トイレで遊びすぎないように

時計を見れば、まだ11時半。昼休みまで、あと少し。

でも、なんだか気持ちが揺れてしまって、トイレの個室に入った。


鞄から、メガネ型ケースを取り出す。カチャ、と静かな音。

イヤホンに見えるそれを耳にかけると、世界が少しだけ曇って、別の誰かに会える。


「……職場ブースト切れた?」

晋太郎の声が、いつもの調子で聞こえた。


「ちょっと疲れただけ」


「朝は結構シャキッとしてたろ。あのサングラス、気に入ってたのに」


「……美晴さんにも言われた」


「お、人気者だな」


「そうじゃない」


「じゃあ何?」


「……ちゃんと見られるのが、ちょっと怖かっただけ」


小さな沈黙。個室の静けさが、余計に言葉を反響させる。


晋太郎が、少しだけ低い声で言った。


「でも、ちゃんと見られたんだろ?」


私は、答えなかった。答えられなかった。


それでも。

その短いやりとりのあと、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。


個室を出るとき、鏡の中の自分をちらりと見る。
表情は……まだ曖昧だったけど、少なくとも、消えかけてはいなかった。

深呼吸ひとつ。手を洗うついでに、もう一度鏡を見る。
極彩色のサングラス──じゃなくて、バニティネルをかけたままの自分の顔。

──あ、まだ外してなかった。

「ま、いっか……すぐ戻るし」

無意識のまま、バニティネルを外さずに個室を出てしまった。

そのとき──

「──あっ、天竺さん?」

声の方に振り向くと、ちょうど洗面台の前にいたのは、美晴だった。

彼女の視線が、私の耳元にぴたりと止まる。

「……あ、それ。バニティネル?」

一瞬で血の気が引いた。
どうして外さなかったのか。いや、それ以前に、なんでこんなタイミングで……

「え、あ、う……」

言葉が出ない。声が詰まる。

美晴は、そんな私の動揺を見透かしたように、ふっと笑った。

「うちの弟も使ってるよ、似たやつ。寝る前に、誰かと話すやつでしょ?」

「……う、うん」

「そっかー。……ていうか、そういうの、持ち歩けるのいいな。私も欲しいかも」

さらりとそう言って、すぐに目線を外す。
詮索もしないし、茶化しもしない。ただ、「あるもの」として、そこに置いてくれた。

「あ、じゃあ……お昼、先に行っててね。私、ちょっと顔直してくるから」

そう言って、美晴は軽やかに個室に入っていった。

残された私は、洗面台の前に立ち尽くす。
そして、ようやくバニティネルを外した。



ふと、鏡の中の自分と目が合う。


……さっきまでより、少しだけ、肩の力が抜けていた。

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