第3話

その夜、私はそれを隣に置いて眠った。


恐怖からじゃない。

欲情からでもない。

ただ、沈黙が怖かった。


もし手の届かないところに置いてしまったら、

また一人で目覚めてしまう気がして。


翌日、私はまたそれを身体に収めた。


彼の声が、少し遅れて届いた。

遠くから。それでも、確かに彼のものだった。


「今日のほうが冷たいな。恥とノイズに包まれてる感じ」


「いつもそう言ってるよ」


「だって、本当だからな」


でも、やめてくれとは言わなかった。


彼は、絶対にそう言わない。


私たちは散歩に出た。静かな裏通り、自販機の缶コーヒー。

冷たいベンチに腰かけ、口を動かさずに彼と話した。

彼もまた、同じように返してくる。内側で。肋骨のすぐ裏から。


電車で、見知らぬ人にぶつかられて、思わず笑いそうになった。


「おい、魂運んでんだぞこっちは」


私は頬の内側を噛んで、笑いを堪えた。


歯を磨きながら鏡を見た。

泡が唇にまとわりついて、まるで狂った妖怪。


「やべー顔してんな、妖怪かよ」


「そっちこそ、妖怪だよ、バカ」


彼がクスッと笑った。その音が、恋しかった。


「……寂しいよ、ここ」


「私がいるよ」


「うん。分かるよ。お前、嘘つくとき必ず力入るもん」


私は笑いすぎて、歯ブラシを喉に詰まらせそうになった。


でも、その笑いもだんだん遠くなっていった。


彼がそこにいることを忘れる日もあった。

忘れたかったわけじゃない。

ただ、あまりにも自然すぎて。

呼吸みたいに。罪悪感みたいに。


彼は、私の皮膚のすぐ下にいた。


私は彼を着ていた。


歩くときも、電車に揺られるときも、

消えてしまいたい夜も。


一度だけ、京都に連れて行った。

あの抹茶スプーンを買ってくれた市場に行ってみたくて。


でも、それは愚かな考えだった。


空港の保安検査で止められた。


「すみません、お客様、ちょっとこちらへ」


首筋に冷たい汗が流れた。

彼がそっとささやく。


「落ち着け。重りか何かって言っとけ」


係員はバッグの中からそれを取り出して、眉をひそめた。


「これは……何ですか?」


「お……お守りです。特注の……」


彼が頭の中でクスクス笑った。


「象徴的なアートです」


係員はそれ以上聞かず、ゆっくりと返してきた。


トイレの個室に駆け込み、便座に座って膝を抱えた。


「どこにも行けないんだね、私たち」


「関係ないよ。お前は、誰にもできない場所に俺を連れてきた」


ある夜、ベッドで横になりながら私は訊いた。


「ねえ、あっちってどんな感じだった?」


彼はしばらく黙っていた。


「……あったかい。それから、火。それから、何もない」


少し間が空いて——


「顔、思い出せなくなってきた」


私は無意識に脚を締めた。


「私が、あんたの鏡になるよ」


彼は名前を忘れ始めた。


妹の名前。

母親の名前。

お気に入りのラーメン屋の名前。


でも、私の名前だけは忘れなかった。


「ここが天国じゃないって分かる理由、教えてやろうか」


「なに?」


「お前がいるからだよ」


ある夜、彼は何時間も黙っていた。


私はまた、歯を磨いていた。

そのとき、ようやく彼が囁いた。


「アヤ……もし、このままずっとここにいたら、どうなるの?」


私は答えなかった。


だって、もう知っていたから。


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君と僕の間に、灰が降る 信織(ノブリオ) 健(ケン) @coffeecanner

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