あの夏の色を探して
もぐらねこ
プロローグ
古びたブレーキ音とともに、電車が小さな駅へと滑り込んでいった。
ドアが開き、ホームに一歩足を踏み出した瞬間、もわっとした夏の空気が肌を包み込む。都会とは違う、湿度と草の匂い、そしてほんのりとした潮の香り。蝉の声が、夏の真ん中を叫ぶようにけたたましく響いていた。空はよく晴れていて、遠くの山の上に白い入道雲がゆっくりと浮かんでいる。
久しぶりの――いや、どこか懐かしすぎるこの町。
あまりの懐かしさに、身体の動きさえぎこちない。けれど自然と、昔の記憶の足跡を辿るように足は動いていた。
改札を出たその先。一本の大輪の向日葵が咲いていた。
信じられないくらい背が高くて、空に向かってまっすぐ伸びている。たった一本。けれど、なぜか目が離せなかった。
その姿は、何も知らずにただがむしゃらに走っていた――あの頃の自分。
……あの日から、もうどれほどの時が過ぎただろうか。
周りの目には、失望の色が滲んでいた。あの場所に、もう戻れないと思った。戻りたくないと思った。顔を上げて歩く自信も、もうなかった。
祖母の家に泊まる――そんなもっともらしい理由をつけて。本当は、ただ逃げてきた。それだけだった。
スーツケースを転がしながら坂を下る。
見慣れたはずの町は、時間だけが止まっているかのようだった。でも――思い出せない。
この町で何をして、誰と過ごし、どんな夢を見ていたのか。
記憶のなかに決定的な何かがぽっかりと抜け落ちていた。
確証はない。でも、どこか確信に似た感覚があった。
――きっと、あの子のことだ。
記憶の奥に、女の子がいた。夏の光の中で、僕と一緒に笑っていた。
でも、顔も、名前も、声も思い出せない。
それなのに、胸の奥にだけは確かな感触が残っている。
レモネードを飲んだ夏祭りの日。笑い合った午後。風に吹かれて流れていった、あの声。
そのすべてが、記憶の霧に包まれていた。
「……なつみ」
ふいに、声が漏れた。それが本当の名前だったのかさえ分からない。
けれど、口にした瞬間、さっきまで感じていた潮の香りがふっと消えて、喉の奥が乾くような感覚に襲われた。
思い出したい。会いたい。
そんな想いが、水を張ったコップに絵の具を一滴垂らしたように、じんわりと胸に広がっていく。
――そのときだった。
坂の先、神社の鳥居の下に、白いワンピースの少女が立っていた。麦わら帽子をかぶり、まっすぐこちらを見ている。陽炎に揺れるその姿は、まるで幻のようだった。
気がつくと、僕は走り出していた。汗ばんだシャツを夏の風が撫でていく。荷物なんてどうでもよかった。ただ、胸のざわめきだけが「行け」と言っていた。
「なつみ?」
「えっ!?」
少女は一瞬、驚いたように目を見開いた。
けれどすぐに、静かに笑った。
その微笑みは――懐かしくて、少し寂しげで、でもどこか、ほんの少しだけ違っていた。
「
「うん。久しぶりに……帰ってきたんだ」
「そうなんだ……。『おかえり』って、言ってもいいのかな」
その言葉に、どこかでやわらかな夏の風が吹いた気がした。
「……ただいま」
遠くで蝉が鳴いている。あの夏の面影を、そっとなぞるように――。
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