第9話『崇拝と禁忌のあいだで』
夜。学院主催の舞踏会。
煌びやかなシャンデリアが天井から降り注ぎ、大理石の床をやわらかく照らしていた。
音楽隊の奏でる優雅な旋律に合わせ、色とりどりのドレスが波のように揺れ、紳士たちの礼装がその合間を軽やかにすり抜けてゆく。
ホールの中心――そこに立つのは、王太子カイエル。
金糸の装飾が施された燕尾服に身を包み、まっすぐな瞳で目の前の相手を見つめていた。
その向かいに立つのは、聖女クラリッサ・ミルフォード。
上品な薄水色のドレス、髪には真珠の飾り。誰が見ても申し分のない、“理想的な令嬢”の姿だった。
「クラリッサ。どうか、手を」
王太子が、ゆっくりと手を差し出す。
指先まで気品に満ちた動き。その笑顔には、一片の疑いもない。
――そう。
これは“期待された未来”。
誰もが祝福し、誰もが疑わない“正しい結末”への一歩だった。
クラリッサも、それがわかっていた。
この手を取り、踊り、恋を重ね、やがて結ばれる。
それが自分に与えられた“幸せ”の形。
ずっと、そう信じていた――つもりだった。
でも――
(……あの方の隣に、騎士団長様がいらっしゃらない)
ふと、視線の端に映った。
壁際。
薄暗い柱の影に、剣を背負った騎士団長が立っていた。
無言で、しかし確かに見守っているようなその立ち姿。
何も言わない。
何も動かない。
ただそこに“いる”。
――それが、許せなかった。
(違いますわ。そこは、そこだけは、誰にも……触れてほしくない場所なのに)
胸の奥がきりきりと締め付けられる。
違和感――というには、あまりにもはっきりとした怒りだった。
「クラリッサ?」
優しく促す王子の声。
だが次の瞬間――
「……失礼いたしますっ!!」
ぱっ、と。
クラリッサは差し出された手を振り払うように、舞台の中心から後ずさった。
ドレスの裾が空気を裂き、宝石がかすかに揺れる音がした。
会場が、凍りつく。
ざわめく貴族たち。
音楽が止まり、空気が一瞬、真空のように重くなる。
でもクラリッサの耳には、何も届いていなかった。
(誰も、あの二人の関係を汚さないで)
(あれは、誰のものでもないの。
――私の、“神聖なる推しカプ”なのですわ!!!)
彼女は踵を返し、逃げるように舞踏会場を飛び出した。
音もなく駆けるその足取りは、まるで背後から何かに追われているようだった。
◇ ◇ ◇
自室に戻ったクラリッサは、扉を閉めるなり、机に駆け寄った。
乱雑に引き出しを開け、中から引き抜いた一冊の本――
《月下の秘誓》。
手慣れた動作で目的のページを開く。
あの場面。触れそうで、でも触れなかった、未遂のキスシーン。
何度も何度も読み返したそのページの折り目には、涙の跡すら残っている。
「これ以上……誰にも、触れてほしくありませんの……!!」
その叫びは、誰に届くわけでもなかった。
けれど、胸の奥から噴き出したのは、
王太子への恋心でもなければ、騎士団長への嫉妬でもなかった。
それは――
“信仰の崩壊を恐れる者の絶叫”だった。
◇ ◇ ◇
一方その夜、ヴァンディール家。
リリスはバルコニーで椅子に腰かけ、夜空を見上げていた。
雲間からのぞく月は静かで、まるで舞踏会のざわめきを他人事のように眺めている。
背後から近づいた侍女が、そっと耳打ちする。
「クラリッサ様が……舞踏会場を途中で退出されたとのことです」
「ええ、聞いているわ。……ついに、あの子の中で“公式カプ”が汚物化したのね」
リリスは小さく息を吐き、紅茶のカップを口に運ぶ。
表情はいつも通り優雅だったが、口元にはわずかに笑みが滲んでいた。
「さあ、クラリッサ。もうあなたは、恋愛の対象として王子を見られない。
なぜって――あなたは、もう“その王子”を“推しの受け”としか認識できないのだから」
◇ ◇ ◇
翌朝。
学院の応接間で、王子カイエルが面会を申し出た。
それに対し、クラリッサは慎重に言葉を選びながら答えた。
「理由は……?」
「わたくし……申し訳ありません。
殿下の隣に立つには、わたくしの心は――あまりにも、複雑すぎますの」
それは、“ヒロイン”としての終わりの宣言だった。
恋ではない。ヒロインではない。
もう彼女は、自分の気持ちを“愛”と呼ぶことすらしない。
クラリッサ・ミルフォードは、完全に――
“推しカプの保護者”になったのだった。
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