第3話『友情という逃げ道に、まだすがっている』

夜。


寄宿舎の自室で、クラリッサは机の横にある小さなソファに腰を下ろし、膝の上に一冊の冊子を広げていた。

蝋燭の灯が静かに揺れ、ページの端に落ちる影が微かに脈打つ。

《薔薇の剣に誓って》。再び、あの物語。


「また読んでしまうなんて……おかしいですわ、わたくし」


声はひとりごとのように弱く、けれど少しだけ息が詰まっていた。


手は震えていた。いや、震えないようにと意識すればするほど、逆に震えていた。

指先が羊皮紙の上をそっとなぞる。何度も触れたその紙の感触は、もうすでに心の中に染みついていた。


最初に読んだ時は、まるで異文化を浴びたような感覚だった。

戸惑い、理解不能な感情に襲われ、ただ呆然とした。

けれど今は――違う。

わかってしまうのだ。わからないはずの“それ”が、もう自分の中にあることに。


「……“俺が斃れたら、剣はお前に。

そうしたら、お前が俺の代わりに生きてくれ”……」


ページの上で指が止まる。

ふいに喉が詰まり、息が浅くなる。

部屋は静かなのに、心臓の音だけがやけに響いて聞こえた。


読み進めるうちに、胸の奥がじわりと熱くなる。

涙とは違う、名前のつかない感情が波のように押し寄せては、引いていく。


「こんな……関係、許されるはずがないのに」


でも――美しいと思ってしまった。苦しいのに、目が離せない。

それが何よりも、恐ろしかった。


そう言いながら、クラリッサは最後のページまで、ゆっくりと、まるで儀式のように読み切った。

物語は、騎士団長が王太子を庇って倒れ、最後に遺された剣に“永遠の想い”が託されるシーンで幕を閉じる。


「でも、どうして……どうしてこんなに苦しいのですの……?」


胸に手を当てた。

ドレス越しに伝わる心臓の鼓動は、まるで誰かに触れられたように速い。止まらない。


「……これは、友情……ですわよね? きっと……」


誰に聞かせるでもない、かすれた声。

けれど、その“問い”が生まれたこと自体が、もうすでに兆しだった。

沼の名をまだ知らぬ者が、すでに沼底に片足を沈めていることに気づかないように。


そのとき――


「クラリッサ様。おやすみの準備をお手伝いしましょうか?」


「――っ、あっ……だ、大丈夫ですわっ!」


扉の外から侍女の声がした途端、クラリッサは反射的に冊子をばっさりと閉じた。

慌ててそれを抱きかかえ、素早く枕の下に押し込む。

何もなかったふりをしながら、胸の奥の動悸だけがどんどん高鳴っていく。


顔は真っ赤だった。熱いのは、きっと部屋の空気のせいじゃない。


「……変ですわ、わたくし……本当に、変」


呟きは小さく、震えていた。

クラリッサはそのまま、ベッドに滑り込むように潜り込む。

掛け布を引き寄せ、丸くなりながら、枕の下を意識して眠ろうとする。


そこには今も、《薔薇の剣に誓って》が隠されていた。


そして、眠りに落ちる直前。


クラリッサの脳裏に、あのシーンがふとよぎる。


――焚き火の明かりに照らされた、ふたりの横顔。

――決して重ならない唇と、代わりに重なる剣先。


「……もう、寝なければ」


その声は、自分でも驚くほどにか細く、そして――切なかった。



 ◇ ◇ ◇



一方その頃。


「ふふ……読んだわね、クラリッサ」


月光に照らされたヴァンディール家のバルコニーで、リリスは夜風を受けながら薄く笑った。

手にはティーカップ。だが視線の先には、すでに勝利の未来が見えていた。


「友情と思っているうちが華よ。

その感情、いつか“恋ですらないもの”に変わる」


彼女の机の上には、すでに新作落星の追想録(仮)の下書きが置かれていた。

その筆は、次の一撃――“逃れられない二度目の感情爆弾”を準備している。

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