第5話『これは、感情――らしき、何か』
「よろしければ――続きをお貸ししますわよ?」
その一言に、クラリッサの心臓が跳ねた。
文芸サロンの帰り際、日が傾き始めた石造りの回廊。
ドレスの裾をたなびかせながら歩いていたクラリッサに、リリスはまるで偶然を装うように、軽やかに声をかけてきた。
振り返った瞬間、その完璧な微笑みに、彼女は一瞬言葉を失う。
だが――そのさりげなさの裏に、綿密な仕掛けがあったことなど、クラリッサは知る由もなかった。
「えっ……続き、ですの?」
クラリッサは思わず聞き返す。
足が自然と止まり、緩やかな風が吹く中、手元のハンカチを握りしめた。
「ええ。わたくし、先日たまたま第二作も読ませていただいて。
どなたが書かれているのかは存じませんが……とても、惹かれましたの」
リリスは優雅に微笑んだ。声は柔らかく、仕草は完璧。
けれどその瞳の奥にだけ、わずかに“愉悦”の色が揺れていた。
「クラリッサ様も……続きを読みたくは、ありません?」
その言葉は、まるで禁断の扉の鍵のようだった。
一歩踏み出せば、もう戻れない。そんな予感が確かにあった。
「……よろしいのですか?」
小さく揺れる声で、クラリッサは問い返す。
「もちろん。けれど、読書会での頒布はまだ先ですから……
内緒で、二人だけで。ふふっ、“秘密の読書会”ですわね?」
リリスは唇に指を当てて、軽く笑った。
その“親密さ”に、クラリッサの胸はかすかに熱を帯びた。
戸惑いながらも――クラリッサは、ゆっくりと、けれどはっきりと頷いた。
◇ ◇ ◇
そして翌日。
学院の図書室裏、小さな私室。ふだんは使われていない読書用の控え室を、ふたりきりで借り切った。
窓には薄いレースのカーテン。
外の音も届かぬ静けさの中、ソファの対角にリリスとクラリッサが座っている。
「では……こちらが第2作、《落星の追想録》ですわ」
そう言って手渡された薄い冊子に、クラリッサはそっと指を添えた。
封蝋の代わりにリボンで結ばれたそれを受け取る仕草は、どこか緊張していた。
「ありがとうございます……。あの、もしよろしければ……
リリス様が、朗読していただけたり……?」
「あら。まぁ。よろしいのですか?」
リリスはほんの少しだけ目を見開き、意外そうな声色をのせた。
だが内心では――
(来たわね……!)
心の中で小さくガッツポーズを決める。
これはもう、“推しの声が脳に響く”あの現象。
彼女が自覚していないだけで、クラリッサはすでに一線を越えていた。
「自分で読むよりも……こう、感情が伝わるといいますか……」
クラリッサは恥ずかしそうに目を逸らした。
頬にほんのり紅が差し、その手元は落ち着かず、リボンの端をそっと弄っている。
リリスは微笑み、静かに冊子を開いた。
朗読が始まる。
ページをめくるたびに、蝋燭の火がわずかに揺れ、二人の影が壁に映る。
「――“ずっと、傍にいてほしかった”。
けれど、剣を置いたら、君は僕を選ばないと分かっていた……」
リリスの声は淡々としながらも、行間の想いを確かに運ぶ。
耳に届く声に、クラリッサの肩がかすかに震えた。
物語の中で、騎士団長は王太子を守るために嘘をつき続ける。
本心を押し殺し、言葉を飲み込む。
近くて遠い関係――それを壊さないように。
そして、王太子もまた、それに気づきながら、あえて何も言わない。
「なんて……切ないんですの」
クラリッサの声が、かすかに震えた。
潤んだ瞳がページの向こうを追っている。
「この人たち……ずっと“互いのことだけ”を見てきたのに、言葉にできなくて……!」
熱を帯びた吐息とともに、感情が溢れていた。
それはもう、“友情”でも“忠誠”でもなかった。
明確な名前のない感情。けれど、確かにそこにあるもの。
苦しくて、でも、美しい。
それをどう呼べばいいのか、クラリッサにはわからなかった。
「リリス様……」
「はい?」
「これって……これは、その……なんなのですの?」
まっすぐに見上げたその目には、戸惑いと渇望が同居していた。
何かを掴みたくて、でもそれが何なのかがわからない。
「ふふ。“感情”ですわよ。
名前なんて、無理に与えなくてもよろしいのではなくて?」
リリスはやさしく微笑みながら言う。
だがその微笑みの奥には、静かな勝利の色が滲んでいた。
「で、でも……このままだと、わたくし……
王太子殿下のお顔を、まともに見られませんわ……!」
手のひらで頬を覆うクラリッサの声は、完全に混乱していた。
顔を赤らめ、視線をさまよわせながらも、言葉を止められなかった。
「それは……なぜかしら?」
リリスの問いかけは、やさしく、けれど鋭く突き刺さる。
クラリッサは、答えられなかった。
けれど、その沈黙こそが――答えになっていた。
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