完璧なマッチング

ぼくしっち

第1話完結


1.

「ねえ、ミサキもやってみなよ。結構いい人いるって」


会社の同僚、アヤカがランチのパスタを巻き付けながら、悪戯っぽく笑った。彼女がスマホの画面で見せてきたのは、今流行りのマッチングアプリ『Linkd』のアイコン。三年付き合った彼氏と別れて半年。仕事に没頭することで寂しさを紛らわしてきたが、三十路を目前にして、ふと孤独が胸を刺す夜が増えたのも事実だった。


「うーん、でもアプリって、なんか怖くない?」

「大丈夫だって!身分証の提出も必須だし、運営が24時間監視してるから変な人はすぐ排除されるって。ほら、私の彼氏もLinkdで出会ったんだよ」


アヤカが幸せそうに微笑むのを見て、私の心は少し揺れた。怖いもの見たさ、というわけではないが、新しい出会いの形に少しだけ興味が湧いた。その日の夜、私はベッドの上で、少しの躊躇いのあと、App Storeから『Linkd』をダウンロードした。


プロフィール作成は思ったより簡単だった。当たり障りのない自己紹介文と、友人と旅行に行った時の写真を数枚。登録を終えて数分もすると、画面の右上に赤い通知が灯り、「いいね!」が届き始めた。まるで自分の価値が数値化されていくようで、気恥ずかしいような、嬉しいような、不思議な感覚だった。


その中で、一人、私の目を引く男性がいた。


彼の名前はユウヤ。年齢は30歳。プロフィール写真は、爽やかな笑顔でカフェのテラス席に座っているものだった。自己紹介文は丁寧で、誠実そうな人柄が伝わってくる。趣味は映画鑑賞とカフェ巡り。私と全く同じだった。まるで運命みたい、なんて安直なことを考えながら、私は吸い寄せられるように彼のプロフィールに「いいね!」を送った。


すぐに「マッチングしました!」という通知が弾ける。

『はじめまして、ユウヤです。いいね、ありがとうございます。ミサキさんの笑顔が素敵だったので、思わず押しちゃいました』


スマホの画面に表示されたメッセージに、私の口元が自然と緩んだ。そこから、ユウヤとのメッセージのやり取りが始まった。


2.

ユウヤとの会話は、驚くほど弾んだ。好きな映画のジャンル、好きな監督、最近観て面白かった作品。まるでパズルのピースがはまるように、私たちの好みは一致した。


『この監督の初期作品、いいですよね。特にこのシーンの光の使い方が…』

『わかります!私もそこ、一番好きです!』


彼は私の話をよく聞いてくれたし、知識も豊富だった。何より、メッセージの返信が早くて丁寧なのが嬉しかった。仕事で疲れて帰ってきた夜も、彼とのメッセージのやり取りが唯一の癒やしになっていた。


ある日、私が「今日は天気が良かったので、近所の公園を散歩してきました」と、公園のベンチから撮った写真を送った。

『わ、いいですね。この公園、桜の木が綺麗ですよね』

とユウヤから返事が来た。確かに、その公園は春になると見事な桜並木ができることで有名だった。

「すごい、よくご存知ですね!」

『ええ、僕もたまに行くんですよ。もしかしたら、どこかですれ違ってるかもしれませんね』


そんな偶然の会話が、私たちの距離をさらに縮めた気がした。彼が送ってくる写真も、私にとって親しみのある場所が多かった。私のお気に入りのブックカフェ、よく買い物に行く駅ビルの屋上庭園、会社の近くにあるレトロな喫茶店。そのたびに「奇遇だね!」と私たちは笑い合った。この広い東京で、こんなにも行動範囲が似ている人がいるなんて。私はそれを「運命」だと信じ始めていた。


アプリを始めて二週間が経った頃、私たちは初めて通話をすることになった。緊張しながら通話ボタンを押すと、スピーカーから聞こえてきたのは、想像していた通りの優しくて落ち着いた声だった。


「もしもし、ミサキちゃん?ユウヤです」

「あ、はい!はじめまして」

「声、聞けて嬉しいよ。なんか、イメージ通りだ」


私たちは一時間以上も話し込んだ。彼の声は心地よく、私はすっかりリラックスしていた。その日の夜、通話を終えてベッドに入った私は、興奮でなかなか寝付けなかった。アヤカの言う通りだった。アプリでの出会いも、悪くない。


しかし、小さな違和感の芽は、気づかないうちに私の心の中で静かに育ち始めていた。


3.

