お互いについて何も知らない三人(今年で27歳)

玄関のドアを開けると、外はもう秋の空気だった(過去形)


ちょっとだけ冷たい風が、首筋をくすぐっていた(過去形)


──今はもう日差しが強くて、歩くたびに顔が火照っていくのがわかる。
前に来たときよりも、少し汗ばむ季節になった。

この前と同じ、カフェの前で立ち止まる。
外から見えるガラスには、店内の様子がぼんやりと映っていた。
反射の向こうに何かが見えたような気がして、でもそれが誰かを確認する前に、私はドアに手をかけていた。

ドアベルの音が鳴る。
入ってすぐ、冷房の涼しさと、コーヒーの香り。

あ、と思った。
ガラス越しに見えたのは、間違いじゃなかった。

窓際。
一番奥の席。
──美晴と、佐川くんがいた。

小さな丸テーブルを挟んで、向かい合って座っている。
ふたりとも、少し身を乗り出すようにして、話をしていた。
その目線の高さ。口の動き。手の位置。
……知ってる。あの感じ、知ってる。

私は、少しだけ立ち尽くした。
足は止まったけど、顔は止まれなかった。
つい、そのまま視線がふたりに向いてしまう。

気づかれたのは、美晴のほうが先だった。
彼女の顔に、わずかな動き。ほんの一瞬、まばたきが遅れたような表情。
続いて佐川くんも、こちらを見た。
どちらも、言葉を発しない。できない、という感じだった。

私は笑った。──つもりだった。

「……こんにちは」

声が出ていたのか、わからない。
聞こえたのは、自分の中の声だけかもしれない。

でも、それでいい。
何かを言って、気まずくなるくらいなら。

視界の端で、晋太郎が無言で立っている。
カフェの奥の壁際に、もたれるようにして。

でも──
その輪郭が、どこかあやふやだった。
輪郭がにじんで、少し揺れている。

(やだ……ここで、崩れるの?)

指先で、こめかみのフレームを押さえる。


「空いてますか?」
私は、店員にそう言って、全く別の席──入り口近くのカウンター席を指さす。

「どうぞ」と言われ、私はさっさと視線を逸らし、すれ違うようにして奥のふたりの前を通りすぎた。
一度も目を合わせないまま。

晋太郎も、後ろからついてくる。
……いつもならそうだった。
けれど今、足音が聞こえない。


席に着いて、コップの水を飲み干した。

一気に飲みすぎて、少しむせる。

カバンから取り出したスマホの画面が、手元で震えた。


背中を向けて座っていたけれど、後ろの気配にはずっと気づいていた。
声は聞こえないのに、声よりもはっきりと、ふたりの間に流れている空気が伝わってくる。

──私が、いないところで話される「私」のこと。
「焦らず見守ろう」って、どういう意味?

視線を落としたまま、コーヒーに口をつけた。
熱くも冷たくもない味が、喉を通っていく。

そのとき。

「……白葵さん?」

振り返らなくても、わかった。美晴の声だった。

顔を上げると、彼女が立っていた。テーブルの横に、小さく首をかしげている。
少しだけ戸惑ったような、でも、いつも通りの柔らかい表情だった。

「あ、うん。……なんか、たまたま。通りがかりで」

自分でも何を言ってるのかよくわからない。
「たまたま」じゃないし、「通りがかり」って言い方も妙だ。

そのまま、佐川くんも立ち上がって、軽く頭を下げた。

「こんにちは、白葵さん。びっくりしました」

「……うん、ごめん。お邪魔だった?」

そう言ったあとで、「お邪魔」って、どっちに対して? と自問する。
会話を邪魔したこと? それとも……このふたりの時間自体を?

「ううん、全然そんなことないよ」
と、美晴は笑った。すごく自然な、緊張をほどくような笑顔だった。

「もしよかったら、今度ちゃんと話さない? 最近、あんまりゆっくり話せてなかったし」

「……え?」

不意に差し出された提案に、私は少し固まってしまった。
心のどこかで「また避けられる」と思っていたから、逆の反応が来たことに驚いた。

「今日じゃなくていいから、今度。職場じゃなくて、もうちょっと静かなところで」

美晴の声は、穏やかでまっすぐだった。
まるで「観察」でも「心配」でもなくて、「ちゃんとあなたの言葉を聞きたい」と言われたような。

「……わかった。うん、ぜひ」

そう答えた瞬間、ようやくバニティネルのレンズ越しに映っていた晋太郎の姿が、
少しだけ──本当に、少しだけ──薄れたように見えた。

いや、きっと気のせい。設定のせい。
……それでも、今この場でバニティネルを外してしまおうかと思ったくらいには、心が揺れていた。

佐川くんが、そんな私をちらりと見て、微笑んだ。

「また、会社で」

そう言って、ふたりは席に戻っていった。

私は、しばらくその背中を見ていた。

美晴は、私にとって「わかりすぎる」相手だと思っていた。
でも今は少しだけ、“わからない”彼女として、近づいてきた気がする。

それが、どうしようもなく──ちょっと、嬉しかった。

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