籠城④
アキレウスが神殿を去った翌日。避難民の間には生きる活力が残されていた。食料は尽き、餓死も時間の問題ではあったものの「援軍は来る」とマリアが断言した効果もあって、痩せつつあった子供達さえも「パリス兄ちゃん、早く来てほしいなー」と明るい見通しを立てて、僅かな食料を口にしていた。
「はい、あんたの分」
「いえ、受け取れません。リキニアさん。あなたがお召し上がりになってください」
「いいの。わたくし、お腹いっぱいだから」
心境の変化は、リキニアにも生じていた。以前はマリアにだけ食料を少なくする意地悪をしていた彼女が今では自分が食べる分を、嘘を付いてまでマリアに譲っていたのである。
「ぼ、ボクもマリアちゃんに食べ物を上げちゃうよぉ。ほ、ほらぁ、マリアちゃんが大好きな子供がいっぱいてぇ、だからぁ、マリアちゃんが元気じゃなくなっちゃうと思ったからぁ」
似たような心境の変化は、かつてマリアを
「そうですか。なら、お言葉に甘えて」
そう言ってマリアがリキニアとピソから食料を受け取ると、それを少しだけ口に入れて、残りは全て腹を空かせている子供に与えていく。リキニアもピソもそれに異議を唱えなかった。マリアのしたいようにさせようと思ったのである。
「マリア先生、ありがとうございます!」
「はい、ユリアちゃん。ゆっくり食べるのよ」
「先生。僕、あまり食べられない……」
「そうなの? ファウストゥス君。なら、自分が食べられるだけ食べたら、残りは他のお友達にプレゼントしてあげなさい」
「分かりました。じゃあ、はい、どうぞ」
マリウスの学校に通う子供達がマリアの言いつけを守り、仲良く食事を採る。そして食事が終われば、名前も知らなかったラウィニアの子供達とも親しく接し、マリアと一緒に歌を詠って時を過ごす。それが大人達の顔を緩ませ、心労を和らげる。
避難民の気持ちは、リキニアやピソも含めた神殿内にいた全ての人々が、彼らを守らねば、と固く決意していた。
◇
神殿内に籠城し続けたマリアらであったが、さすがに食料不足は人々の心を蝕んでいった。特に子供達の衰弱は大人達の
「もう十分じゃないか。私達は一週間もよく持ちこたえたよ。けれど、子供達が弱っていくのを私はとても見てはいられない。相手に話し合いが通じるかは分からないけれど、ここは敵の大将と会談の場を設けて『どうか命だけは助けてくれ』と話を持ち掛けてはどうだろうか」
避難民の大半が男の意見に賛同した。ピソでさえも賛成した。一方で、リキニアは強硬に反対した。
「パリスさまは必ず来てくれますわ! わたくしは信じています。あの方は絶対にわたくしを、いいえ、わたくしたちを助けに来てくれるって! ねえ、あんたも……」
突如としてリキニアは倒れてしまった。マリアに「パリスが軍を率いて必ず来てくれる」ことをもう一度力説してもらおうとしたところで。マリアに食料を分け与えていたこともあって衰弱が著しく、立ち上がった瞬間に足がもつれてしまったのだ。
「ねえ、あんた……。来てくださいますわよね……。パリスさまは、愛している人を助けに白馬に乗って……悪い奴らを全部やっつけて……。そして、あの方は愛しの人を抱き上げて凱旋するの……。サビニアの乙女みたいにたくさんの人から小麦を浴びせられて祝われて……」
マリアだけでなく子供達までがよろよろと立ち上がり、リキニアに駆け寄る。リキニアは最後の力を振り絞って、マリアに言うのだった。
「マリアさん、ごめんなさい。許してくれるとは思えないけれど、白状するわ……。わたくし、あんたに嫌がらせした。裁判であんたを……愛しのパリスさまから引き離そうとした」
「そうだったんですか」
「それで、あんたに有罪判決が下らなくてイライラして、周りの人に当たり散らして……そして、わたくしのせいで戦争が起こっちゃって……。みんなを不幸にしちゃってた」
「そうだったんですね」
「正直、後悔してる……。だって、あんたはみんなから愛される人なのに……わたくしは勝手な思い込みでみんなに迷惑をかけて……たくさんの人を傷つけちゃって」
「リキニアさん。起こしてしまったことは、もう取り返しがつきません。ですから、過去のことを嘆くのではなく、未来のことを考えてください。
パパが、幼い頃から何度も私に言ってくれたことがあるんです。
『悪いことをしてしまったことについて考えるのではなく、悪いことをした後にどう動くかが大事で、そのためには加害者は被害者を、被害者は加害者を許す必要がある』って。
リキニアさん。私は、あなたが戦争の原因になって、そのために傷ついた人達については何も言うことはできませんが、あなたが私にした意地悪については、許したいと思ってます。ですから、私に対するあなたの行いを気に病むことはないのですよ」
はたして、リキニアは目の前で優しい眼差しを自分に向けているマリアが見せた『
マリアの手を握り、何かを言おうとしたところでリキニアの全身からは力が抜け、二度と目を覚ますことはなかったのだから。
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