第2話『もう一度、だけ――“再読”という名の第一歩』

その日の夜。侯爵家の西翼――静寂と紙の匂いが支配する書庫にて。

火の灯ったランプが、机の上の羊皮紙をほのかに照らしていた。


私はその机に向かい、ひとり筆を走らせていた。

棚に囲まれた空間は、外界から完全に切り離された“創作の聖域”。

唯一響く音は、ペン先が紙を滑るかすかな音のみ。


羊皮紙の上には、今日仕上げたばかりの短編のラフ構成が並んでいる。


その内容は――


「うふふふ……次回作は、“任務で二人きりの雪山遭難”。

 焚き火を囲んで語られる、もしもの話。やだ、最高……」


ランプの光に照らされて、頬が自然とゆるむのが自分でもわかる。

描くだけで高まる。妄想という熱源で、部屋の気温まで上がりそうだった。


だが、それ以上に私を高揚させたのは――今日のクラリッサの顔。


何気ないようでいて、ページの上で一瞬止まった指先。

わずかに引き結ばれた唇。言葉にできない戸惑いのまなざし。


あれは、単なる拒絶ではなかった。


彼女の中で、“知らなかった感情”が目を覚ました瞬間。


(……いい兆候。あの感覚は一度味わったら戻れない。

 さて、もう一度“あの冊子”に手を伸ばすかしら? 私なら、伸ばす)



 ◇ ◇ ◇



そして――翌日。

学院の図書サロン。午前の陽光が差し込む窓辺の席。

私は開かれた本を手に、優雅に紅茶を楽しんでいた。


その静けさを破ったのは、ひときわおずおずとした声。


「……リリス様。おひとりで読書を?」


振り向けば、そこにはクラリッサ。

前日よりも少しだけ、頬が紅い。いや、光のせいかもしれない。たぶん、気のせいではない。


「ええ、気分転換にね。クラリッサこそ、また読書会に?」


「はい……その、昨日の……あの本……。もう一度、だけ」


言い切った瞬間、彼女の肩がびくりと震えた。

そして慌てたように、つけ加える。


「いえ、誤解しないでくださいませね!?

 べ、別に、面白いとか、そういう意味ではなくて……あの、なんと申しますか、構成が、珍しかったので……!」


ふふ、と私は自然に目を細めた。


その顔は、照れているのか、焦っているのか、あるいは――もうすでに、少し抗いかけているのか。


「わかりますわ。その“構成”、確かに印象的でしたものね」


(“構成”という言い訳、初級者が最初に使うやつよね。

 ええ、そこからみんな始まるのよ)


クラリッサは、まるで誰かに見られていないかを気にするように周囲を見回し、棚の隅へ歩み寄った。

そして、迷う素振りもなく、あの一冊――《薔薇の剣に誓って》を手に取る。


もはや“うっかり選んだ”わけではない。

彼女の中には、確かにあの物語が“残っていた”。


「……“お前の剣が、俺の誓いだ”。そんな、言葉があった気がしますの」


ぼそりと漏れたその一文。

思い出そうとしたわけではない。思い出してしまったのだ。


「まぁ。よく覚えていらして」


「……ええ。なぜか、胸に残ってしまって……

 おかしいですわね。こういうの、初めてなのに」


その声には、確かな“揺らぎ”があった。

心の中の棚が、静かに崩れかけている音が聞こえるようだった。


クラリッサ・ミルフォード。

王子をまっすぐに愛する乙女。

彼女の心に――別の物語が刺さり始めた。


(いいわ。次は“再会”ものよ。

 数年ぶりの再会、互いに想いを隠しつつ剣を交える――

 そろそろ、“戦い=愛”って刷り込んでいきましょうか)


筆は止まらない。

もう、彼女の反応が、私の創作を加速させる燃料になっていた。

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