その日は、仕事で大きなミスをしてしまい、ひどく落ち込んでいた。残業を終えて、とぼとぼと夜道を歩く。気分転換に何か甘いものでも食べようと、帰り道にあるコンビニに寄った。新発売のピスタチオのアイスを手に取り、家に帰ってからユウヤにメッセージを送った。


『今日は仕事でヘコんだけど、コンビニで美味しいアイス見つけて、ちょっと元気出ました』


すぐに既読がつき、返信が来る。

『お疲れ様。大変だったね。セブンプレミアムのそのアイス、美味しいよね。元気出して』


私はスマホの画面を二度見した。

……セブンプレミアム?

確かに私が買ったのはセブン-イレブンのプライベートブランドのアイスだった。でも、私はメッセージでコンビニの名前なんて一言も書いていない。


「どうして、セブンってわかったんですか?」

恐る恐る尋ねると、彼はあっけらかんとした様子で返してきた。

『ああ、ごめん!最近テレビCMでやってたから、ピスタチオの新作アイスって言ったらそれかなって思って。違った?』

「いえ、合ってます。すごいですね」


CMか。そう言われれば、そんなCMがあったような気もする。私は自分の考えすぎを笑い飛ばし、それ以上気には留めなかった。


でも、一度気になり始めると、些細なことがノイズのように心をざわつかせた。


ユウヤのプロフィールに登録されている写真。全部で五枚ある。カフェにいる写真、旅行先の風景、本棚の前で微笑む彼。どれも素敵だ。私は何気なく、その中の一枚を拡大してみた。彼が自宅らしき場所でマグカップを片手にリラックスしている写真だ。


「……え?」


声が漏れた。

彼の背後、ソファの上に置かれたクッション。ネイビーの生地に、金色の幾何学模様が刺繍されている。

それは、一ヶ月前に私がインテリアショップで一目惚れして買ったクッションと、全く同じデザインだった。いや、人気のブランドだから、持っている人がいてもおかしくはない。偶然だ。そう自分に言い聞かせた。でも、心臓が嫌な音を立てて脈打つのを感じた。


私は不安を振り払うように、スマホのアルバムを開き、自分が先日投稿するために撮った部屋の写真を確認する。そこには、ソファに置かれた例のクッションがはっきりと写っていた。


まさか。そんなはず、ない。

私のSNSは、友人しか見られないように鍵をかけている。ユウヤとSNSは交換していない。彼が私の部屋の写真を見る手段なんて、あるはずがないのだ。


震える指で、もう一度彼のプロフィール写真を見る。今度はもっと細かく、隅々まで。何か、何かヒントはないか。すると、写真の隅、本棚のガラス扉に、何か白いものが反射して映り込んでいるのに気づいた。


画像を極限まで拡大する。ピントが合わず、ぼやけている。でも、その形には見覚えがあった。

私がベッドサイドに置いている、ウサギの形をした、小さなランプシェード。


全身から、急速に血の気が引いていくのがわかった。

これは、偶然じゃない。

この写真は、私の部屋で撮られたものだ。


でも、いつ?どうやって?私は一人暮らしだ。合鍵を渡している相手もいない。この半年の間に、部屋に招き入れた男性なんて一人もいない。


思考がぐるぐると空回りする。頭が真っ白になり、吐き気さえしてきた。

その時、スマホが震え、ユウヤからのメッセージ通知が画面に表示された。


『ミサキちゃん?どうしたの、急に静かになって。週末、いよいよ会えるね。楽しみだな』


週末に会う約束。そうだ、私たちは明後日、初めて会う約束をしていた。駅前のカフェで、午後二時に。


恐怖が全身を支配する。この人は、一体誰?

私はすぐに友人であり、ユウヤを紹介してくれたアヤカに電話をかけた。


「もしもし、アヤカ!?ちょっと助けて!」

「え、ミサキどうしたの、そんなに慌てて」

「ユウヤさんのことなんだけど…!」


私はこれまでの違和感、そして写真のことを、半ばパニックになりながらアヤカに話した。

「…考えすぎじゃない?たまたまだって。クッションだって、ランプだって、別に珍しいものじゃないでしょ」

アヤカは冷静だった。確かに、第三者から見れば私の話は被害妄想に聞こえるかもしれない。

「でも…!」

「大丈夫だよ。もし本当に心配なら、週末会うの、明るいカフェだし、何かあったらすぐ逃げればいいじゃない。それで、ただのいい人だったら、ミサキの取り越し苦労ってことでしょ?」


アヤカの言うことにも一理ある。もしかしたら、本当に私の考えすぎなのかもしれない。そう思うと、少しだけ冷静になれた。

「…うん。わかった。ありがとう」

電話を切ると、どっと疲労感が押し寄せてきた。


すると、またスマホが震えた。ユウヤからだ。

今度は、一枚の写真が添付されている。


私は恐る恐る、その画像をタップした。

そこに写っていたのは、暗い窓の外から、部屋の中を覗き込むようにして撮られた、薄暗い写真。カーテンの隙間から、部屋の明かりが漏れている。そして、その明かりに照らされた窓ガラスには、電話をしている私の横顔が、ぼんやりと反射して写っていた。


そして、写真の下には、一文だけ。


『さっき電話してたの、誰?』


4.

