった。
そこで自分が何をするのかも分からない旅路だった。
もう誰もいない。
宮廷魔術師でもない。
(僕は【闇の術師】だ)
だからもう、魔術も使わない。
僕の悪しき闇の宿命は魔力と繋がっている。
僕が魔術を使うと悪いことが起こる。
メリクは震える拳を握りしめた。
(だからもう、本当に僕の中には何も無い)
終着点がもしここだというのなら、ここなのだろう。
名も知らぬ小さな街の教会の物置小屋で、だ。
つい二週間ほど前までは世界最高学府の若き術師と呼ばれていた人間が、
こんな狭い、汚い所に転がって死ぬのだ。
人間の運命は本当に底知れない。
そしてなんて呆気ないんだろう。
……サンゴールはどうなっているのだろう。
メリクは熱に浮かされながら見慣れたあの町並み、城から見る城下の景色、魔術学院のことを頭に思い出した。
自分の世界を構成していたあの小さな景色を。
自分に笑いかけない、と憎らしく思ったこともあった。
でも今は懐かしい。
思い出す夕暮れ、朝陽の差し込むあの景色が、この絶望の淵ではまるで夢のように美しい光景に思えた。
女王アミアカルバはまだザイウォンから戻ってはいない。
視察に帯同した王女ミルグレンも同じだ。
今、王宮には第二王子リュティスしかいない。
あれから四日。リュティス・ドラグノヴァは自分の出奔に気づいただろうか?
自分がいなくなったと気づいたとき、あの第二王子がどう思うのだろうと思った。
いつだって冷たく自分を睥睨する、あの冷酷な、……美しい瞳を思い出したとき、メリクは眼を閉じて溢れそうになった涙を堪えた。
寂しくて、堪らなくなった。
どうしようもない気持ちになった。
もう二度と会えないのだ。
会うことも許されない。
(あんなにあんなに好きだったのに)
それを上手く伝えることも出来なかった。
ずっと思い続けていたのに、ただの一度もあの人に笑いかけてもらうことが出来なかったんだ。
この孤独はその代償か。
冷たい。寒い。……寂しい。
自分がいなくなったと気づいたとき、あの人はどう思うのだろう。
身体を丸めたままぼんやりと考えた。
身勝手さを詰るのだろうか。それともサンゴールの災いがよくやく去ったと喜ぶのか。
喜ぶ……、それとリュティスが頭の中でうまく結びつかなかったが、しかし自分の存在が彼の長い苦悩の理由の一つだったことだけは確かだったのだから。
『何の意味もない者だ』
それとも、本当に何も思わないのかもしれない。
顧みられず、ただ記憶からも消されただけなのかもしれない。
(僕があの国にいた理由は一体なんだ)
メリクは誰にとも無く問いかける。
(何の為にあの方の平穏を長い間乱していたんだ)
……アミアは悲しむのだろうか。
そう思ったとき心が傷んで、あの太陽のように華やかな人が悲しむのかなと、考えるだけで罪悪感で胸が、刺し貫かれたような気がした。
翡翠の瞳を閉じる。
考えてはいけない。考えてはダメだ。
押しつぶされてしまう。
(そういえばヴィノでも……こうして教会の奥で一人転がっていたって聞いたな)
【有翼の蛇戦争】の終わりに、故郷のヴィノが夜盗に襲われなかったら、自分の人生はどうなっていたのだろう。
そこで生きた自分の姿すら忘れたのだから想像も出来ないけれど、きっとこんなに苦しむことは無かったとそれだけは強く思った。
(愛してくれる人がいた)
『王家に紛れ込んだ異端の分際で!』
僕がそこにいることを、不思議がらず当たり前だと最初からそう思ってくれる人がいた。
『魂の下賤……』
小さな村で、平穏に暮らしていただろう。
【魔眼】という業を負った王子の存在など知らず。
当たり前のように生きて、当たり前のように恋をして、当たり前のように家庭を持って、そうやって自分の存在意義など思い悩まず、平穏に過ごしていただろう。
(どうして僕だけ生き残ったんだろう……)
メリクは思う。
何度も思ったことだ。でもそれを考えても仕方ないことだから、サンゴールにいた時は考えないようにしていた。
でも、今はもうそれを考えずにはいられない。
(女王陛下とオルハが僕を見つけて、温かい手で抱き上げて、優しい声でその骸に祈りを捧げてくれる。それだけで僕は十分だった。十分幸せだったんだ)
生き残ったならちゃんと生き残った意味を知りたい。そういうものがあってほしい。
生きられなかった者の分まですべきことがあると。でも自分はすべきことがあるどころか、自分が何か行動を起こすたびに、周囲の人間が戸惑い、不幸になって行った。
死ぬというのなら、死にも意味があってほしい。
今の僕が死んでも何の意味も無い。
だからそれすら、選ぶことは出来ない。
『何の意味も無い者だ』
メリクは強く、身体を丸める。
頭に浮かびそうになる悪い考えを振り払った。
あの日アミアカルバに救われなければ良かったと、そんなことを思いそうになる自分を責めていた。
冷たい床を抱きしめる。
(考えるくらいなら眠ろう)
結果が悪かったから全てを憎むような人間なら。
僕に今まで笑いかけてくれた人、優しくしてくれた人、気に掛けてくれた人を、確かにあったささやかな幸せな一つ一つを、ころと忘れてしまえるような人間になるくらいなら、いっそ眠りについた方がいい。
これ以上魂を汚すくらいなら。
(僕はもう二度と、誰かを不幸にする人間になんかにならない。
好きな人に好きと言えず、その人が苦しむ姿をただ遠くから見ているしか出来ないような人間にはならない。そんな人間になるくらいならいっそ独りでいい。
……独りでいた方がまだいい)
全身の力を抜く。
メリクは瞳を閉じた。
疲れ切った全身はすぐに睡魔に飲み込まれて行く。
(これでいい。これでいいんだ)
外は相変わらずの雨。
――――孤独と、雨の音しかない。
確かに死の世界とは、こんなものでしかないのだろう。
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