第38話 悪役聖女と深夜の賭け

 その夜、私は、自室の窓辺に立ち、ただひたすらに、その時が来るのを待っていた。

 月は雲に隠れ、王都は深い静寂に包まれている。だが、王宮の奥深くでは今、この国の運命を左右する、危険な賭けが行われているはずだ。


 アルフォンス殿下は、無事に薬をすり替えられるだろうか。もし、誰かに見つかってしまったら? もし、万が一、私の作った薬が、国王陛下の身体に悪影響を及ぼしてしまったら? 次から次へと湧き上がる不安を、私は、静かに息を吸い込むことで押し殺す。


(……あの王子が、ここまでやるとは、思ってもみなかったわね)


 傲慢で、思慮が浅く、顔だけが取り柄の空っぽ王子。それが、私の彼に対する評価だった。だが、今は違う。彼は、自らの過ちと向き合い、父を、そして国を守るために、大きなリスクを背負って戦おうとしている。


 敵だと思っていた男と、今、こうして、誰にも言えない秘密を共有し、運命を共にしている。人生とは、なんと皮肉なものだろうか。

 私は、目を閉じ、意識を集中させた。薬に込めた、ごく微弱な浄化の魔力。その気配を、糸のように手繰り寄せる。

 研ぎ澄まされた感覚の中に、王宮の情景が、断片的に、しかし鮮明に浮かび上がってきた。


 ……深夜の静まり返った廊下。大理石の床を、音もなく進む一つの足音。殿下だ。彼の心臓の鼓動が、こちらまで伝わってきそうなほどの、極度の緊張。

 ……侍医頭の部屋の前。彼は、懐から取り出した鍵で、慎重に扉を開ける。クロードが、事前に調べてくれた、侍医頭の部屋の合鍵だ。

 ……薬が保管されている、小さな黒檀の小箱。それに、彼の手が伸びる。小瓶を、すり替える。その指先が、わずかに震えていた。

 その時、廊下の向こうから、かすかな足音が聞こえた。まずい、誰か来る!

 殿下は、咄嗟にカーテンの陰に身を隠す。すり替えは、ギリギリで成功した。

 部屋に入ってきたのは、侍医頭本人だった。彼は、何も気づくことなく、小箱から薬瓶を取り出すと、国王の寝室へと向かっていく……。


 そこまで感じ取ったところで、私は、ふっと意識を現実に戻した。

 しばらくして、胸元に下げていた「王家のお守り」が、微かに、そして温かく、一度だけ光った。


 殿下からの、作戦成功を知らせる合図。私は、安堵の息を、大きく、そして長く、吐き出した。第一段階は、成功した。本当の勝負は、これからだ。


 翌日、クロードから、新たな情報がもたらされた。


「リディア様、妙な動きがありました。もう一人の聖女様が、昨夜、深夜にもかかわらず、侍医頭を自室に呼びつけていたとのことです」

「昨夜、ですって?」


 薬をすり替えた、まさにその夜に。二人は、一体何を話していたというのか。私達の動きが、彼らに、何らかの波紋を広げたのかもしれない。


 そして、作戦決行から、三日後のことだった。

 王宮全体が、にわかに騒がしくなっているという報せが、私の元にも届いた。

 その直後、胸元のお守りが、今度は、緊急を示すように、激しく点滅を始めた。殿下からの、緊急連絡だ。

 私は、慌てて魔道具を起動させる。水晶に浮かび上がった彼の顔は、蒼白だった。

『リディア、すぐに来てくれ! 父上の容態が……!』

 その声は、ひどく焦っていた。だが、その奥に、絶望ではない、何か別の感情……驚きと、そして、興奮のような響きが混じっているのを、私は聞き逃さなかった。


 国王陛下の身に、一体、何が起きたというの? 作戦は成功したのか。それとも、私達の知らない、予期せぬ事態が発生したのか。

 私は、侍女に馬車を準備させると、心臓の激しい鼓動を感じながら、王宮へと急いだ。

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