「ひっ…!」


私は悲鳴を上げてスマホを放り投げた。ガシャン、と床に落ちる鈍い音。

心臓が喉から飛び出しそうだった。全身が氷のように冷たくなり、ガタガタと震えが止まらない。

いる。近くにいる。

この部屋の、すぐ外に。


私は息を殺し、そろそろと窓に近づいた。レースのカーテンの隙間から、震える目で外を覗く。アパートの前の道は街灯に照らされているが、人の姿は見えない。でも、いるのだ。今、この瞬間も、私を見ているのかもしれない。


急いで部屋中のカーテンを閉め、玄関の鍵が閉まっていることを何度も確認する。チェーンロックもかけた。それだけでは足りず、玄関ドアの前にテレビ台を動かしてバリケードを作った。


どうしよう、どうしよう。警察?でも、何を話せばいい?マッチングアプリで知り合った人にストーキングされている、と?証拠は、あの写真だけ。彼らが本気で取り合ってくれるだろうか。


そうだ、まずはアプリのアカウントを消そう。彼との接点を、完全に断ち切らなければ。

私は床に落ちたスマホを拾い、震える指で『Linkd』のアプリを開いた。彼のプロフィールページにいき、ブロックボタンを押す。


『エラーが発生しました。時間をおいて再度お試しください』


赤い文字が冷たく表示される。何度やっても同じだった。ブロックができない。

ならば、アカウントごと。退会手続きのページに進む。パスワードを入力し、「退会する」のボタンをタップした。


『エラーが発生しました。この操作は許可されていません』


許可されていません?どういうこと?パニックで頭が正常に働かない。

その時だった。


ブブブ…ブブブ…


手の中のスマホが、着信を告げて激しく震えた。

画面には「非通知設定」の文字。


出るべきじゃない。わかっている。でも、指が勝手に動き、緑色の通話ボタンをスライドさせてしまった。恐る恐る、スマホを耳に当てる。


「……もしもし」

『…ミサキちゃん?』


スピーカーから聞こえてきたのは、何度も通話で聞いた、あの優しい声だった。ユウヤの声だ。


「な、なんで…どうしてブロックするの?退会しようとしてるでしょ?どうして?」

声は優しいのに、その内容は私の全身を凍りつかせた。

「あなた、誰なの…!一体、どこにいるのよ!」

私は叫んでいた。涙と恐怖で声が震える。


すると、電話の向こうで、彼がくすくすと笑う声がした。それは、今まで聞いてきた優しい笑い声とは全く違う、ねっとりとした、不気味な響きを持っていた。


『どこにいるかって?』


彼は、まるで子どものなぞなぞに答えるみたいに、楽しそうに言った。


『ずっと、ミサキちゃんのいちばん近くにいたよ』


その言葉の意味を、私は理解できなかった。いや、理解したくなかった。


『ミサキちゃんの部屋の、クローゼットの中だよ』


瞬間、私の視線は、部屋の隅にあるクローゼットの扉に釘付けになった。古いアパートの、何の変哲もない、白い木の扉。


ギィ…


電話の向こうからではない。

私の耳に、直接。

すぐそこで。


クローゼットの扉が、ゆっくりと、軋む音を立てて、開き始めた。


暗い隙間の向こう側で、何かがニヤリと笑ったのが見えた。


私の口から、声にならない絶叫が迸った。


5.

翌朝、アパートの住人から「昨夜、隣の部屋から女性の悲鳴が聞こえた」と通報があり、警察官が駆けつけた。部屋のドアには鍵がかかっており、応答がなかったため、管理会社の立ち会いのもと、ドアが開けられた。


部屋は荒らされた形跡はなく、争ったような跡もなかった。ただ、住人である会社員、工藤ミサキ(28)の姿だけが、どこにもなかった。


リビングの床には、一台のスマートフォンだけが落ちていたという。


その画面に表示されていたのは、マッチングアプリ『Linkd』のプロフィール画面。

そこには、爽やかな笑顔の男性の写真と、「ユウヤ」という名前が表示されていた。


駆けつけた警察官の一人が、そのプロフィール写真を見て、眉をひそめた。

男性の背後に写り込んでいるカーテン。


それは、今、自分たちがいるこの部屋の窓にかかっているものと、全く同じ柄だった。

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