髪、変えたんですね
昼休み。
コーポレート・サポート室の業務はいろんな部門の調整とかバックオフィス業務。「国際異種格闘大会無差別級」みたいなもので、そこに何がぶち込まれているかは日によってまちまちなので、まあ疲れるのである
人が少なくなったフロアの隅、休憩室の前にある自販機の前で、白葵は小銭を手にして立っていた。
手元の百円玉が、うまく入っていかない。
指先が汗ばんでいる。いつもならペットボトル一本買うだけのこの行為が、妙にぎこちない。
ようやくコインが飲み込まれ、「ジャスミンティー」と書かれたボタンを押した瞬間、背後から足音がした。
「……失礼します」
小さな声。佐川くんだった。
少し離れた部署の同期の若手社員。たまに仕事で名前と姿を見る程度で、実は未だにまとまった会話をしたことがなかった。いつも静かで、人目を避けるように動くところは、どこか自分と似ていた。
「どうぞ」
白葵はそそくさと買ったペットボトルを取り、自販機の前を空けた。去ろうとしたそのとき。
「……髪、変えたんですね」
背後から、その声が飛んできた。
え? と振り向いたわけでも、返事をしたわけでもない。けれど、彼は目線を合わせず、缶コーヒーのボタンを押しながらぽつりと続けた。
「……いいと思います。よく、似合ってます」
カシャン、と缶が落ちる音が、やけに大きく響いた。白葵は、自分の持つペットボトルが急に重くなったような気がした。
「……ありがとう、ございます」
それだけ言うのがやっとだった。
声が自分の喉から出ているのに、どこか遠くで誰かの言葉のように感じた。
佐川は缶を受け取り、軽く会釈して、黙ってその場を去っていった。特に会話が続くわけでもなく、振り返ることもなく。
白葵は、自販機の脇の壁にもたれて、そっと息を吐いた。自分では気づいていなかった。
自分の髪型が変わったことは、誰かの目に、ちゃんと映るんだと。
職場では、誰も彼もが“自分のことで精一杯”だとずっと思っていた。だからこそ、白葵も“無”でいられた。期待もされない。失望もされない。
でも──違った。
「……変えたんですね」
その一言が、何かを静かに崩した。
崩したというより、ほどいたのかもしれない。
見られることが、怖かった。
でも、見ていてくれる人がいるというのは、こんなにも──
普段ならトイレで晋太郎と言葉を交わす時間だ
でも、白葵はトイレに行かなかった
今は、彼に頼らずにいたい気がした。
これは──
ほんの少しだけ、自分だけの気持ちとして持っていたかったから。
ーおっ?少しみないうちにいい感じになってきたんじゃねえの?
カバンの中のエコー&チェンバーから晋太郎の言葉が漏れていた
白葵は自販機から離れて、ゆっくりとフロアを歩いていた。
視線はまだ少し落ち着かず、心の中で昨日の佐川とのやり取りを反芻している。
すると、明るい声が背後から飛んできた。
「おっ、白葵ちゃん!その髪、めっちゃ似合ってるじゃん!」
振り返ると、そこにはいつも元気で明るい美晴がいた。
「ありがとう…」白葵は照れくさそうに笑う。
「ねぇ、今度ランチ一緒にどう?仕事の合間の息抜きにさ!」
美晴の言葉に、白葵の胸の奥に小さな動揺が走る。
「うん、いいよ」
その返事に、彼女は自分でも驚いた。
「じゃあ決まりね!またあとでねー」
そう言い残して、美晴は軽やかに去っていった。
白葵はふと立ち止まり、背中に残る美晴の明るさを感じた。
――そう、もしかしたら、これから自分の心を揺さぶる存在になるのかもしれない、と静かに思った。
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