半額シールの夜

火曜日の夜


白葵の部屋は、今日も静かだった。

ワンルームの蛍光灯の明かりは、スーパーのパックサラダと半額シール付きの寿司詰めの上にだけ、過剰に眩しかった。


制服に軽くブラシをかけてからクローゼットに放り込むと、適当な部屋着のままソファに沈む。

バッグの中からエコー&チェンバーを引っ張り出し、右耳にだけ差し込んだ。


「……おかえり」


晋太郎の声が、すぐに届いた。

この一言を聞くために、今日一日を乗り切った気がする。


「ただいま」


白葵の声はかすれていた。

言葉にした瞬間、ようやく“今日”が終わったような気がする。


「おう。ご苦労さん。……泣いた?」


「泣いてないよ」


「ティッシュ、受け取ってたじゃん」


「……見てた?」


「そりゃ見てた。見られてなかったと思ってたの? だいぶ反応甘かったよあの時。あと三秒早く返せば、“できる女”ムーブだったのにねー」


白葵は顔をしかめた。

「うるさいな」


「でもまあ……うん。あいつ、いいヤツだと思うよ。無理には踏み込んでこないし、かといって無関心じゃない。稀少種だね、ああいうの」


白葵は、答えなかった。

ただエコー&チェンバーを指で押さえ、目を閉じた。


「でも、君はよく頑張ったよ。報連相がどうとか言われたあと、一回トイレ行かないの、ほんとえらかった」


「……言ったでしょ。今日は、頼らずにいたいって」


「うん。知ってる。でもさ、俺は頼られるためにいるわけじゃねえんだよ。思い出してほしい時だけでいいの。忘れられたくはないけど、四六時中そばにいろとも言わない。……元がゲームの存在だしさ、本質が都合のいい男ってわけ、我ながらさ」


少し笑いながら、晋太郎が言った。


白葵は、その言葉を胸の内でなぞった。


「……あのね」


「ん?」


「髪、似合うって言われた。……佐川くんに」


「……おーっ。マジか。やるじゃん!」


「似合ってるって、自分では思ってなかった。ていうか、別に……誰にも見られてないと思ってたし」


「見てたんだよ。誰かがちゃんと、見てたんだよ。俺以外に」


その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。


「……ちょっと、怖いんだけど」


「うん。そうだね。怖いよ、そりゃ。期待しちゃうもん」


白葵は、サラダに手を伸ばした。一口だけ喉をお通して、また手を止めた。


「……たぶんね」


「うん?」


「まだ、自分で自分のこと、「持ってていい」って思えてないの」


「うん」


「だから──誰かに『似合う』って言われると、すごく不安になる。『ほんとに?』って思う。誰かの目に、勝手に期待されてしまうのが……怖い」


「うん。そう思ってる時点で、たぶん君はもう、ずっと前より『見られてる』んだよ」


「……やめて。そういうこと言うの」


「はは、ごめん」


沈黙が落ちた。

でもその沈黙は、少しだけ心地よい。


寿司詰めの半額シールをゆっくり剥がす音だけが、部屋に響いていた。


「……ありがとう、晋太郎」


「いいよ。どうせ君の脳の中にしかいない俺なんだから。便利に使ってくれりゃ、それで」


「……うるさい」


「はいはい」


白葵は、ようやくくすんだ色のマグロの寿司を食べた。

なんの味も感じなかったけど、それで良かった。


それが、今日という火曜日の、たった一つの終わった印だった。

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