第7話『恋ではありません。ただ――“あの二人”が』

その物語の主人公は、女でも男でもない。

いや、“性別”の問題ではなかった。


《此岸の向こう、貴方の剣を》――新刊の中心に据えられた登場人物、“祈り人”セリア。

彼女はただ、剣士たちの背中を見つめ続ける。

戦うこともできず、名を持たぬ存在として、ただ祈りを捧げる。

それでも、誰よりも彼らを想っていた。

たとえ自分の想いが届かなくとも、彼らの無事だけを願っていた。


「……なぜでしょう。読んでいて、胸が苦しいのですの」


クラリッサは、朗読を終えたリリスの横でそっと本を閉じた。

ページを閉じたその手は、小さく震えている。

静かな図書室の隅。窓から差し込む淡い光が、彼女の横顔を切り取っていた。


「セリアという方……わたくしに、似ている気がして」


呟くようなその言葉に、リリスはあえて驚いたふりを見せた。


「まぁ。そう思われますか?」


声は柔らかく、だがその裏では、リリスの目がわずかに光を帯びる。


セリアの話し方。誰かを遠くから静かに見守る立ち位置。

決して自分の感情を押しつけず、ただそばに“いる”ことを選ぶ姿勢――


それは、今のクラリッサそのものだった。


「……王太子殿下を遠くからお慕いしていて、でも、何もできない。

 そばにいるのは、いつも騎士団長で。わたくしはただ、見ているだけで……」


小さな声に、かすかな痛みが混じる。

クラリッサは自分の胸の内を言葉にすることに、まだどこか慣れていない。

けれど、今だけは、それを押さえきれなかった。


そう――

“セリア”は、クラリッサにとって、自分と同じように“恋の蚊帳の外”にいる存在だった。


「……このセリアが、わたくしのように、“見ているだけ”で、ずっと苦しい思いをするなら……」


クラリッサは、小さく息を吸ってから、言った。


「せめて……物語の中だけでも、誰かが報われてほしい。

 ――たとえ、それが、あの二人でも……」


――はっ、と息を呑む。


今、自分は何を言った?


その言葉の意味が、頭の中で明確な形を取った瞬間、クラリッサの顔から血の気が引いた。

その場で崩れ落ちそうなほど、胸が痛んだ。


「“あの二人でも”……って、わたくし、いったい……っ!」


思わず顔を手で覆う。

手のひらに頬の熱がにじむ。目頭が、じんと痛い。


――なぜ、“誰か”ではなく、“あの二人”なのか。

――なぜ、“救われてほしい”と願った瞬間に、胸がこんなにも締めつけられるのか。


感情のベクトルが、王太子個人ではなく、“二人の関係性”へと向かい始めていた。


自分の恋と、物語の恋が、混ざってしまいそうだった。

いや、もうとっくに――混ざり始めているのかもしれない。



 ◇ ◇ ◇



一方、リリスは優雅にお茶を口に運びながら、細く目を細めた。


「……順調ね。“読者と登場人物の境界線”が、いよいよ曖昧になってきた」


まるで独り言のように呟くその声には、ほのかに満足気な響きがあった。


クラリッサは今、自分の感情を“セリアのもの”だと錯覚している。

けれど、その苦しみも切なさも、“本当はクラリッサ自身のもの”。


“他人の物語”として読んでいたはずのものに、自分自身を重ねはじめた今――

もう、それは他人事ではいられない。


(次が肝心。“尊さ”ではなく、“妄想したくて仕方がない”段階に持っていく)


目指す先は、“推しカプ”という沼の深部。

ただ読むのではない、“祈りたくなるほどに求めてしまう関係性”へ。



 ◇ ◇ ◇



その夜。

クラリッサは、机に向かって便箋を広げていた。


窓の外では風が葉を揺らしている。

蝋燭の火が静かに揺れるたび、彼女の影も小さく揺れた。


《セリアが、自分に似ているように思えて仕方がありません。

 そのせいか、騎士団長と王太子殿下の間にある距離に、妙な焦りを覚えます。

 どうか、彼らがまた言葉を交わせる日が来ますように。

 わたくし、祈ることしかできませんが――あの方たちの幸せを願わずにはいられません》


インクが乾く前に、彼女はペンを置いた。


書き終えた瞬間――

自分の中で、またひとつ何かが壊れた気がした。

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