第4話『“尊い”という呪いを知ってしまった』
クラリッサ・ミルフォードは、机の上の便箋を前に、沈黙していた。
重ねた両手の下で、薄桃色の封筒が静かに揺れている。
宛名には、“匿名作家様宛て”とだけ記されていた。
あの、学院の文芸掲示板の片隅――誰にも気づかれぬようにそっと貼られていた紙切れのことを思い出す。
《ご感想、お寄せいただければ励みになります》
たった一行の告知。
だがその一文が、なぜかずっと頭から離れなかった。
気がつけば、便箋も封筒も、自分で用意していた。
誰が書いたかは不明。
けれど、内容はわかっている。
夜な夜なページを繰ってしまった、あの一冊。
《薔薇の剣に誓って》
王太子と騎士団長。
剣と誓いと夜と。
言葉にするにはあまりにも曖昧で、でも、どうしても消えてくれない残響のようなもの。
読んだあと、心に何かが残った。
名のない感情。形のない熱。
そして、誰にも見せたことのない“ざわめき”。
クラリッサは、そっと万年筆を取った。
重みのあるペンが指に馴染まない。書き慣れた筆記具のはずなのに、今夜ばかりはずっと重く感じられた。
「……あの、物語について、ですわよね。そう、感想。ただの読書感想文。そういうものですわ」
小さく言い聞かせるように口にしてから、震える指先でペンを便箋に当てる。
だが――そのまま動かなかった。
ぐ、と一文字目を書こうとして――止まる。
(何を書けば……? “面白かった”? “感動した”? “好き”……?)
心に浮かぶ単語の一つひとつが、なぜか妙に照れ臭くて、筆が進まない。
どれもこれも、口にした途端に“意味を持ってしまう”気がして、怖かった。
それに――
(“王太子殿下を思っている私”が、こんな言葉を使っていいの……?)
理性の声がそう囁く。
誰も咎めてはいないはずなのに、筆先はまるで封印されたように硬直していた。
「これって……なんと申しますの? 苦しいのに、あたたかくて……でも、胸がぎゅっとなって……」
思わずぽつりとこぼれた独り言。
口にしてから、自分でその意味もわからずに赤面する。
知らない世界。
触れてはいけない気がしていたけれど、もうすでに、触れてしまった。
◇ ◇ ◇
一方その頃――
「第2作、完成したわ。タイトルは《落星の追想録》。テーマは、“すれ違い”」
リリス=ヴァンディールは、屋敷の一角にある私室の奥、小さな書き物机の前で静かに原稿を閉じた。
窓から差し込む夜の月光が、羊皮紙の上を静かに滑っていく。
手元には、美しく綴られた新作の原稿と、いくつかの封筒。
その端正な文字に、滲むように熱がこもっていた。
今回の冊子は、騎士団長が過去の誓いを守るために、王太子に嘘を重ねていく物語。
愛しているから、遠ざける。
信じているから、黙って傷つく。
それは前作よりも、はるかに深く、ねじれて、刺さる構成。
「“この人たちは幸せになってはいけない”。そう思ってしまったら終わりよ、クラリッサ」
唇の端が、勝ち誇るように持ち上がった。
――同時に、リリスは一通の手紙をしたためていた。
《親愛なるマルグリット嬢へ。あなたの感性、そして貴族社会への観察眼に興味があります。
近日開催される小規模な読書会にて、拙作についてのご意見をぜひ……》
クラリッサと同じ階層にありながら、社交に長けた情報通の令嬢。
“観客”としてではなく、“感染源”として選んだ次なる刺客。
仕掛けは、すでに“読者の外”からも始まっている。
◇ ◇ ◇
数日後――
文芸サロン。
午後の陽がカーテン越しに差し込み、薄く香る紅茶の香りと共に、静かに時間が流れていた。
一冊の冊子を読み終えたマルグリット嬢が、ふわりと微笑みながら言った。
「……えっ、この人たち、あくまで親友なんでしょう?」
問いかけるようなその言葉に、周囲の令嬢たちはざわりと反応を返す。
だが、マルグリットは微笑を崩さない。
「でも、あえて“幸せにならない”結末にしたの、すごくわかるわ。だってそのほうが――尊いもの」
その一言が、クラリッサの胸を射抜いた。
ティーカップを持つ手が止まり、音を立てぬようそっと受け皿に置く。
「“尊い”……?」
思わず繰り返す。
その言葉が、心の奥の、触れてはいけない何かをチクリと刺した。
そして――気づいてしまった。
(……どうして、私、この話の続きが“見たい”と思っているのかしら)
物語の続きが気になるなんて、それだけなら珍しいことではない。
けれど、恋の物語ではないはずなのに、心が騒ぐ。
名付けられない感情が、すでに彼女の中で育ち始めていた。
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